政所は、鎌倉幕府において財政と訴訟を管轄した機関である。
元々、政所は公卿(三位以上の位階をもつ身分)の家政機関である。
源頼朝は平家追討の褒賞として従二位となった(=公卿となった)際に、それまで政所の代わりとしていた『公文所』と呼ばれる家政機関の名称を『政所』に改称したとされるが、政所と公文所をそれぞれ別の機関として考え、公文所を政所の一部とする見解もある。
政所ができるまで
東国支配権の確立
元暦元年(1184)に行われた朝廷との交渉で、平家没官領のうち東国領については、平家が支配していた領地でなくとも頼朝が必要とするなら知行を認めることになった。
朝廷が東国の荘園・公領の支配権を回復して年貢を調達するためには、頼朝の力が必要不可欠だったからだ。
こうして、東国の大部分が関東御領(鎌倉幕府の基盤)となった。
東国領の自然知行
文治四年(1188)、朝廷から東国の荘園について年貢未払いの訴えがあった。
これに対し頼朝は、私的に神社へ寄進してしまった所領は”朝家のご祈祷”のための寄進だと言って、没官領ではない下野国は東国領として自然知行してきたと述べている。
政所の設立
膨大な関東御領や関東知行国を経営するためには、財政機関の整備が必要だった。
前右大将家政所の開設
建久二年(1191)1月15日、政所の吉書始(年始や官職昇進後のようなときに儀礼的に行う文書作成行事)が行われた。
今回は頼朝の右近衛大将就任(辞退したが、任命されたことに変わりはない)のために行われた。
この時、政所の職員として令に二階堂行政、別当に大江広元、知家事に中原光家、案主に鎌田俊長の4人の名前が記され、その他に問註所執事に三善康信、侍所別当の和田義盛と所司梶原景時、公事奉行人の中原親能以下7人、京都守護一条能保、鎮西奉行天野遠景の名が記されている。
いずれもこれ以前に与えられた役職だが、政所吉書始で改めて幕府支配機構内の立場が確認された。
別当は時期によって2〜9名の変動があり、令または別当のうち一人は執事と呼ばれた。
関東御領(将軍直轄領)の管理や将軍一家の生活上の必要の充足といった将軍の私的な経済の管理を中心に、将軍の直轄支配であった鎌倉の市政や将軍直轄社寺の管理、将軍に人格的に従属する御家人たちの所領の給与・安堵の事務を担当した。
現在まで残っている政所の発給文書では建久五年(1194)までは”将軍家政所”という名前で記されているが、建久六年(1195)に頼朝が征夷大将軍を辞退してからは元の”前右大将家”に戻っている。
政所の一部?公文所
公文所は、政所の一部あるいは前身として考えられている。
『吾妻鏡』では元暦元年(1184)11月6日未の刻に新造の公文所の吉書始が行われたことになっているが、「初めて設立された」とは記されていない。
袖下判文から政所下文へ
所領安堵や新恩給与の様式を頼朝による袖半下文から政所のスタッフが署判する政所下文の様式に変えられたことから、頼朝は政所を重要な機関として位置づけていたのか、幕府の基盤を安定させる建久年間には政権構想のなかで政所が大きな位置を占めていたようだ。
だが、小山朝政をはじめとした有力御家人のなかには、頼朝個人の署判を望むものもいて、政所下文のほかにも頼朝個人の署判がある下文を求めたという。
歴代の将軍は政所開設の資格を与えられ三位に叙されるまで政所下文の形式は使わず、袖判下文を使った。
下文の役割
下文とは立場が上の者から下の者に与える文書の様式である。
頼朝が発給した下文には「頼朝個人として出したもの」と「幕府として出したもの」の二種類がある。
さらに、頼朝個人の意志で出した下文は、最初は日付の次の行の上部に「前左衛門佐源朝臣」と花押を押したものが使われていたが、元暦元年(1184)3月に頼朝が木曽義仲追討の功績によって正四位下に叙せられてからは、文書の右部分に花押を押したものが使われている。
大江広元と二階堂行政
政所の充実に尽力したのが大江広元と二階堂行政だった。
大江広元は朝廷で太政官の事務官である外記を務めていた。
太政官は幕府でいうところの公文所や政所のような役割をもっていたので、広元の知識と技術が重用されたのだ。
二階堂行政もまた太政官の会計官司である主計寮の允を務めていた経験から政所の寄人、次いで政所の令に任ぜられ、幕府の財政を管理した。
政所の組織
上級職員
政所の上級職員は、別当・令・知家事・案主で構成されている。
別当または令のうちの一人が執事となり、政所の事務を担当した。
- 別当
- 令
- 知家事
- 案主
北条氏の台頭に伴い世襲制へ
北条氏が幕府の実権を握ると、執権と連署が別当を担うようになった。
それに伴い、執事は二階堂氏、知家事は清原氏、案主は菅野氏が世襲するようになった。
政所の下級職員
政所の下級職員には、実務を処理する寄人や雑務をこなす下部がいた。
- 寄人
- 下部
政所の役割
- 関東御領の経営
- 東国荘園・国衙領年貢を京都へ進上
- 御家人へ所職の給与・安堵
- 諸国の大田文の作成・保管
- 御家人に関わる訴訟の所管
御家人に関わる訴訟の所管
頼朝の没後、政所は訴訟機構としての役割も兼ね、一時期は裁判機構の中心となった。
しかし、嘉禄元年(1225)に評定が設置されてからは政所の訴訟・裁判機能は評定に移された。
これによって、幕府の裁判機構に鎌倉殿は関わらないことになった。
政所が発給していた下文も裁許状として使用されることはなくなり、所職の給与と譲与の安堵に限られるようになった。
この変更に伴い、鎌倉時代末期には政所が鎌倉市内の雑務沙汰を管轄することになった。
さらに、侍所とともに鎌倉市内の検断にも関わったという。
参考資料
- 五味 文彦「鎌倉と京 武家政権と庶民世界」講談社、2014年
- 田中大喜「図説 鎌倉幕府」戎光祥出版、2021年
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