鎌倉時代

牧氏事件

牧の方

牧の方は北条時政の正室で、池大納言頼盛の家人牧宗親の娘である。

牧氏は駿河国大岡牧をから「牧」の字を取った一族である。
建久二年(1191)、時政と牧の方との間に政範が生まれた。

牧氏事件

牧氏事件が起こった原因

畠山重保と平賀朝雅の口論

元久元年(1204)11月13日、北条時政と牧の方の子政範が亡くなり、夫婦は悲嘆に暮れていた。

そんな時に、畠山重忠の子重保と平賀朝雅の口論が起こった。
この報せを聞いた牧の方は大岡時親を使者として北条義時に訴え、時政の娘婿で重忠の従兄弟にあたる稲毛重成も重忠の謀反を幕府に訴えた。

北条時政の武蔵国進出計画

『吾妻鏡』建仁三年(1203)10月27日条によると、実朝が武蔵国の武士に対して時政に忠誠を誓うよう命じている。
当時の時政は政所別当として将軍代行として文書を発給する立場にあった。

畠山重忠は娘婿とはいえ武蔵国の伝統的な氏族である秩父平氏出身であり、重忠の排除なくして武蔵国を自分の支配下に入れるのは困難だと考えた。
そこで、政所別当という立場を利用し秩父平氏をはじめとした武蔵国の武士たちに忠誠を誓わせたのである。

畠山重忠誅殺に関わった人々の疑念が晴れないのを見た北条義時は、父時政に対して重忠誅殺の報告をするとともに改めて事実関係を確認した。
すると、時政は言葉を失ったので重忠にかけられた謀反の罪は冤罪ではないかという疑念はいっそう深まった。

だが、鎌倉幕府側は重忠を謀反の疑いで誅殺してしまった以上は、あくまで罪人という見方を変えなかった。
重忠誅殺は稲毛重成の謀略によるという噂もあったが、重忠とその仲間の所領は没収され、恩賞として御家人に与えられた。
畠山一族は名誉も財産も回復されることなく解体されたのである。

北条時政の追放

閏7月19日、牧の方が源実朝を廃して平賀朝雅を将軍に就けようと陰謀をめぐらせているという噂が広まり、騒動が起きた。

この知らせを受けた政子は、長沼宗政をはじめとした御家人らを名越亭に派遣し、将軍実朝を救出した。

観念した時政は出家し、騒ぎの翌日伊豆国北条館へ隠居に向かった。
執権には義時が就任することになった。

平賀朝雅の誅殺

義時は平賀朝雅の誅殺を命じる使者を京都へ派遣し、26日六角東洞院での合戦後、朝雅は松坂で山内通基に討ち取られた。
なお、合戦は京都の市街地で行われたため、戦況をきいた藤原定家が『明月記』に合戦の詳細を記している。

こうして、鎌倉幕府は義時と政子の手に委ねられることになる。

参考資料

  • 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
  • 野口 実 (編)「治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)」清文堂出版、2014年
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やみみん

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