倶利伽羅峠の戦いは、寿永二年(1183)5月11日に起こった戦い。
平氏軍は越中国に入り、木曽義仲と源行家ら源氏軍が迎え撃った。
平氏軍は敗北し、過半数の兵が討たれたという。(『玉葉』同年5月16日条)
『平家物語』における記述
『平家物語』における倶利伽羅峠の戦いは木曽義仲の優れた軍略を示している。
『延慶本』では義仲が合戦の勝利祈願のために白山に願書を送り、合戦では白山権現の加護があったという。
あらすじ
源氏と平氏の両軍は互いの陣の間がわずか三町ばかりのところまで近付き、対峙した。
先に源氏方が優れた十五騎の兵を進ませて、十五騎が平家の陣めがけて矢を放った。
平氏方も同じく十五騎を出して、十五の矢を射返した。
源氏方は日が暮れるまで戦い平氏方を倶利伽羅峠へ追い落とそうと思っていたのを、平氏は少しも気付かずに源氏方に応戦していた。
辺りが暗くなってくると、搦手の軍勢一万余騎が倶利伽羅の堂周辺で合流し、ときの声を上げた。
平家が振り返ると、源氏の白旗が雲のようにたなびいていた。
「この山は四方が岩壁に囲まれているから源氏は搦手に回るまいと思っていたのに、どうしたことか」と騒ぎあった。
木曽義仲は搦手の軍勢に合わせてときの声を上げた。
周りの軍勢もそれに呼応してときの声を上げた。
四万騎の喊声が轟くさまは、山も川も一気に崩れてしまうのではないかと思われるほどだった。
平氏方は総崩れとなって倶利伽羅峠へ逃げていった。
空は真っ暗になっていたので谷の底が見えず、馬には人、人には馬が落ちて重なり、深い谷が七万余騎の平家の軍勢でいっぱいになってしまった。
平家の主力として頼りにされていた上総忠綱、飛騨景高、河内秀国も谷底に埋まってしまった。
瀬尾兼康という大力の勇士も加賀国住人倉光成澄に生け捕りにされた。
平泉寺の長吏斉明威儀師も捕えられ、義仲の命令で斬罪に処せられた。
平氏の大将軍平維盛と平通盛はなんとか助かり、加賀国へ退却した。
七万余騎の軍勢のうち、生きて逃げられたのはわずか二千余騎だった。
参考資料
- 永井晋「平氏が語る源平争乱 歴史文化ライブラリー」吉川弘文館、2019年