平安時代 陰陽道

庚申信仰

庚申信仰

庚申信仰は中国の道教における習俗が平安時代に陰陽道の一種として伝わったもので、干支の一つである庚申の日の夜に社寺の庚申社や庚申堂に集まり、お神酒や精進料理を供えて祭事を行い、一晩を過ごした習俗である。
平安時代、庚申の日は一晩中寝ずに起きている習慣があった。

概要

庚申信仰の歴史

庚申信仰で祈ることになっている青面金剛と三尸の虫が結びついたのが唐代の密教経典『青色大金剛薬叉辟鬼魔法』であることから、唐代に習合した庚申信仰が奈良時代末から平安時代に天台系の密教によって持ち込まれたと考えられている。
庚申信仰は江戸時代に全盛を極めたが、明治位時代以降は根拠のない迷信として排撃され、闇の彼方に埋没した。

古記録に見る庚申日

和暦(西暦)月日典拠
延喜七年(907)4月14日醍醐天皇御記
延喜二十一年(921)2月3日醍醐天皇御記
延喜二十三年(923)4月16日醍醐天皇御記
延長四年(926)5月5日日本紀略
承平六年(936)2月1日年中行事秘抄
天慶元年(938)7月15日本朝世紀
天慶二年(939)5月19日本朝世紀
天慶二年(939)6月28日九暦
天慶三年(940)4月25日貞信公記抄
天慶四年(941)9月3日本朝世紀
天慶五年(942)1月5日九暦
天慶五年(942)3月6日本朝世紀
天慶五年(942)4月7日本朝世紀
天慶七年(944)6月20日日本紀略
天慶八年(945)5月25日日本紀略
天慶八年(945)7月26日本朝世紀
天慶九年(946)10月3日貞信公記抄
天慶十年(947)4月5日日本紀略
天暦元年(947)10月4日日本紀略
天暦元年(947)6月7日日本紀略
天暦元年(947)11月10日日本紀略
天暦二年(948)1月10日日本紀略
天暦二年(948)5月12日日本紀略
天暦三年(949)1月16日日本紀略
天暦三年(949)3月17日日本紀略
天暦三年(949)7月19日日本紀略
天暦三年(949)9月20日日本紀略
天暦四年(950)1月22日夫木和歌抄
天暦四年(950)5月23日日本紀略
天暦六年(952)1月3日御遊抄
天暦六年(952)8月30日為房卿記
天暦七年(953)10月13日古今著聞集
天暦九年(955)6月23日小右記
天暦十年(956)5月29日歌合
天暦十一年(957)2月2日日本紀略
天暦十一年(957)4月3日日本紀略
天暦十一年(957)8月6日類聚符宣抄
天徳二年(958)2月8日日本紀略
天徳二年(958)4月9日日本紀略
天徳二年(958)6月10日日本紀略
天徳二年(958)9月13日日本紀略
天徳三年(959)1月14日日本紀略
天徳三年(959)5月16日日本紀略
天徳三年(959)7月17日日本紀略
天徳三年(959)9月18日日本紀略
天徳三年(959)12月10日日本紀略
天徳四年(960)3月21日菊亭文書
天徳四年(960)9月23日日本紀略
天徳五年(961)1月25日日本紀略
応和元年(961)6月28日日本紀略
応和二年(962)1月1日日本紀略
応和二年(962)3月3日日本紀略
応和二年(962)5月4日日本紀略
応和二年(962)11月6日日本紀略
応和三年(963)1月7日日本紀略
応和三年(963)3月8日日本紀略
応和三年(963)7月10日祈雨記
応和三年(963)9月11日日本紀略
応和三年(963)11月12日日本紀略
応和三年(963)閏12月12日日本紀略
応和四年(964)4月15日日本紀略
康保元年(964)8月17日日本紀略
康保元年(964)12月18日日本紀略
康保二年(965)2月19日日本紀略
康保四年(967)4月2日日本紀略
康保四年(967)6月3日本朝世紀
康保四年(967)8月4日本朝世紀
康保四年(967)10月5日日本紀略
安和元年(968)2月7日日本紀略
安和元年(968)4月8日日本紀略
安和二年(969)4月13日日本紀略
天禄四年(973)3月6日親信卿記
天禄四年(973)5月7日親信卿記
天延二年(974)5月13日親信卿記
天延三年(975)4月18日日本紀略
天延三年(975)12月23日日本紀略
天延四年(976)2月23日日本紀略
天延四年(976)4月24日日本紀略
天延四年(976)6月23日日本紀略
貞元元年(976)8月26日源順集
貞元元年(976)10月27日源順集
貞元元年(976)12月28日日本紀略
貞元二年(977)8月2日日本紀略
貞元二年(977)12月4日日本紀略
貞元三年(978)2月5日日本紀略
貞元三年(978)4月6日日本紀略
天元二年(979)2月11日日本紀略
天元二年(979)4月12日日本紀略
天元二年(979)6月13日日本紀略
天元三年(980)2月16日日本紀略
天元三年(980)閏3月17日日本紀略
天元三年(980)5月18日日本紀略
天元三年(980)7月19日日本紀略
天元四年(981)3月23日日本紀略
天元四年(981)11月16日小記目録
天元五年(982)1月27日小右記
天元五年(982)3月28日小右記
天元五年(982)5月29日小右記
永観二年(984)11月14日小右記
永観三年(985)1月15日小右記
永観三年(985)3月16日小右記
寛和元年(985)5月16日小右記
寛和二年(986)4月22日日本紀略
寛和三年(987)2月27日小右記
永延元年(987)4月28日小右記
永延元年(987)6月29日小右記
永延二年(988)10月7日小右記
永延三年(989)2月9日小右記
永延三年(989)4月10日小右記
永祚元年(989)10月12日小右記
永祚元年(989)12月13日小右記
正暦元年(990)10月18日小右記
正暦四年(993)2月2日小右記
正暦四年(993)4月2日小右記
正暦四年(993)6月3日小右記
長徳二年(996)5月21日小右記
長徳三年(997)5月24日信経記
長徳四年(998)9月4日
長徳四年(998)11月5日権記
長保元年(999)3月7日御堂関白記
長保元年(999)6月9日御堂関白記
長保元年(999)8月10日小右記・権記
長保元年(999)10月11日小右記・権記・御堂関白記
長保元年(999)12月11日小右記・権記
長保二年(1000)2月12日権記
長保二年(1000)4月13日権記・御堂関白記
長保二年(1000)8月16日権記
長保二年(1000)10月17日権記
長保二年(1000)12月17日権記
長保三年(1001)2月18日権記
長保三年(1001)4月19日権記
長保三年(1001)6月20日権記
長保三年(1001)8月21日権記
長保三年(1001)10月23日権記
長保三年(1001)12月23日権記
長保四年(1002)1月24日権記
長保四年(1002)3月24日権記
長保四年(1002)7月27日権記
長保四年(1002)9月28日権記
長保五年(1003)1月30日権記
長保五年(1003)4月1日権記
長保五年(1003)6月2日権記
長保五年(1003)8月3日権記
長保五年(1003)10月4日権記
長保五年(1003)12月5日権記
長保六年(1004)2月6日権記・御堂関白記
長保六年(1004)6月7日御堂関白記
寛弘元年(1004)8月8日権記・御堂関白記
寛弘元年(1004)閏9月9日権記・御堂関白記
寛弘元年(1004)11月10日御堂関白記
寛弘二年(1005)1月11日小右記・御堂関白記
寛弘二年(1005)3月12日小右記・権記・御堂関白記
寛弘二年(1005)5月13日小右記・権記・御堂関白記
寛弘二年(1005)7月14日権記
寛弘二年(1005)9月15日権記・御堂関白記
寛弘八年(1001)2月16日御堂関白記
寛弘六年(1009)9月9日権記
長和二年(1013)3月29日御堂関白記
長和四年(1015)7月13日小右記
万寿元年(1024)12月6日小右記

庚申の夜の活動詳細

永観三年(985)1月15日

永観三年(985)1月15日庚申、庚申待ちが行われた。石灰壇において擲采の興があった。内蔵寮が碁手を献じた。また、衝重を設けた。(『小右記』)

永観三年(985)3月16日

永観三年(985)3月16日庚申の夜、藤原実資は内裏から庚申待ちに召されたが、障りを申して参内しなかった。(『小右記』)

永延二年(988)10月7日

永延二年(988)10月7日庚申の夜、庚申待ちが行われた。大勢の侍臣が宿所に来て、ある者は歌い、ある者は舞った。明け方まで及び、皇太后宮の周辺に参って舞い歌った。(『小右記』)

長保元年(999)6月9日

長保元年(999)6月9日庚申、内裏において庚申待ちが行われた。作文や管弦が催された。女方(源倫子)が菓子・紙などを差し入れた。(『御堂関白記』)

長保二年(1000)10月17日

長保二年(1000)10月17日庚申の夜、庚申待ちが行われた。蔵人兼宣が仰せによって御装束を用意したのは、式のとおりであった。一条天皇が出御された後、左大臣・右衛門督・左大弁らが召されて参上した。侍臣たちも伺候した。
内蔵寮は酒肴を侍臣たちに下賜した。その盃酌は、数え切れないほどであった。互いに絃歌を演奏した。ある者は詩句を詠み、ある者は歌曲を歌った。子の刻になって式部権大輔大江匡衡が題を献上した。「燕雀が相賀す」という題であった。(『権記』)

長保三年(1001)10月23日

長保三年(1001)10月23日庚申、庚申待ちが行われた。左大臣・右衛門督・弼宰相・左大弁が参入した。大弁がお題を献上した。その題は「霜樹、春の花を疑う」であった。藤原行成は探韻を行った。宮内丞道済が序者を務めた。侍臣の中で作文を行ったのは七、八人であった。その間に管弦が演奏されたが、藤原定子の期年の喪が未だに開けていないにもかかわらずこの事があったので、人々は困惑した。御書所でも同様に作文会が行われた。少外記慶滋為政が序者を務めた。お題は「菊は聖化の中に残る」であった。(『権記』)

長保五年(1003)6月2日

長保五年(1003)6月2日庚申の夜、庚申待ちが行われた。源道済が序を献上し、藤原広業が出題した。お題は「瑶琴は治世の音」であった。藤原行成は探韻を行った。同じ題で、御書所でも同様に作文会が行われた。(『権記』)

長保五年(1003)8月3日

長保五年(1003)8月3日庚申、庚申待ちが行われた。作文のお題は「秋はこれ、詩人の家」であった。藤原行成は探韻を行い、「情」を韻とした。(『権記』)

寛弘元年(1004)閏9月9日

寛弘元年(1004)閏9月9日庚申、藤原道長は物忌が重かったので、土御門第において籠居した。道長と同様に物忌に籠もった人々は庚申を守り、詩を賦して和歌を読んだ。(『御堂関白記』)

庚申信仰

庚申待ち

人間の体内には三尸の虫がいて、庚申の日になると人間が寝ている間に体内から飛び出し、天界の司命神にその人間の行状(罪過)を報告すると信じられていた。
寿命を司る神である司命神は、三尸の虫から受けた報告をもとにその人間を総合的に判断し、悪行が多かった場合は寿命を縮める。

こうして寿命が縮むのを防ぐために庚申の日は徹夜をすることになり、これを庚申待ちと呼ばれるようになった。

三尸の虫

三尸の虫には、上尸・中尸・下尸がいる。
上尸は頭、中尸は腸、下尸は足に潜んでいる。

ある人が「長生きしたいのですが、そのためにしていけないことはありますか」と尋ねました。
抱朴子は「人の体には三尸の虫がいる。三尸とはかたちのない霊魂や鬼神の類である。この虫は人を早く死なせたいと思っている。人が死ぬとこの虫は鬼となって思いのままに遊び歩き、死者を祀る供え物を食べることができる。そこで、庚申の日になると天に昇って司命神にその人が犯した過ちを報告する」と答えました。(『抱朴子』)

また、唐代に成立した道教経典『太上三尸中経』にはこう記されている。

人の体内にいる三尸の虫は、人が死ぬと祭祀を受けられる。
そのため、人の早死を望んで庚申の日の夜に体内から抜け出して上天し、天帝にその人の罪過を報告する。天帝は大きな悪事を犯した人に対しては紀(300日)、小さな悪事を犯した人に対しては算(3日)寿命を縮める。したがって長生を望むのであれば、庚申の日に徹夜する必要がある。これが守庚申である。守庚申を三度行えば三尸は震え、七度で絶える。三尸が滅すれば、精神は安定し長生する。(『太上三尸中経』)

三尸の虫を退ける方法

三尸の虫を追い出すためには、常に丹砂を服用する。丹砂一斤・醇苦酒三升・淳漆二升を混ぜ合わせて煎り、丸薬にする。四十日服用すれば、腹の中のあらゆる病気が癒えて、三尸の虫も去る。丸薬を百日服用すれば、肌や骨が堅強になる。千日服用すれば、司命が死籍を削る。(『抱朴子』)

庚申歌合

何もせずにじっとしていては眠くなってしまうため、庚申講という宴会が開かれるようになった。
宮中では詩歌管弦を催したり、歌合をした。

藤原元方民部卿の御孫が皇太子だったころ、帝が庚申待ちをしていたところへ、元方が参上した。他にも、藤原師輔をはじめたくさんの人々が伺候して、双六を打っていた。その頃は冷泉院が胎児だった時期で、それでなくでも世の人々は如何なものかと思っていたところへ、師輔が「さあ、今宵の双六遊びをしよう」と言うやいなや、「身ごもられている子が男子ならば、ぞろ目の六が出てこい」と言ってさいころを振ったところ、六の目が出た。その場にいた人々はみな目を見合わせて、素晴らしいことだと持て囃した。師輔は自分でも我ながらすごいと思っていたところ、元方の顔色がたいそう悪くなって真っ青になってしまった。そうして、後に元方は霊となって師輔の前に現れ「あの双六遊びの夜、心が深く傷ついてしまったのだよ」と言った。(『大鏡』「右大臣師輔」)

男女の交わりは厳禁

庚申の日の夜に男女が交わって子供ができると、その子は盗人になるという俗信があったので、庚申の日の男女の交わりは禁止されていた。

庚申の廃止

天元五年(982)の庚申の夜、藤原超子が脇息に寄りかかったまま亡くなったので、その一門では女房の庚申が廃止された。(『古事談』)

菅原道真の詩『庚申夜、述所懐』

故人詩友苦相思(故人なる詩友 苦相思ふ)
霜月臨窓独詠時(霜月 窓に臨みて 独り詠ずる時)
己酉年終冬日少(己酉の年終はりて 冬の日少なし)
庚申夜半暁光遅(庚申の夜半ばにして 暁の光遅し)
燈前反覆家消息(燈前に反覆す 家の消息)
酒後平高世嶮夷(酒後に平高す 世の嶮夷)
為客以来不安寝(客と為りて以来 安寝せず)
眼開豈只守三尸 (眼を開く 豈 只 三尸を守るのみならんや)

『庚申夜、述所懐』より

故人詩友苦相思(親しい詩の友に ひたすら思いを寄せる)
霜月臨窓独詠時(霜降る寒々とした月の下 窓辺に行き 独り詩を読む時)
己酉年終冬日少(己酉の年が暮れ 冬の日もわずか)
庚申夜半暁光遅(庚申の夜は半ばを過ぎ 夜明けの光は遅い)
燈前反覆家消息(灯火を前に読み返すのは 家からの手紙)
酒後平高世嶮夷(酒を飲んだ後に平らかになり高くなるのは 世間の険しさと安らかさ)
為客以来不安寝(旅人となってから 安眠したことはない)
眼開豈只守三尸(目を開いているのは なぜただ三尸の虫を防ぐためだけなのだろうか)

「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿

寺社などの古くから人が集まる場所には庚申堂と呼ばれる集会所が建てられた。
中でも、大坂の四天王寺は日本最古の庚申尊出現の地といわれています。
全国各地に残されている庚申堂や庚申塚には見ざる・言わざる・聞かざるの三猿の彫像が置かれていたり、刻まれている。

庚申の申は「さる」と読めることから神道の猿田彦大神と習合し、神社における庚申信仰の対象となった。

仏教では青面金剛が信仰対象

明治維新までは猿田彦と青面金剛が共存していましたが、廃仏毀釈の考えによって両者は分離された。
青面金剛は密教経典『陀羅尼集経』に登場する仏教の尊格で一切の猛獣、鬼、難病を退散・治癒する能力を持ち、特に伝尸病を治癒する霊力がある。
人を喰らう夜叉の姿で悪人を食べるといわれている。
修行者は西南(庚申の方角)に座って東北を向き、青面金剛壇法という修法を行う。
現在では神社の場合は猿田彦大神、寺院の場合は青面金剛が庚申信仰の対象となっている。

八坂庚申堂

八坂庚申堂の本尊は末法の世を救おうと阿弥陀如来と薬師如来が相談した結果、青面金剛となって現れた。

こんにゃく炊き

八坂庚申堂では庚申の日にこんにゃく炊きが行われ、参詣者に振る舞われる。
これには、こんにゃくによって腹の中にある三尸の虫を追い出す意図がある。
庚申の日に願い事を思い浮かべながら無言で北を向いてこんにゃくを食べれば、願い事が叶うといわれている。

陰陽五行における庚申

陰陽五行において、庚申は金性に該当します。
そのため、庚申の日は金気を避ける習慣があった。

安倍晴明と庚申待ち

九月の庚申の夜、晴明が殿上に伺候していたとき、天皇は晴明に皆の眠気を覚まさせるよう命じた。晴明はこれを承り、しばらくの間祈祷した。すると、その場にあったありとあらゆるものが一ヶ所に集まってきて踊り跳ねた。恐ろしくなった天皇は晴明に祈祷を止めさせ、皆を怖がらせないことをするように命じた。そこで、晴明は算木を持って置き広げた。すると、その場にいた人々は理由もなく可笑しくなって笑いが止まらなくなった。皆が笑い飽きたところで晴明が算木を崩すと、笑いは止んだ。(『安倍晴明物語』「庚申の夜、殿上の人々を笑わせしこと」)

安倍晴明物語(安倍晴明記) 現代語訳 庚申の夜、殿上の人々を笑わせしこと

基本情報 安倍晴明物語とは 内容 九月の庚申の夜、晴明が殿上に参上したとき、天皇をはじめ若い殿上人の多くが夜更かしをしており、眠気を催していた。 何か眠気を覚ます方法はないだろうかと、天皇は晴明を召し ...

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