元暦元年(1180)5月24日、源頼朝から鎌倉入りを禁じられた源義経は鎌倉の西の境界にあたる腰越駅に留まり、”腰越状”と呼ばれる書状を頼朝の側近である大江広元を介して頼朝に送った。
腰越状の内容は梶原景時らの讒言によって頼朝の怒りを買った義経が頼朝と対面できない悲しみを訴え、自らの不幸な生い立ちや平氏追討の功績を述べて許しを請うもので、『吾妻鏡』『平家物語』『義経記』に記されている。
腰越状は創作説が有力
『愚管抄』や『延慶本平家物語』では源義経の鎌倉入りについての記述がある。
また、源頼朝が義経を畿内近国の軍政指揮官として再び上洛させ、頼朝の申請によって任じられたことから、鎌倉下向の時点ではまだ義経は排斥されておらず、腰越状の話は後世の義経伝説に由来する創作とする説が有力である。
慈円は『愚管抄』で義経が伊予守に任ぜられ、鎌倉に出入りしていた頃から頼朝に謀反の心を抱くようになったと記している。
さらに、文治元年(1185)11月3日に義経が後白河から頼朝追討の宣旨を賜ったことも記されている。
義経の伊予守任官
文治元年(1185)8月16日、除目が行われて源氏が朝廷から多くの恩賞を賜ることになった。
その内容は山名義範が伊豆守、大内惟義が相模守、足利義兼が上総介、加賀美遠光が信濃守、安田義資が越後守、源義経が伊予守などだった。
義経の伊予守任命は義経の不義が露見する前から高階泰経に申請していたことで、今さら取り消すことはできなかったので勅定に任せたという。(『吾妻鏡』文治元年〈1185〉8月29日条)
義経の不義
景時の讒言
元暦元年(1185)4月21日、鎮西から梶原景時の飛脚が到着し、書状を献じた。
その内容は、以下の通りであった。
ですから、義経は自分ひとりの功績だと考えていますが、すべては皆が力を合わせたからです。
皆と言っても、判官殿のためを思っていたのではなく、君を仰いでいたからこそ、心を一つにして戦功を上げて平家を滅ぼしたのですが、その後の判官殿の様子は日頃の状態を越えていて、兵士たちは薄氷を踏む思いをしています。
特に、景時は御所でお側に仕え、特に厳命を受けておりましたので、その道理に反した行動を見るにつけ、関東(頼朝)のご意向に背いている、と諌めましたが、その言葉はかえって身の災いとなり、ともすれば刑罰を受けかねない状況です。
合戦が無事に終わった今、従う理由はありません。早くお許しを得て帰参したいと思います。
頼朝は二人の弟を四海に派遣する際、和田義盛を範頼に付け、梶原景時を義経に付けた。
頼朝に従順な範頼はあらゆる事を千葉常胤や和田義盛に相談したが、独自の考えを抱く義経は、頼朝の言いつけを全く守らず自分勝手に行動するので、景時に限らず多くの人々から反感を買っていたという。吾
さらに29日、御家人とともに西国に派遣された義経はすべてにおいて独断で行動しているという知らせがあった。
御家人たちは皆それぞれに遺恨があったので、「今後は、頼朝に忠節を尽くす者は義経に従ってはならない」という内容の手紙を田代信綱に送った。
『平家物語』腰越
梶原景時は次のように頼朝に言った。
天下は今や残すところなく貴方に服従いたしました。しかし、御弟の義経殿が最後の敵になると見受けられます。
その理由は、判官殿が「一ノ谷を上の山から攻め落とさなければ、東西の木戸口を破ることは困難だった。だから生け捕りも討ち取った者も義経に見せるべきであったのに、何の役にも立たない範頼の方をお目にかけることがあるか。重衡卿をこちらへ渡さないというのなら、義経が参って頂戴しよう」と言って今にも争いが起こりそうになったのを、景時が土肥実平と計って重衡殿の身柄を実平に預けてようやく収まったのです。
頼朝は深くうなずき、義経が鎌倉に向かっているためそれぞれ用心するように言った。
義経は腰越に追い返され、まったく不忠の心がないことを起請文を以て奏したが、景時の讒言によって頼朝は取り合わなかったので、義経は泣く泣く一通の書状を書いて大江広元のもとへ送った。
腰越状の内容
元暦二年(1185)5月24日、源義経は腰越駅で悶々とした日々を過ごしていた。
そこで、愁いのあまりに大江広元を介して頼朝へ一通の詫び状を送った。
広元はこの手紙を頼朝に渡したが、頼朝は「追って考えよう」と言っただけで、はっきりとした言葉はなかった。(『吾妻鏡』文治元年〈1185〉5月24日条)
『吾妻鏡』に記載されている腰越状の内容
『吾妻鏡』元暦二年〈1185〉5月24日条によると、手紙の内容は以下の通りである。
左衛門少尉源義経が恐れながら申し上げます。
私の思いますところは、(頼朝)の御代官の一人として選出され、勅命の御使となって朝敵を倒し、先祖代々伝わる弓矢の武芸を発揮して会稽の恥を雪ぎました。
本来であれば恩賞を与えられるべきところを、思わぬ虎口の讒言によって計り知れない功績が無視されることとなり、私は罪なくして罰を受け、功績こそあっても過ちはないのに、お怒りを蒙ってしまいむなしく涙に暮れています。
よくよく事態の原因を考えてみますと、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうという先人のことわざもございます。
このようなことで讒言が嘘か真かもはっきりしないまま、鎌倉にも入れてくださりませんので、私は本心を述べることができずいたずらに日々を送っております。
今となっては長い間お顔を拝しておらず、肉親であることも空しくなってしまったようです。私の運命も極まったということでしょうか。
はたまた前世の業によるものでしょうか。悲しいことです。
こうなっては、亡き父(源義朝)の霊に蘇っていただく以外に、誰に私の悲しみをお伝えし、誰が私を哀れんでくれましょうか。
今さら申し上げてもどうしようもないのですが、私は父上と母上から体を授けられましたが、すぐに故左馬頭殿(義朝)が亡くなられてしまったため、孤児となり母の懐に抱かれて大和国宇多郡の竜門牧に赴いて以来、一日も片時も安心して過ごしたことはなく、自分は生きていても仕方ないのだと思いながらも、京都の近くで暮らすことは難しかったので諸国を渡り歩き、身をあちこちに隠して生きてきました。
辺境の遠国を住処とし、土民百姓らの奉仕を受けてきました。
けれどもついに好機が熟して到来し、平家一族を追討するために上洛しました。
最初に木曽義仲を誅殺してから、平氏を滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬に鞭打ち敵のために命を落とすことも顧みず、ある時は大海原で風波の難に耐え、身を海の底に沈めて亡骸が鯨にさらされても悲しみませんでした。
さらには甲冑を枕として弓矢の武芸に専心するその思いは、すべて父上と兄上らの亡き魂の憤りをお休め申し上げ、かねてからの宿願を遂げようとする以外にございません。
その上私が五位の検非違使尉に補任されたことは、我が源家の面目であり、このような稀な重職に任官したことに勝るものがありましょうか。
ところが今は、愁いは深く、嘆きは切なるものがあります。
仏神のご加護なくして、どうしてこの訴えが届くことがありましょうか。
それゆえ、あちこちの神社の牛王宝印の裏に「私はまったく野心を抱いていません」と記し、日本国中の大小の神仏にお誓いし、数通の起請文を書いて献上しましたが、それでもなお許しはありませんでした。
そもそも、わが国は神国です。神は無礼な振る舞いをお許しになりません。
頼るところはほかにありません。
ひたすら貴殿(大江広元)の広大なご慈悲にすがるしかありません。
時期を見て(頼朝の)お耳に入れていただき、手立てを尽くされ、(義経に)非がないと認められてお許しいただけたならば、その善行は源氏の家に及び、その栄華は永く子孫に伝えられるでしょう。
そうすれば私の長い愁いもなくなり、生涯の安心を得ることができましょう。
私の文章では書ききれませんので、(詳細は)省略いたします。どうかお察しください。
義経が恐れながら申し上げます。
元暦二年五月日 左衛門少尉源義経
進上 因幡前司(大江広元)殿
参考資料
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
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