『今昔物語集』巻二十四第十六話「安倍晴明随忠行習道語(安倍晴明、忠行に随いて道を習うこと)」。
安倍晴明は幼い頃に百鬼夜行を目撃したことによって、師匠の賀茂忠行から陰陽道を隅々まで教わりました。晴明は陰陽道を究め、公私ともに活躍しました。その他、播磨国から一人の法師が晴明のもとを訪ねてきたり、晴明が式神を用いて蛙を潰す説話があります。
内容
今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師がいた。
昔の立派な人々に引けを取らぬほど優れた陰陽師だった。
晴明は幼い頃から賀茂忠行という陰陽師のもとで昼も夜もこの道を教わっていたので、不安なところは少しもなかった。
まだ晴明が幼かったとき、夜に師匠の忠行が下京辺りへ出かけて行ったので、晴明も師匠の乗った車の後ろを歩いて付いていった。
忠行は車の中でぐっすり眠っていたが、晴明は言いようがないほど恐ろしい鬼たちが車の前方からこちらに向かってくるのを目にした。
驚いた晴明は車の後ろに走り寄って師匠を起こし、鬼が現れたことを伝えた。
忠行は驚いて、鬼がこちらに向かって来ているのを見ると、自分とお供の者に術をかけて身を隠し、無事にその場をやり過ごした。
それから、忠行は晴明を常に側に置き、瓶の水をまるごと移すかのように陰陽道を隅々まで教えた。
そして、晴明はついにこの道を究め、公私ともに活躍した。
そうして忠行が亡くなった後、晴明は土御門大路から北、西洞院大路から東の邸宅で暮らしていた。
邸宅に晴明がいたとき、一人の老僧が訪ねてきた。
老僧はお供として十歳ほどの童子を二人連れていた。
「どちらさまですか。どこからいらっしゃったのですか」
「私は播磨国から来た者で、陰陽の道を習おうと志しております。貴方様はこの道において優れた人だと聞きまして、少しばかり教えていただこうと思ってこちらへ参りました」
この法師は陰陽道に精通している。私の力を試そうとしてここへ来たのだろう。下手に試されてもしものことがあっては困る。少しからかってやろう。
晴明は「法師がお供として連れてきた童子たちの正体は式神だ。もし式神ならば、すぐに隠せ」と心の中で念じて、袖の中に両手を引き入れて印を結び、法師に気づかれないように呪文を唱えた。
「たしかに承りました。ですが、今日は忙しいので時間が取れません。すぐにお帰りになって、吉日を選んでまた来てください。習いたいことは教えて差し上げましょう」
「まことに、ありがたいことです」
法師は手をすり合わせて額に当てて立ち上がり、走って帰っていった。
「もう一、二町は過ぎただろうか」と晴明が思っていると、例の法師が戻ってきた。
晴明が見ると、車宿などをのぞきながら歩いていた。
そうして法師は晴明の前に近づいてきた。
「お供の童子が、二人とも突然姿を消してしまいました。どうか返してください」
「奇妙なことをおっしゃいますな。なぜ私があなたの童子を取って隠すのでしょう」
「貴方様のおっしゃることは大変ごもっともでございます。どうかお許しくださいませ」
「わかったわかった。あなたが私を試そうとして、式神を連れてきたのが気に入らなかったのだ。他の者ならともかく、この晴明にそんなことをしてはいけないぞ」
晴明が袖に手を引き入れて呪文を唱えるようにしてしばらくすると、外の方から童子たちが走ってきて、法師の前に姿を表した。
「貴方様がまことに優れた陰陽師だと聞いて、試してみようと思って来たのです。それに式神を使うことは昔から容易いことではございますが、他人の式神を隠すことはより難しいことでございます。貴方様はなんとすばらしい方でしょう。これからは弟子としてお仕えしとうございます」
法師はすぐに自分の名札を書いて差し出した。
また、晴明は広沢の寛朝僧正という人の御房を訪れて用事を承っていたとき、若い公達や僧たちが晴明に話しかけてきた。
「式神を使われるそうですが、たちまちに人を殺めることもできるのでしょうか」
「この道において大事なことを、そのように軽率にお聞きになるのですな。そう容易く殺めることはできませんが、少し力を入れれば間違いなく殺めてしまうでしょう。虫などであればほんの少し力を入れるだけで必ず殺められますが、生き返らせる術を知らないので、罪づくりなことになりますから、やっても仕方のないことです」
晴明がそう言っていると、庭から蛙が五、六匹池の方に飛び跳ねて行った。
「あの蛙を一つ殺めてみてくれませぬか。あなたの力がどれ程のものか試してみましょう」
「罪づくりな方ですね。ですが、私を試そうというのであれば仕方ありませぬ」
晴明が草の葉を摘み取り、呪文を唱えるようにして蛙の方に投げやると、草の葉が蛙の上にかかったところで、蛙はぺしゃんこに潰れてしまった。
これを見た僧たちは真っ青になって怖気づいた。
晴明は、家の中に人がいないときは式神を使役していたのだろうか、誰もいないのに蔀戸が上がったり下がったりしていることがあった。
また、門を閉める人もいないのに、門が閉められていたことなどもあった。
このように、希有なことが多かったそうだ。
晴明の子孫は今も朝廷に仕えており、重用されている。
土御門邸も代々伝わっている。
その子孫の周囲でも、式神の気配があった。
そういうわけで、晴明はただ者ではなかったと語り伝えている。
補足
師匠の忠行
賀茂忠行。生没年不明。
天徳三年(959)、村上天皇が忠行に箱の中身を占わせたところ、見事に当てたという話がある。(『朝野群載』)
蔀戸
平安貴族の寝殿造などに用いられた仕切り。日光を遮るときや、風雨を防ぐときに用いられた。上下2枚構造で、上は吊り下げ、下は掛け金で留める。
播磨国から来た老僧
智徳法師のこと。
広沢の寛朝僧正
延喜十六年(916)~長徳四年(998)。宇多天皇の皇子敦実親王の子で、延長四年(926)に出家した。永祚元年(989)、広沢に遍照寺を建てて真言宗を広めたことから、広沢僧正と呼ばれた。
関連説話
晴明を試みる僧の部分と晴明が式神を用いて蛙を潰すくだりは、『宇治拾遺物語』にも同様の説話が収録されている。