説話

今昔物語集 師に代はりて泰山府君祭の都状に入る僧のこと 現代語訳

「師に代はりて泰山府君祭の都状に入る僧のこと(代師入太山府君祭都状語)」は、『今昔物語集』巻十九第二十四話に収録されている。

あらすじ

今となっては昔のことだが、■■(欠字)という人がいた。
■■■(欠字)の僧だった。

僧は優れた人物だったので公私ともに人々から尊敬されていた。
ところが、あるとき重病を患い、日を重ねるごとに病は重くなっていった。
彼の弟子たちはみな嘆き悲しみ、加持祈祷を捧げたが病状はよくならなかった。

そんなとき、安倍晴明という陰陽師がいた。
その道において優れた人で、公私ともに陰陽道を重用されていた。

弟子たちは晴明を呼び、泰山府君祭を行って僧の病気を治してほしいと頼んだ。
晴明は「極めて重い病ゆえ、泰山府君に祈請しても治らないでしょう。ですが、あなた達の中から一人の僧を身代わりとして差し出すことで病を回復させられるかもしれません。
同意していただけるならば、その人の名前を祭りの都状に記して泰山府君にお願いしてみます。嫌であれば、私ではどうにもできません」

参考泰山府君祭―国家の大祭として伝えられてきた宮廷祭祀

泰山府君祭は陰陽道の祭祀の一つで、中国・山東省にある泰山を司る神・泰山府君を祀る。永祚元年(989)2月11日、安倍晴明が泰山府君祭を奉仕したのが始まりである。 泰山府君とは 泰山府君は、泰山を神格化 ...

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晴明の言葉を聞いた弟子たちの中で「自分が師匠の身代わりとなって命を棄てよう」と思う者は一人もいなかった。
「自分の命に別状なく師匠を救いたい」と思っていて、また「師匠が亡くなったら住居を自分のものにして財産を得て、後を継ごう」と思っているだけで、師匠の身代わりになろうとはこれっぽっちも思っていなかった。
弟子たちは互いに顔を見合わせて何も言えずにいた。

ここに、長年師匠に付き従っていた平凡な弟子がいた。
師匠から特に気に入られていたわけでもなかったので、貧しい身で壺屋に住んでいた。
彼は僧が重病を患っていることを知って「私はもう人生の半分以上生きました。そう長くは生きられません。貧しい身なので善行も積めません。
ですので、私が師匠の身代わりになろうと思います。すぐに私の名前を泰山府君祭の都状に記してください」

他の弟子たちはこれを聞いて「すばらしい心をお持ちだ」と思ったが、自分が身代わりになろうとは言わなかった。
「彼が身代わりになるのは悲しい」と泣く人もいた。

晴明は泰山府君祭の都状にその僧の名を記し、丁重に祭祀を行った。
師匠は「彼がこんなに私を大切に想っていたなんて知らなかった」と言って泣いた。

祭祀が終わると師匠の病状はみるみる回復していったので、効果はあったようだ。

こうして師匠が助かったので、身代わりになった僧はもう長くないからと死穢に触れても問題ない部屋を用意した。
持ち物を整理して遺言を残し、最期を迎える場所で独り念仏を唱えていた。
周囲の人々は一晩中彼が念仏を唱えるのを聞いていたが、そのうち亡くなってしまうのだろうと思っているうちに夜が明けた。

僧は命を落とすのを覚悟していたが、まだ生きていた。
師匠の病気は治ったのに、どうして自分は生きているのだろう。

そう思っていた朝に、晴明がやってきた。
「師匠殿、怖がらなくて大丈夫です。身代わりを申し出た弟子の方も大丈夫です。ともに生き延びることができました」
師匠と弟子は泣いて喜んだ。

思うに、弟子の僧が身代わりとなって師匠の命を救おうとしていたのを泰山府君もかわいそうに思って、二人とも助けたのだろう。
これを聞いた人々は皆、僧を褒め称えた。

その後、師匠は身代わりを申し出た弟子の僧を他の者たちよりもいっそう大事にした。
本当にすばらしい弟子だ。師匠も弟子もともに長生きしたそうだ。

同様の説話

この説話は泣不動縁起とも呼ばれ、複数の説話集に収録されている。

安倍晴明物語

参考安倍晴明物語(安倍晴明記) 現代語訳 三井寺泣不動のこと

基本情報 安倍晴明物語とは 内容 園城寺おんじょうじ(三井寺)の智興阿闍梨は、当時誰よりも徳を積んだ名僧だった。 しかし、智興は疫病にかかって心身ともに苦しみ、高熱にうなされているさまは、まことに堪え ...

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