安倍晴明の父・安倍益材は大膳大夫であったため、晴明もまた大膳大夫を務めていた時期がありました。『除目大成抄』巻七より、長徳三年(997)1月に晴明は大膳大夫であったことがわかります。また、安倍氏系図からは晴明が穀倉院別当でもあったことがわかります。
朱雀天皇時代
天慶六年(943)
3月12日 穀倉院の倉及び庁屋が焼亡する
天慶六年(943)3月12日庚寅の夜、穀倉院の倉二宇と庁屋一宇が焼亡した。(『日本紀略』)
花山天皇時代
永観三年(985)
1月22日 楽所始の饗宴
1月22日丁卯、楽所始が行われた。音楽と穀倉院の饗宴があった。(『小右記』)
2月15日 翌日の饗宴について取り決め
2月15日庚寅、翌日に行われる穀倉院の社頭の饗宴について、準備の手間を省くために魚味を用いるよう定められた。(『小右記』)
寛和三年(987)
2月20日 穀倉院の饗宴が行われる
2月20日癸丑、穀倉院の饗宴が行われた。(『小右記』)
一条天皇時代
長徳二年(996)
7月29日 相撲の観覧中に下給された瓜に穀倉院の衝重が据えられない
7月29日丁卯、相撲の観覧に際し、公卿らに瓜が与えられたが、穀倉院の衝重が据えられず、藤原実資は奇怪なこととした。(『小右記』)
長徳四年(998)
3月24日 饗膳を弓場殿に準備する
3月24日、穀倉院は饗膳を弓場殿に準備した。(『権記』)
弓場殿
天皇が宮中で行われる射技を見るために弓場に面して設けられた建物。
12月8日 藤原行成の七夜の産養に屯食を準備する
12月8日、藤原行成に男児が生まれてから七夜の産養にあたり、穀倉院は屯食(握り飯)を二つ供した。(『権記』)
長保元年(999)
7月8日 一条天皇の北対遷御に際し女房に衝重を用意する
7月8日、一条天皇の北対遷御に際し、穀倉院は女房の衝重三十前を用意した。(『権記』)
7月20日 穀倉院が納めた絹十疋を民部典侍女に託す
7月20日、一条天皇は穀倉院が紀伊国の租(白米)の代わりに納めた絹十疋を民部典侍に託し、右近蔵人に下給させるよう命じた。(『権記』)
9月7日 穀倉院年預を補充する
9月7日、安倍晴明が穀倉院預の供親仁逝去に伴い、新しい年預の補充を藤原行成に要求した。大原辰信が新しい年預となった。(『権記』)
長保二年(1000)
2月10日 大威徳法の料物に穀倉院の米が充てられる
2月10日戌午、大威徳法に際して、藤原行成は穀倉院に納められている播磨国の米二十九石を料物に充てることにした。(『権記』)
7月27日 王卿の食事を用意する
7月27日壬寅、穀倉院は通例によって一条天皇と公卿らの食事を用意した。(『権記』)
9月14日 幡と花机の平文を調進する
9月14日戌子、藤原行成は穀倉院に幡と花机の平文を調進するよう命じた。(『権記』)
12月21日 陸奥交易の絹と布百端を準備する
12月21日甲子、藤原行成は穀倉院に陸奥交易の絹と布三百端のうち百端を準備するよう命じた。小槻奉親が準備した。(『権記』)
12月24日 紫宸殿と清涼殿の堂具を調進する
12月24日丁卯、穀倉院は紫宸殿と清涼殿の堂具を調進した。(『権記』)
長保三年(1001)
1月29日 信濃布百端と上野国の麻布を御諷誦料に充てる
1月29日辛丑、藤原行成は蔵人式部丞源兼宣から早く御諷誦料の布を奉仕させるように伝えられたので、穀倉院に納められていた信濃布百端と上野国の麻布二百端を当てた。(『権記』)
2月29日 世尊寺供養において諸大夫の膳を用意する
2月29日辛未、世尊寺供養において、穀倉院は諸大夫の膳を用意した。(『権記』)
3月22日 石清水臨時祭において祭氏らに饌宴を下給する
3月22日甲午、石清水臨時祭において、穀倉院は祭氏らの饌宴を下給した。(『権記』)
5月22日 穀倉院預大原辰信が世尊寺にて仁王経の購読を行うことを伝える
5月22日癸巳、穀倉院預大原辰信は円縁阿闍梨に翌日から世尊寺において仁王経を購読させることを伝えた。(『権記』)
10月9日 一条天皇の土御門第行幸において饗宴を催す
10月9日、一条天皇の土御門第行幸において、穀倉院は饗宴を催した。(『権記』)
長保五年(1003)
7月27日 相撲召合において公卿の座に饌宴を供する
7月27日乙卯、相撲召合において、穀倉院は公卿の座に饌宴を供した。(『権記』)
寛弘六年(1009)
6月28日 敦康親王の七間屋遷御に際し、殿上人の饗を奉仕する
6月28日辛亥の亥の刻、敦康親王の七間屋遷御が行われた。穀倉院が殿上人の饗二十前を奉仕した。(『権記』)