源頼朝の没後、長男・源頼家は左中将となる。
建久十年(1199)1月26日には「前征夷大将軍朝臣(頼朝)の遺跡を相続し、その家人・郎従らに命じて、以前と同じく諸国の守護を奉公せよ」との宣旨が下った。
しかし、建久十年(1199)3月23日、頼家は伊勢神宮の御領6ヶ所の地頭職を停止。
6ヶ所の内で謀反・狼藉をはたらく者がいた場合は神宮の者が捕らえ、幕府へ詳細を報告するように祭主(大中臣能隆)に命じた。
すると、神宮からこの6ヶ所のひとつである尾張国一楊御厨に宮掌(伊勢神宮の神職)を派遣して地頭代を追い出すよう命令が出された。
その結果地頭の得分を封印したとの噂が流れたので、「故右大将殿(頼朝)がお亡くなりになってから真っ先にこのような狼藉があったのは、とても残念なことだ」と言われた。
また、建久十年(1199)4月1日、幕府の裁判機関である問注所を建立。
永らく三善康信の家がその場所とされていたが、新たに別郭を新造した。
『吾妻鏡』には、「源頼朝の代に御所中の一ヶ所を定めて訴訟の対決を行っていたが、野次馬が集まってきて騒動となったため、他所で対決を行うべきが評議があった。
熊谷直実と久下直光が境相論のことで対決した日に、直実が西侍で鬢髪を切ってから永らく御所中での対決は停止され、三善康信の家が対決の場所とされていた。」とあるが、直実が建久2年3月1日付に「地頭僧蓮生」名義で作成した譲状が直実直筆の実物であるとする研究発表がされたことで、建久3年当時に直実は既に出家していたことが確実になり、この訴訟に関する『吾妻鏡』の記述には少なくとも何らかの脚色があることが明らかになった。
十三人の御家人
建久十年(1199)4月12日、諸々の訴訟については頼家が直接判断するのではなく、13人の御家人たちが話し合って決める十三人の合議制が定められた。
また、定められた13人以外の者が理由もなく訴訟案件を頼家に取り次ぐことは禁じられた。(『吾妻鏡』同日条)
以下、13人の御家人は『吾妻鏡』の記載順。
- 北条時政
- 北条義時
- 大江広元
- 三善康信
- 藤原親能
- 三浦義澄
- 八田知家
- 和田義盛
- 比企能員
- 安達盛長
- 足立遠元
- 梶原景時
- 二階堂行政
選出された御家人の特徴
頼家を補佐する13人の御家人のうち武士の御家人は9人(北条時政・義時、三浦義澄、和田義盛、梶原景時、比企能員、安達盛長、足立遠元、八田知家)と文士の御家人が4人(大江広元、三善康信、藤原親能、二階堂行政)の構成である。
幕府草創期から頼朝を支えた御家人で構成
それぞれの御家人の本拠地は伊豆国が2人(北条時政・義時)、相模国が4人(三浦義澄、和田義盛、安達盛長、梶原景時)、武蔵国が2人(比企能員、足立遠元)、常陸国が八田知家のみである。
鎌倉幕府草創期から源頼朝を支えた伊豆国・相模国・武蔵国の有力御家人を中心として構成されている。
全員で評議した実例はない
とはいえ、13人全員が合議に参加した実例はなく、13人のうち数名による評議を行い、その結果を頼家に報告した上で、頼家が最終的な判断を下していた。
十三人の合議制は、頼家の権力を補完する政治体制であった。
意義
一般的には、まだ若い頼家の独裁を防ぐためだと考えられているが、詳細は不明。
頼家への訴訟取次役を13人に限定したにすぎないとも言われている。
参考資料
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
- 坂井 孝一「源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか」PHP研究所、2020年
- 榎本 秋「執権義時に消された13人 闘争と粛清で読む「承久の乱」前史」株式会社ウェッジ、2021年
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