平安時代

平清盛の最期

佐竹氏を倒した頼朝は平家追討の準備を進める。
そんな折、平清盛が亡くなったとの知らせが鎌倉に届いた……。

経過

清盛の危篤

治承五年(1181)2月27日、平宗盛は源氏追討のため東国へ出陣する予定だったが、平清盛が病に倒れたとの知らせを受けて出発を取りやめた。(『玉葉』同年閏2月1日条)

『平家物語』によると、清盛は病を患ってから水も喉を通らず、体は燃えるように熱かった。彼の病床に入ったものはその熱さに堪えられなかったという。
比叡山から汲んできた千手井せんじゅいの水に浸かっても水が沸騰してお湯になるほどの熱さで、清盛の体にかかった水は炎となって御殿に燃え上がった。

二位尼の悪夢

『平家物語』によると、清盛が病に伏している間に妻二位尼は悪夢を見たという。

二位尼が激しく燃え盛る炎に包まれた車を門の中へ入れて見ると、馬の顔や牛の顔をした人々が立っていた。
車の前には鉄の札が貼られていて、「無」という字だ書かれていた。
二位尼が車がどこから来たのか尋ねると、「地獄から清盛を迎えに来た」という答えが返ってきた。
清盛は南閻浮提なんえんぶだいの金銅十六丈の盧遮那仏るしゃなぶつを焼滅させた罪で無間地獄に落とされることが決まったのだが、鉄の札には無間の「無」だけが書かれていて、「間」はまだ書かれていないのだという。

地獄の獄卒には「牛頭馬頭ごずめず」といって、牛頭人身のものと馬頭人身のものがいる。

夢から覚めた二位尼は体中汗だくになっていて、夢の内容を聞いた人々もあまりの恐ろしさに震え上がったという。

2月28日、清盛が危篤になったことが洛中に広まり、都の人々は「そら見たことか」と囁きあった。

清盛の最期

治承五年(1181)閏2月4日戌の刻、平清盛が九条河原口の平盛国邸で亡くなった。
清盛は2月25日頃から病に臥せていたという。(『吾妻鏡』同年閏2月4日条)

清盛は、自分が死んだあとのことはすべて宗盛に任せることにしていた。(『玉葉』同年閏2月5日条)

『平家物語』によると、清盛は閏2月7日に愛宕で火葬され、円実法眼が遺骨を首にかけて経の島に納めた。

清盛の遺言

『平家物語』において、清盛は「頼朝の首を自分の墓前に供えよ」との遺言を残した。
なお、『玉葉』でも宗盛が清盛から「最後の一人になってでも骸を頼朝の前に曝せ」と言われたと述べている。(『玉葉』同年8月1日条)

また、『吾妻鏡』治承五年(1181)閏2月4日条には、清盛は以下の遺言を残したと記されている。

  • 三日後に葬儀を行い、播磨国山田の法華堂に納骨すること
  • 七日ごとに仏事を行うこと
  • 京都で追善供養をしないこと
  • 子孫たちは東国を滅ぼすこと

兼実の私見

平清盛が最期を迎えたことに対し、九条兼実は『玉葉』閏2月5日条の中で次のように述べている。

平清盛は武士の家に生まれて、武勇を世に知らしめた。
平治の乱で勝利を収めてから、天下はひとえに平家一門のものになった。
長女は皇后となり、国母にもなった。次女は二人とも執政の妻となった。
長男重盛は丞相となり、次男宗盛は将軍となった。その下の息子二人も思うままに昇進した。
とりわけ、海内に強大な権力を持つようになり、刑罰はより過酷なものになった。
仏像や堂舎を焼亡させたのはとんでもないことだ。
因果応報を案じていたが、敵軍に討ち取られて骸を戦場に晒すべきところ、その難を逃れて病気で命を終えた。
本当に悪運の強い男だ。
だが、神罰や冥罰を新たに知ることとなるだろう。
この後の天下がどうなるのかは、伊勢神宮と春日大明神に委ねるだけだ。

清盛の後継者

平重盛の死後、清盛の後継者は平宗盛に定められていた。
正月には宗盛が惣官となって新たな軍政機関も設置されていて、その軍政機関は後白河の執政再開を前提としていたので、清盛没後も大きな影響はなかった。

19日、三善康信の書状が鎌倉に到着した。
清盛の遺骨を送るため播磨国へ下ったが、世の中の情勢が落ち着いた後に参上するとの事だった。

参考資料

  • 五味 文彦「鎌倉と京 武家政権と庶民世界」講談社、2014年
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