角色 平安時代

木曽義仲(源義仲)

木曽義仲(源義仲)は源義賢みなもとのよしかたの次男で、父義賢は源為義の次男で源義朝の弟にあたる。
つまり、義仲は頼朝の従兄弟にあたることになる。

略系図

為義と義朝の関係が悪化するなか、上野国および武蔵国北部に勢力を誇っていた義賢は父側に立ち義朝に対抗していたが、久寿二年(1155)武蔵国大倉館で義朝の長男義平に討たれている。
その後、義仲は乳母の夫中原兼遠のもとで育てられ、信濃国木曽で成長したので、木曽姓となっている。

義仲は信濃国の平氏勢力である小笠原頼直を越後に敗走させ、かつて父義賢が勢力を誇った上野国へ進軍したが、北関東に進出してきた頼朝との対決を避けるため年内に信濃国へ戻った。

義仲の挙兵

治承四年(1180)9月、義仲の兄仲家が宇治川の戦い源頼政とともに自害した。
信濃国の平氏家人笠原頼直が謀反人追討を掲げて義仲を追討しに来たので、追い詰められた義仲も挙兵し、9月7日市原で合戦が始まった。
頼直は戦いに敗れて越後平氏のじょうを頼るために越後国へ逃げていったので、義仲は城氏と対立することになった。

城氏との対立

10月、義仲は亡き父の本拠地である上野国多胡たごに進出し、父の縁者や家人を味方に加えた。
しかし、源頼朝平宗盛のもとにいた新田義重の帰順を受け入れて上野国まで勢力を伸ばしてきたので、上野国をどちらの勢力にするかで対立することとなった。
義仲はすでに多胡家包たごいえかね那波弘澄なわのひろずみなどの有力豪族を味方につけていたので衝突を回避しようとしたが、今度は頼朝の勢力を警戒して依田よだから離れられなくなった。

12月、城氏の城助永は義仲を追討して信濃国の治安を回復したいと朝廷に申し出た。
しかし、助永の病死によってこの話は宙ぶらり状態となり、家督を継いだ助職すけもとが翌年6月に信濃国へ攻撃を開始した。
合戦に敗れた助職は会津に逃げ、藤原秀衡の傘下に入ることとなった。
こうして義仲は北陸道で起こった反平氏の反乱を収め、越前国まで勢力を拡大させた。

平氏に追討使を派遣される

この頃から平氏が勢力を広げた義仲を警戒するようになり、養和元年(1181)8月に北陸道へ追討使として平通盛平経正を派遣した。
しかし、追討使は9月6日の越前・加賀国境での合戦で越前国在庁稲津新介実澄白山従儀師斎命はくさんじゅぎしさいめいの裏切りにあって敗北し、敦賀つるがまで退却した。
この時、平経正は若狭国平定の任務で援軍を送れず、平通盛も敦賀城を攻め落とされたので帰洛することになった。
この間も、義仲は頼朝の動きを警戒して依田城から一歩も動けなかった。

倶利伽羅峠の戦い

寿永二年(1183)4月17日、北陸道追討使が京都を出発した。
この軍勢は平氏が諸国からかき集めた武士による大軍で、『平家物語』によるとその数は10万騎に及ぶという。
一方、義仲の軍勢は信濃国・上野国から連れてきた本隊に加えて北陸道諸国の国衙在庁・国侍や地方の武士と権門寺院末寺の衆徒だった。

4月27日、追討軍は義仲の拠点ひうちに攻め入った。
この城には義仲が派遣した落合兼行と白山長吏斎命、稲津新介実澄ら5千余騎が入っていた。
追討使は燧城を攻め落とした後、安宅あたかで富樫宗親・宮崎太郎の軍勢を破り、続いて宗親と林光明が籠城していた城も攻め落とした。

5月11日、平氏は7万騎が砺波となみから砺波平野へ、3万騎が迂回して志雄から氷見ひみを経て般若野に出ようとした。
義仲の軍勢は倶利伽羅峠の麓に陣を敷いていた追討使本隊7万騎に立ち向かうこととなった。
『玉葉』では、追討使大手の軍勢を4万騎、義仲の軍勢(『玉葉』では”賊徒”と称されている)を5千騎と記している。

平氏の大軍の前に越前・加賀の武士たちは敗れ、勝ち目に乗じた義仲追討軍はついに越中まで侵入した。
後方の安全を保証された義仲は、二人の叔父源行家・志田義広とともに信濃・上野・越後などの武士を率いて平氏軍を迎撃した。

寿永二年(1182)5月11日、義仲は平家の大軍を適当にあしらって日が暮れるのを待ち、敵の意表を突いて背後に回した軍勢とともに、一挙に攻撃して深い谷へ追い落とした。
礪波山となみやまの倶利伽羅峠の義仲の軍勢は津波のごとく北陸道を一気に攻め上り、6月末には早くも近江国に入った。
義仲は延暦寺に上り、僧兵とともに比叡山を下って北から京都を攻めようとし、かねてから熊野・吉野に関係の深かった行家は近江から伊賀を経由して大和国へ入り、北上して京都を攻め入ろうとした。

倶利伽羅峠は旧北陸道における越中・加賀両国の境に位置し、『源平盛衰記』では牛の角に松明を灯して突進させ、平氏軍を谷底に落として大勝したという華々しい戦いぶりが描かれている。

篠原の戦い

だが、6月1日篠原の合戦において、戦いは膠着状態に陥った。
当初両軍は互角に戦っていたが、平氏軍が不利になると駆武者(寄せ集めの武者)が脱落し始め、一気に劣勢に傾いていった。
中でも、平氏軍の畠山重能は木曽郡の樋口兼光と戦ったが、高橋長綱の軍勢は駆武者を多く抱えていたため団結力は弱かった。
戦いは義仲の勝利に終わった。

義仲の上洛

7月28日、木曽義仲は源行家とともに畿内の源氏を従えて入京した。
入京の先陣は、錦織義高が務めた。

洛中での狼藉

義仲の軍勢は統率が取れておらず、合戦と西国の飢饉によって京都に物資が不足していたことや上洛した軍勢が十分な兵糧米を持っていなかったこともあり、洛中では乱暴・狼藉が行われた。
都周辺の田畑は刈り取られ、田舎から運ばれてきた荷物は略奪された。
義仲軍と洛中の人々との間で行われた物資の奪い合いは、義仲の評価を下げる大きな要因となった。

そこで、後白河は京都の治安を回復するため義仲に洛中警固の体制強化を命じた。

皇位継承問題

寿永元年(1182)7月、以仁王の皇子である北陸宮を乳母夫讃岐前司藤原重季が北陸に落とした。
重季の姉妹は九条兼実の妻だったので、九条家の縁を頼りに比叡山を越え、北陸道に抜けた。
義仲は北陸宮を迎えて越中国宮崎に行宮を構え、以仁王挙兵の正当な後継者であることを明らかにしたのである。

だが、後白河は以仁王の挙兵に正当性を認める義仲と手を組むことはできないと考えていた。
後白河にとって以仁王は八条院の傘下にいた鳥羽院旧臣派の生き残りであり、彼らは後白河にも平氏にも属さない中立勢力であった。
八条院のもとに集う旧鳥羽院政派と義仲率いる東国の源氏が結びつくことは懸念材料であった。

8月14日、義仲は後白河に北陸宮即位の希望を伝えた。
後白河は義仲の意向を封じるため、高倉院三宮・四宮・北陸宮の中で天皇にふさわしい人物を天に任せようと提案し、神祇官に亀卜きぼく、陰陽寮に式占しきせんを行わせた。
『玉葉』によると卜占は三宮を第一としたが、その後の女房の夢想によって四宮(後の後鳥羽天皇)が第一になったという。

こうして寿永二年(1183)8月20日、後鳥羽天皇の践祚せんそが行われた。
義仲の北陸宮擁立は失敗に終わった。

優先順位は頼朝>義仲

7月30日、後白河と公卿の間で開かれた会議の結果、勲功の順位は「一位源頼朝、二位木曽義仲、三位源行家」と定められた。
平氏軍と戦い続けたのははあくまでも義仲・甲斐源氏・近江源氏・美濃源氏たちであり、頼朝は山木兼隆を討ち取ったが、その後は鎌倉を中心とした地方政権の基盤づくりに勤しんでいた。

だが、頼朝が五位の官位を持つこと、密かに自分と意思疎通を図ってきたこと、東国の動乱は頼朝の計画によって展開したと主張してきたので、後白河は頼朝を第一位としたのである。

8月16日勲功賞の除目が行われ、義仲は左馬頭ならびに伊予国知行国主となった。
源行家が備前守、安田義定が遠江守に補任されている。

頼朝との交渉

息子義高を人質に差し出す

3月、義仲は息子の義高を頼朝のもとへ送った。

義仲と行家

安徳天皇が平氏とともに都を去った後、空白となっている皇位に誰を即位させるかという問題になった。
義仲の推薦した北陸宮はあっさり拒否され、後白河は寵姫丹後局の提言に従い安徳天皇の弟で4歳になる四宮を擁立し、皇位の象徴である三種の神器なしで即位した。
後の後鳥羽天皇である。

十月宣旨への怒り

十月宣旨によって源頼朝に全権が委ねられる領域の中には、義仲がやっとの思いで占領した地域である北陸道が含まれていた。
(北陸道・東山道・東海道の三道を合わせた領域が日本の”東国”にあたるため)
京都を占領していた義仲の激怒を後白河も無視できず、ついに宣旨発令の際は「北陸道」の名を消している。
だが、この宣旨からもわかる通り後白河は政治交渉の相手として義仲ではなく頼朝を選んだ。
この一件は、義仲の後白河への不満を一層募らせた。

源行家は義仲より10歳年上の叔父にあたるという自負心も強かったのか、後白河に初めて面会したときは義仲と序列を争い、ついには二人揃って拝謁するほどであった。
行家はもっぱら院内に入り浸り、すごろくの相手などを務めてまで後白河に取り入ろうとした。
義仲は恩賞として左馬頭・越後守の地位を得たが行家は備後守任官のみであったため、行家は義仲以上の不満を持ち、先に平氏追討の宣旨を得て播磨国に向かった。

だが、権謀術数に長けた朝廷の貴族たちが義仲・行家の対立に気づかぬはずもなく、また放置しておくわけもなかった。
やがて義仲は平氏追討を急き立てる後白河の命令でわずかな手兵とともに西へ出発する。

後白河の警戒度

後白河は義仲にはすんなりと征夷大将軍の地位を与える一方で、頼朝が同じ地位を要請すると拒否した。
これは、敗北寸前で前途が塞がった義仲と今後勢力が拡大していく頼朝に対する後白河の警戒心の違いである。

義仲の滅亡

1183年木曽義仲・源行家が入京すると、後白河は平氏追討の院宣を授け平家没官領のうち140ヵ所を義仲、90余ヵ所を行家に与えた。
源頼朝・木曽義仲・平家が天下を三分している形であった中で京都を押さえていたのは義仲だったが、頼朝との関係においては、頼朝が宣旨を獲得したことによって遅れを取り、平家との関係では備中水島の戦いで敗れ、結果的に平家が福原まで攻め入ることを許す形になった。
挙げ句、洛中では軍勢が狼藉を働くので後白河や廷臣、貴賤上下を問わず都中から疎まれ孤立してしまう。

備中水島の戦い

閏10月、義仲が山陽道に派遣した軍勢は備中国水島で平重衡と合戦になった。
だが、海戦に長けた平氏の前に義仲の軍勢などもはや物の数ではない。
合戦の結果、大将の足利義清と海野幸広が討ち取られ大敗北に終わった。

備中水島の戦いは平氏が日食を利用して勝利した戦いであり、天文学史では有名なできごととして伝えられている。


合戦に勝利した平氏軍は備前・美作を越えて播磨国まで進軍してきた。
義仲が本来追討対象である平氏の東進を放置するのは、両者の間に和議が成立しているからではないかと疑う者もいた。
義仲が慣れない西海で苦戦を強いられている間に、鎌倉に本拠を構えていた源頼朝にはかねてより蓄積してきたその実力を発揮すべき時節が訪れた。

こうして、義仲は平氏と頼朝に挟み撃ちにされる形となってしまった。

ただし、頼朝が東国の支配権を持つ征夷大将軍の地位を要請した際に後白河は拒んでいることから、この行政権はあくまで一時的なものに留めたかったのではないかと思われる。

朝廷は頼朝を配流される前の従五位下に復し、頼朝も挙兵以来使用してきた治承の年号を寿永と改め、朝廷の支配体制を受け入れる姿勢を示した。

叔父行家の離反

義仲は行家に共に頼朝と戦うことを提案したが、行家は平氏の動きを抑えるために西国への出陣を提案し、11月8日に270騎を率いて出陣した。
11月29日、行家は室津合戦で平重衡に討ち取られた。

法住寺合戦

近江・美濃・摂津・河内の源氏たちは義仲を見限って後白河に付くか帰国していた。
『平家物語』によると、後白河は義仲の切り崩しに成功したと考え、平知康を使って義仲を挑発した。

頼朝は弟の源義経に義仲追討を命じ、京都の情勢に詳しい中原親能と共に都へ向かわせた。
義仲討伐隊は法皇への年貢上進部隊と称しながら東海道を西へ進み、行く先々で頼朝が”十月宣旨”を得たことを宣伝しながら近江まで進軍し、都を伺った。

焦った義仲は、11月19日後白河院の御所法住寺殿の焼き討ちを決行し、多くの貴族・武士達を討ち後白河を幽閉して朝廷の主導権を握り、摂政藤原基通や近臣を罷免した。
この時、天台座主明雲法親王・円城寺宮円恵法親王を含む百人以上に及ぶ院方の者たちを討ち取っている。

しかし、そのことがかえって頼朝に義仲攻撃の名目を与えることになった。

征夷大将軍

元暦元年(1184)1月10日、木曽義仲は征夷大将軍を兼官した。
義仲は、征夷大将軍の地位を得ることは清和源氏が政治の全権を掌握するための根拠としてもっともふさわしいと考えたのだろう。
だが、後に征夷大将軍となる頼朝の場合とは異なり、義仲のやり方はとても性急で野蛮なものだった。

鎮守府将軍兼官の宣旨が下されたのは、坂上田村麻呂から安元二年3月の藤原範季に至るまで70回あったが、征夷使兼官の宣旨はわずか2回であった。
桓武天皇の時代延暦六年11月5日、按察使兼陸奥守坂上田村麻呂が補任され、朱雀院の時代天慶三年1月18日、参議右衛門督藤原忠文が補任された例はあるが、これ以降、天皇22代、245年の間補任された者はいなかった。
義仲は三度目の例ということになる。

義仲の最期

寿永三年(1184)1月20日、宇治・勢多の防衛線を突破して京都に入った。
多田行綱をはじめとする摂津源氏も蜂起し、義仲を攻めた。
各所の蜂起鎮圧のためにただでさえ少なくなっていた義仲の手兵を各地に分散したので、京都の防備は手薄になってしまった。
義仲は北陸道に逃れる途上で討たれた。享年31歳であった。
この時、義仲の愛妾で共に戦ってきた巴御前は運命を共にはしなかったようだ。
『源平盛衰記』では巴御前はその後和田義盛の妻となり、朝比奈義秀を生んだ後、越中国石黒で出家して亡くなったと語られている。

ちなみに義仲は、亡き以仁王の子で出家して北陸にいた北陸宮を皇位継承者として即位させようとしていた。
ある意味では、義仲は最期まで以仁王の令旨に忠実であったといえる。

義仲に替わって頼朝の使節が入京したことにより、朝廷は頼朝に対して平家の追討を命じ、範頼・義経は追討使として出陣した。

参考資料

 

  • 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
  • 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
  • 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
  • この記事を書いた人

やみみん

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