治承四年(1180)10月21日、源義経と源頼朝は黄瀬川の宿所で対面した。
『吾妻鏡』『源平盛衰記』『源平闘諍録』では、この黄瀬川の対面は富士川の戦いの後に記されている。
いずれの本も、兄弟が再会に涙した後で頼朝が後三年合戦で源義光が兄源義家のもとに馳せ参じた故実を思い出している。
背景
頼朝の挙兵
平治の乱で父源義朝が平清盛に敗れたことによって、源頼朝は伊豆国へ配流、源義経も継父の一条長成に保護されて出家するために鞍馬山へ登った。
成長するとともに義経は父の敵を討ちたいと思うようになり、出家を拒んで自ら元服した。
鞍馬山を出た義経は藤原秀衡を頼るために奥州へ下向したが、そのまま月日だけが流れた。
やがて兄頼朝が挙兵したことを知ると、義経は兄のもとへ向かって合流しようとした。
秀衡は義経を止めたが、義経が秀衡の館を抜け出して出発したので、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けた。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉10月21日条)
経過
治承四年(1180)10月21日、一人の若者が鎌倉殿にお会いしたいと言って黄瀬川の宿所を訪れた。
土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実らは不審に思って頼朝には取り次ぐことをしなかったが、頼朝は若者の年齢から考えて弟の九郎(義経)ではないかと思い、対面することにした。実平が取り次いだ。
再会したとき、兄弟は昔を懐かしく思い涙を流したという。(『吾妻鏡』同日条)
『吾妻鏡』同日条では、頼朝は義経と再開を果たしたときに曽祖父の源義家の吉例について述べている。
永保三年(1083)9月、義家は奥州で清原武衡・家衡と戦っていた。
このことを知った源義光は官職を辞して奥州に下向して兄義家に加勢し、敵を討ち取った。
この合戦は後三年役と呼ばれた。
『源平盛衰記』『源平闘諍録』における記述
兵衛佐が浮嶋が原でしばらく休息をとっていると、二十歳ぐらいの若武者が白い弓袋を差し、二十騎を率いて兵衛佐の陣に参上した。
若武者が「鎌倉殿に会わせてください」と言っているのを聞いて、兵衛佐は誰かと尋ねた。
「私は故左馬頭殿(源義朝)の子で牛若と申しますが、奥州へ下向して元服してからは九郎冠者義経と名乗っております。
この度の合戦のことを聞いて、参上仕りました」
兵衛佐はこれを聞いて涙を流した。
「本当にこのようなことがあるのだろうか。合戦の由を聞き急いで参上したのはつくづく不思議なことだ。
昔、八幡殿(源義家)が後三年の合戦のときに弟の義光は宮中に務めていたのだが、この合戦を知って官職を辞し、金沢の館に向かった。
八幡殿は大いに喜んで涙を流し、武衡を攻め落とした。
今こうして再会できたのも、亡くなった父上のおかげだ」と言って共に涙を流した。