衣笠城の戦いは、治承四年(1180)8月26日に起こった畠山重忠率いる秩父党(平氏軍)と三浦氏(源氏軍)の戦いである。
重忠の父畠山重能は武蔵国の有力武士である秩父党の者で、平氏家人でもあった。
重能が都で大番役を務めていたので、父の代わりに一族を率いていた。
背景
小壺坂合戦(小坪合戦)
24日、三浦一族は石橋山で合戦中の頼朝に加勢するために城を出て丸子川の辺りまで来たが、頼朝が合戦に敗北したと聞いて急いで帰った。
帰る途中、由比浦で畠山重忠と数時間に渡り戦った。
重忠の郎従五十余りが討ち取られたので、重忠は退却した。
義澄らは三浦へ帰った。(『吾妻鏡』同日条)
重忠は平氏の恩に報いるため、由比浦での敗戦の屈辱を晴らすために三浦氏を攻めようと考えた。(『吾妻鏡』同年8月26日条)
経過
三浦氏が衣笠城に籠もる
治承四年(1180)8月26日、畠山重忠は河越重頼に武蔵国の多くの党を率いてくるように命じた。
江戸重長も味方した。
その日の卯の刻になって三浦氏は重忠らが攻めてくることを知り、一族みな衣笠城に籠もってそれぞれ陣を張った。
東の木戸口の大手を三浦義澄と三浦義連が、西の木戸口を和田義盛と金田頼次が、中陣を長江義景と大多和義久が守った。(『吾妻鏡』同日条)
河越重頼らが衣笠城を襲撃
同日辰の刻、河越重頼、中山重実、江戸重長、金子・村山党をはじめとした数千騎が攻めてきた。
義澄たちは奮戦したが、先の由比での合戦と今回の合戦で疲弊し、夜になると城から逃げ去った。(『吾妻鏡』同日条)
三浦介義明、一人で城に残る
義澄は城から脱出する際に義明も連れて行こうとしたが、義明は城に残るといったので、義澄らは涙ながらに義明に従いやむなく散り散りに退却した。
私は源家累代の家人として、幸いにもその貴種再興のときに巡り会えた。
こんなに喜ばしいことはほかにない。
生きながらえてすでに八十年余り、これから先を数えても幾ばくもない。
今は私の老いた命を武衛(頼朝)に捧げ、子孫の手柄にしよう。
お前たちはすぐに退却し、(頼朝の)安否をお尋ね申し上げるように。
私は独りでこの城に残り、軍勢が多くいるように重頼に見せてやろう。
27日辰の刻、三浦義明が河越重頼・江戸重長らに討ち取られた。享年89歳。
義澄らが安房国へ向かう
その頃、義澄らは安房国へ向かっていた。
北条時政・義時、岡崎義実、近藤国平らも土肥郷の岩浦から安房国を目指して船出した。
海の上で両者の船は合流し、心中の心配事などを話し合った。(『吾妻鏡』同年8月27日条)
花絮
畠山重忠・河越重頼・江戸重長が参上
治承四年(1180)10月4日、畠山重忠が長井の渡で参会した。河越重頼と江戸重長も参上した。
彼らは三浦義明を討った者だが、頼朝が彼らのような勢力のある者の力がなければ平氏追討は成し遂げられないので、決して恨みを残してはならないと三浦一族に言うと、彼らも異心を抱かないことを約束し、互いに目を合わせ納得して席に並んだ。(『吾妻鏡』同日条)