陰陽道

鬼気祭―疫神の侵入を防ぐ

鬼気祭

董仲舒祭法をもとに行われた祭祀で、元は疫神祭だったのが陰陽寮に移されたものである。

基本情報

鬼気祭を行う場所

鬼気祭を行う場所は、貴族個人に対して行う場合と公的な祭祀として行う場合とで異なる。
貴族の場合はその人の邸宅の門前で、公的な祭祀の場合は内裏の南門・建礼門の前で行う。

鬼気祭の記録

病気平癒のために鬼気祭を行わせていることが多い。

和暦 日付 担当 出典
天元五年 4月12日 県奉平 小右記
永延二年 7月4日 安倍晴明 小右記
正暦元年 7月8日 藤原陳泰 小右記
正暦四年 6月4日 藤原陳泰 小右記
長保元年 9月16日 賀茂光栄 小右記
長和二年 8月13日 惟宗文高 小右記
長和四年 5月29日 藤原道長 御堂関白記
治安三年 7月17日 惟宗文高 小右記
  12月2日 惟宗文高 小右記
  12月23日 惟宗文高 小右記
万寿元年 12月6日 惟宗文高 小右記
万寿四年 6月16日 中原恒盛 小右記
長元元年 12月22日 惟宗文高 小右記
    中原恒盛 小右記
長元三年 6月9日 惟宗文高 小右記
長元四年 2月29日 中原恒盛 小右記
長暦三年 10月5日 中原恒盛 春記
  • 正暦元年(990)7月8日辛巳、藤原実資の娘の病が重いため、実資は藤原陳泰に鬼気祭を行わせた。(『小右記』)
  • 正暦四年(993)6月4日辛酉の夜、藤原実資の家では病を患っている者が多かったので、藤原陳泰に鬼気祭を行わせた。(『小右記』)
  • 長保元年(999)9月16日乙未、藤原実資は自身の体調不良について賀茂光栄に占わせたところ求食鬼によるものだということだったので、鬼気祭を行わせた。(『小右記』)
  • 長保六年(1004)6月8日辛酉、藤原道長の指示により、鬼気祭が行われた。(『御堂関白記』)
  • 長和二年(1013)8月13日壬申の夜、西門において惟宗文高が鬼気祭を行った。(『小右記』)
  • 長和四年(1015)5月29日戊申、藤原道長は家の門において鬼気祭を行った。(『御堂関白記』)
  • 治安三年(1023)7月17日己卯の夜、惟宗文高が西門において鬼気祭を行った。(『小右記』)
  • 同年12月2日辛酉、惟宗文高は北門において鬼気祭を行った。(『小右記』)
  • 同年12月23日壬午の夜、惟宗文高は鬼気祭を行った。(『小右記』)
  • 万寿元年(1024)12月6日庚申、惟宗文高は北門において鬼気祭を行った。(『小右記』)
  • 万寿四年(1027)6月16日乙酉、中原恒盛は鬼気祭を行った。(『小右記』)
  • 長元元年(1028)12月22日壬午、惟宗文高が鬼気祭を行った。また、中原恒盛が河原にて内供良円のために鬼気祭を行った。(『小右記』)
  • 長元三年(1030)6月7日、京極の五箇所において鬼気祭を行うことになった。(『小記目録』)
  • 同年6月9日辛卯、陰陽頭惟宗文高が羅城門と京極の四角において鬼気祭を行った。(『小右記』)
  • 長元四年(1031)2月29日丙午の夜、陰陽属中原恒盛は西門において鬼気祭を行った。(『小右記』)
  • 長暦三年(1039)10月5日壬戌、中原恒盛が鬼気祭を行った。(『春記』)

神祇官と陰陽寮は天下に疫病の憂いがあると言う。よって、五畿七道諸国に命じて、仁王般若経を転読させ、並びに鬼気祭を行わせた。(『日本三代実録』貞観九年〈867〉1月26日丁卯条)

董仲舒の言葉をもとに、天下に疫病が蔓延するのを防ぐため、二月八日、鬼気祭を行う。永観三年三月一八日、陰陽道の勘文によって宮城にて四角鬼気祭を行う。疫病を防ぐためである。(『朝野郡載』巻第二十一凶事 天承二年〈1132〉閏四月八日付)

祭物

『文肝抄』によると、鬼気祭の祭物は灰少々、魚味、撫物となっている。

安倍晴明と鬼気祭

永延二年(988)7月4日の夜、安倍晴明が鬼気祭を行った。(『小右記』同日条)

参考資料

  • 山下 克明「平安時代陰陽道史研究」思文閣出版、2015年

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