鎌倉時代

建久七年の政変

建久七年の政変とは、建久七年(1196)に関白九条兼実をはじめ中央政界から多数の九条家勢力が排除された事件である。

原因となったのは後鳥羽天皇の結婚と皇位継承者の決定をめぐる争いだったが、源頼朝による大姫入内問題をきっかけに頼朝と兼実の関係が悪化したところに源通親がつけ込んでこの事件が起こった…というのが通説である。

後鳥羽天皇がその後の独裁権を確立するための最初の一歩でもある。

源通親と九条兼実の対立

源頼朝による大姫入内計画

『愚管抄』によると、源頼朝は娘の大姫を入内させたいと考え源通親のもとに手紙を送った。
ところが、通親もまた後鳥羽天皇の乳母藤原範子に産ませた在子を皇位につけようと画策していたのだ。
また、法住寺合戦の際、木曽義仲に生け捕りにされた承仁法親王はその後成長して毎日のように内裏に参上しているうちに、高階栄子との密通の噂が立った。

播磨国・備前国の荘園問題

建久二年(1191)、後白河が亡くなる直前に源通親や承仁法親王をはじめ多数の後白河関係者たちが、後白河の知行国だった播磨国・備前国へ大きな荘園を新設しようとした。
ところが、九条兼実は彼らの立荘を認めず後白河没後にこれらの荘園を停廃してしまった。

この一件によって兼実は後白河周辺の者を敵に回すことになったという。

昇進をめぐる対立

『玉葉』文治四年(1188)1月7日条によると、文治三年(1187)、兼実の推薦で通親は従二位に昇進したが、翌年に兼実の子良経が通親を飛び越えて正二位に昇進した。
これを不満に思った通親は権中納言を辞任する代わりに正二位に昇進させるよう兼実に求めると、今度は兼実が激怒した。

また、『玉葉』建久二年(1191)3月28日条によると、藤原忠良が権大納言に昇進したときも、通親は自分が忠良を越えて権大納言に昇進するべきだと主張したので、兼実は通親を「狂乱の人」と罵倒している。

建久七年の政変

後鳥羽天皇の皇位継承者問題

建久六年(1195)、能円と藤原範子の娘で通親の養女となっていた在子ざいしが後鳥羽天皇の皇子(後の土御門天皇)を産んだ。
通親は在子を皇位につけようと画策していた。

九条兼実の娘任子の出産

『愚管抄』によると、建久六年(1195)8月13日、九条兼実の娘任子が出産したとの報せを受けて都は大騒ぎとなったが、生まれたのは皇女(後の昇子内親王)だった。

源通親の娘在子が皇子を出産

建久六年(1195)11月1日、通親の娘在子が皇子為仁を出産した。
通親は中納言から権大納言に昇進すると、丹後局と共謀して任子が皇子を産む前に為仁を皇位につけようと画策した。

九条兼実一族の失脚

娘任子が内裏から追い出される

建久七年(1196)11月24日、中宮任子が内裏から退出させられた。

兼実が関白を罷免される

11月25日、九条兼実の関白・氏長者が罷免されて後任には藤原基通が就任した。

『愚管抄』によると、通親は兼実を配流することまで企んでいたが、後鳥羽天皇はこれを受け入れなかったので失敗に終わった。

弟慈円が天台座主を辞任

11月26日、慈円が天台座主を辞任し、後任には後白河院第八皇子の承認法親王が就任した。

後鳥羽には兼実を失脚させる意志はなかったのか

後鳥羽は勢力均衡と人事権を行使することによって摂関家を統制しようとした。

源氏の関白の誕生

政変後の建久九年(1198)1月11日、土御門天皇が即位して院庁を開設すると、通親は天皇の外祖父となり院の執事別当となった。
『玉葉』に「世に源博陸と称す」と記されているように、通親は源氏の関白とまで呼ばれるようになった。

頼朝は一連の事態を黙認

このとき頼朝は通親と協力関係にあったので、この事態を黙認し、大姫の入内計画を進めようとした。

ところが、大姫の急逝によって計画は頓挫し、なおも次女を入内させようとしたが頼朝自身も没したため入内計画は失敗に終わった。

参考資料

  • 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
  • 野口 実 (編)「治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)」清文堂出版、2014年
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やみみん

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