平安時代 陰陽道

平安時代の「穢れ」という概念~穢れに触れるとどうなる?~

平安時代では、穢にふれると行事が延期されたり、一定期間は宮中への参内を避けなければならなかった。

穢れの種類によって謹慎する日数は異なる。以下は、『延喜式』による。

穢の種類忌む日数
死穢(人)30日
産穢(人)7日
死穢(牛・馬・羊・犬・鶏・豚)5日
産穢(牛・馬・羊・犬・鶏・豚)3日

日付の記載がない項目は同日条に記載。

いろいろな穢れ

人の死穢

  • 寛和四年(987)2月2日乙未、或る人曰く、藤原道兼の邸宅にて頓死した女がいたが、知らせなかったという。(『小右記』同年2月3日条)この事が起こった後、道兼は春日社に参詣していた。(『小右記』)
  • 永祚二年(990)10月17日己未、藤原実資は犬が子供の頭をくわえてやって来たのを目撃したので、穢れとして七日間の休暇を申請した。(『小右記』)
  • 長徳三年(997)5月26日己丑、前日に資子内親王に死穢があったが、下女が着座したことによって内裏に穢が交じったので、上達部の参内が禁じられた。(『小右記』)
  • 同年12月9日、内供阿闍梨忠暹が東三条院で頓死し、藤原道長の供の人々が触穢となった。13日に予定されていた童子の元服も延期となった。(『小右記』同年12月10日条)11日辛丑、藤原実資は月次祭における神今食を配る当番だったが、触穢により着座しなかった。(『小右記』)
  • 長保元年(999)9月8日丁亥、東北対の下にあった子供を犬がくわえて持ってくる死穢があった。(『権記』)八、九歳程の子供であった。所々犬に喰われた跡があったが、身体が残っている以上五体不具穢にするのは難しく、三十日の死穢ということになった。(『御堂関白記』)
  • 長保二年(1000)9月21日乙未、承香殿の北垣に五対不具の死穢があった。(『権記』)
  • 寛弘二年(1005)1月15日甲子、藤原遵子の四条宮にて死穢があった。(『御堂関白記』)
  • 寛弘六年(1009)4月6日辛卯の午の刻、内裏の東町の木守男の死穢があった。(『御堂関白記』)
  • 寛弘九年(1012)3月24日辛卯、内裏の女房曹司にて下女の死穢があった。春季御読経に来ていた僧たちが触穢となった。(『御堂関白記』)
  • 長和二年(1013)2月23日乙酉、藤原説孝の家に童の死穢が流れてきたが、家の者はそれを払い出して土御門第に流れ着いた。しかし、道長は死穢をすぐに家から出したのであれば触穢にはならないとし、改めて皆で話し合う必要があると言った。(『御堂関白記』)
  • 同年3月27日戊午、藤原経通の家人の従者が女子の死穢に触れた。(『御堂関白記』)

五体不具穢

五体が揃っていない死穢。『御堂関白記』長保元年(999)9月8日条では、所々犬に喰われた形跡のある童子に五体不具穢を適用できるか話し合われている。

  • 長保二年(1000)2月13日辛酉、法興院と内裏にて五体不具穢があった。(『御堂関白記』)
  • 寛弘八年(1011)1月29日癸卯、藤原道長は藤原惟任から内裏の北対の北で発見された死人の頭を死穢とすべきか相談を受けた。道長は、このことは五体不具穢であり、七日間の穢だと述べた。春日祭などの諸祭が延期された。(『御堂関白記』)

病の穢れ

  • 長徳四年(998)10月18日、藤原行成の男児は気力がなかったので妻が抱き、行成は穢に触れないよう東庭に降りた。(『権記』)

動物の死穢

  • 天元五年(982)4月15日、内裏で犬の死穢が発見された。(『小右記』)夜、牛の斃穢が発見された。(『小右記』同年4月16日条)
  • 同年4月21日、藤原実資は作物所の板敷の下で犬の死穢が発見されたことを聞いた。(『小右記』)
  • 同年5月25日丙辰、宮中で犬の死穢が発見された。(『小右記』)
  • 同年6月29日己丑、翌日の住吉社への走馬について、右馬寮で牛の斃穢があったことが伝えられた。(『小右記』)
  • 永観二年(984)10月28日甲辰、院で犬の死穢があった。(『小右記』同年10月30日条)
  • 同年11月16日壬戌、藤原実資は院に参ろうとしたが、犬の死穢があったことを聞いて取りやめた。(『小右記』)
  • 同年12月8日癸未、藤原為光の邸宅にて起こった犬の死穢が宮中に交じったので、御卜が行われた。(『小右記』同年12月10日条)
  • 永観三年(985)3月10日甲寅、院にて犬の死穢があった。(『小右記』)
  • 永祚元年(989)3月11日、宜陽殿にて馬の斃穢があったので、藤原兼家は石清水臨時祭に参らなかった。(『小右記』同年3月13日条)
  • 同年6月15日甲子の朝、厩で馬の斃穢があったので祇園社へ御幣を奉ることができなくなり、藤原実資とその妻は河原にて解除を行った。(『小右記』)
  • 長徳四年(998)2月6日乙未の朝、藤原忠親は犬の死穢によって假文を提出した。(『権記』)
  • 長保二年(1000)7月1日丙子、藤原行成は藤原道長のもとに参ったが、馬の死穢によって着座しなかった。(『権記』)
  • 同年9月14日戌子、藤原行成邸にて犬の死穢があった。(『権記』)
  • 長保六年(1004)1月27日壬子、藤原道長は枇杷殿にて犬の死穢を発見したので、内裏に参れなくなった。
  • 同年8月14日丙寅、平理義が藤原道長に犬の死穢があったことを報告した。しかし、道長が使者を遣わしたところ死穢はなかったということだったので、道長は理義をとんでもない者だと思った。(『御堂関白記』)
  • 寛弘三年(1006)2月7日庚辰、土御門第にて犬の死穢があった。(『御堂関白記』)
  • 寛弘七年(1010)8月8日甲寅、藤原道長は土御門第の門に入る時に犬の死穢に触れたので、物忌札を立てた。(『御堂関白記』)
  • 同年9月25日庚子、内裏における犬の死穢によって、臨時仁王会が延期された。(『御堂関白記』)
  • 寛弘八年(1011)1月22日丙申、藤原道長は内裏にて犬の死穢に触れたので退出し、河原にて解除を行った。(『御堂関白記』)
  • 同年9月24日甲午、藤原道長は土御門第において犬の死穢に触れたので、物忌札を立てた。(『御堂関白記』)
  • 寛弘九年(1012)2月23日辛酉、土御門第の僧房にて牛の斃穢があったので、藤原道長は土御門第に帰らなかった。(『御堂関白記』)
  • 同年3月20日丁亥、皇太后宮にて犬の死穢があった。(『御堂関白記』)
  • 長和二年(1013)、藤原道長は皇太后宮にて犬の死穢に触れたため、昇殿せずに退出した。(『御堂関白記』)
  • 同年8月6日乙丑の夜、土御門第にて犬の死穢があった。(『御堂関白記』)
  • 同年9月3日壬辰、土御門第の東渡殿の下において犬の死穢があった。(『御堂関白記』)
  • 同年9月7日丙申、土御門第の犬の死穢が内裏に広まったので、道長は三条天皇に召されて内裏に候宿した。(『御堂関白記』)

産穢

  • 天元五年(982)1月12日乙巳、藤原実資は七日に生まれた源惟章の男子の穢れに触れたため、暇文を提出し二日間の休暇を申請した。(『小右記』)
  • 永祚元年(989)3月29日庚戌、藤原実資は産穢に触れたため院及び天皇に二日間の休暇を申請した。(『小右記』)
  • 正暦元年(990)12月29日庚午の早朝、藤原実資のもとへ修理大夫が訪ねてきたが、大夫に産穢があったので立ったまま話した。(『小右記』)
  • 正暦四年(993)3月2日庚寅、藤原行成は産穢と称して三日間の休暇を申請した。(『権記』)
  • 長徳四年(998)12月3日、藤原行成に男児が誕生したが、後産がまだないため、僧都は触穢を嫌って一旦は退出したが、行成の説得によって戻り、立ったまま加持を行った。(『権記』)
  • 長保元年(999)12月23日壬申、藤原道長に女児が産まれたが、外に出られず穢れに触れてしまったので籠居しているということだった。(『権記』)
  • 長保二年(1000)7月25日庚子、源済政は前日に産穢に触れたにもかかわらず、一条天皇の物忌に籠もった。(『権記』)
  • 長保六年(1004)5月15日戊戌、内裏にて産穢があったので、17日に予定されていた読経を仁王経から法華経に改めた。(『御堂関白記』)

動物の産穢

  • 長保元年(999)8月27日丁丑、犬の産穢によって、藤原道長は数日間通っていた解脱寺の斎食に参るのをやめた。(『御堂関白記』)
  • 長保二年(1000)1月13日辛卯、犬の産穢によって、藤原道長は物忌の札を立てた。(『御堂関白記』)
  • 寛弘六年(1009)9月10日辛酉、藤原道長は去る8日から犬の産穢があったことを聞いた。(『御堂関白記』)
  • 同年9月27日戊寅、藤原道長は犬の産穢に触れたので、物忌札を立てさせた。(『御堂関白記』)
  • 寛弘八年(1011)2月18日壬戌、内裏にて犬の産穢があった。(『御堂関白記』)
  • 同年3月2日乙亥、枇杷殿において犬の産穢があった。(『御堂関白記』)

穢所

  • 長徳四年(998)10月13日、藤原行成が覚慶僧都の房にて穢れがあったのは本当か尋ねたところ、本当だということだった。(『権記』)
  • 長保二年(1000)2月13日辛酉、法興院にて五体不具穢があった。まだ、内裏でも触穢があった。(『権記』)
  • 寛弘七年(1010)8月29日乙亥、内裏にて触穢があった。(『御堂関白記』)

丙穢

穢所を訪れた人(乙穢)のもとを訪ねた人が受ける穢れ。

  • 長徳四年(998)8月30日、東三条院詮子の在所に参った者が丙穢に触れていたので、触穢となった。(『権記』)
  • 長和二年(1013)2月24日丙戌、内裏が丙穢に触れた。(『御堂関白記』)
  • 同年2月27日戊午、源経房と藤原資平が丙穢に触れた。(『御堂関白記』)

穢れがあった場合

河原にて解除を行う

穢れが見られた場合は、河原に出て解除げじょを行った。

  • 天元五年(982)2月28日申の終刻、藤原実資は不浄の気が見られたので、河原で解除を行った。(『小右記』)
  • 永観二年(984)11月2日戌申、円融上皇に穢れの疑いがあったので、河原にて解除が行われた。(『小右記』)
  • 正暦四年(993)3月1日己丑の早朝、藤原実資は穢れがあったので河原にて解除を行った。(『小右記』)
  • 正暦六年(995)2月3日己卯の明け方、藤原実資は穢れのため大原野社に奉幣せず、河原にて解除を行った。(『小右記』)
  • 寛弘八年(1011)3月2日乙亥、枇杷殿にて犬の産穢があったので、藤原道長は鴨川にて解除を行った。(『御堂関白記』)

假文を提出し、参内を控える

  • 永観三年(985)1月18日癸亥、右大将藤原済時は触穢のため假文かもん(欠勤届)を提出して参内しなかった。(『小右記』)
  • 同年2月6日辛巳、藤原実資は犬の死穢に触れたため、三日間の假文を提出した。(『小右記』)
  • 同年3月11日乙卯、院の穢れが交じってきたので、藤原実資は四日間の假文を提出した。(『小右記』)
  • 永祚元年(989)1月19日辛丑、藤原朝光と藤原済時は触穢のため假文を提出して参内しなかった。(『小右記』同年1月20日条)
  • 寛弘六年(1009)11月8日己未、春日祭使の祭使は本来藤原伊成が務めるべきであったが、触穢の假文を提出したので代わりに藤原忠経が務めた。(『御堂関白記』)
  • 寛弘七年(1010)8月10日丙辰、藤原道長は触穢によって数日間参内していなかったが、一条天皇に召されたので参内した。(『御堂関白記』)

寺社への参拝を控える

  • 天元五年(982)4月18日、藤原実資は穢れがあったので清水寺に参拝しなかった。(『小右記』)
  • 永観三年(985)4月9日癸未、藤原正信から院に故典侍頼子の穢れがあるとの報告があったので、翌日の平野社への使者の派遣を取りやめた。(『小右記』)
  • 永延元年(987)4月18日庚戌、藤原実資は触穢の疑いがあったので清水寺に参拝しなかった。(『小右記』)
  • 永祚元年(989)7月18日丙申、藤原実資は穢れのため、清水寺に参らなかった。(『小右記』)
  • 正暦四年(993)5月6日癸巳、藤原道兼に犬の死穢があり、公卿の多くが穢れにあったため、翌日に予定されていた八省院への行幸が中止になった。(『小右記』)
  • 長徳三年(997)10月20日、平惟仲は触穢のため、藤原道綱が止雨の臨時奉幣使派遣の上卿を務めることとなった。(『権記』)
  • 長徳四年(998)3月21日、臨時祭の陪従を務める予定だった藤原説孝に触穢があり、他の人と交替することとなった。(『権記』)
  • 長保六年(1004)2月1日乙卯、藤原道長は触穢のため鴨川にて大原野祭に奉幣しない旨の祓を行った。(『御堂関白記』)
  • 寛弘三年(1006)2月7日庚辰、藤原実資が土御門第を訪れて犬の死穢に触れたため、春日社への参詣を中止した。(『御堂関白記』)
  • 寛弘六年(1009)4月23日戊申、藤原道長は触穢のため賀茂社に参詣しなかった。(『御堂関白記』)
  • 同年4月24日己酉、内裏にて触穢があったので、藤原道長は藤原彰子の使いを出発させなかった。(『御堂関白記』)
  • 寛弘八年(1011)2月10日甲寅、春日祭使が内裏において穢に触れたので、源経親が奉仕することになった。(『御堂関白記』)
  • 寛弘九年(1012)12月17日庚辰、賀茂臨時祭使を務める予定だった源頼光が触穢となったので、藤原公信が代わりに奉仕することになった。(『御堂関白記』)

穢れに触れたものを交換する

  • 天元五年(982)4月21日、作物所の板敷の下で犬の死穢が発見されたので、穢れに触れた唐鞍は馬寮の平文の鞍に代えられた。(『小右記』)
  • 同年6月29日己丑、住吉社への走馬について、右馬寮で牛の斃穢があったため、円融天皇は代わりに左馬寮の馬を用いるよう命じた。しかし、左馬寮でも穢があったため、後日事情を聞くことになった。(『小右記』)

人との接触を避ける

  • 永観二年11月1日丁未、藤原実資は藤原頼忠に召されたが、触穢の疑いがあったので参らなかった。また、例幣を賀茂社に奉るのを取りやめた。(『小右記』同日条)
  • 長徳四年(998)9月1日、藤原中尹と大中臣永頼は触穢のため参入できなかった。(『権記』)
  • 長保元年(999)12月9日戌午、妙見堂の上の檜皮が破損していたので、一条天皇は修理させようとしたが、木工頭大江雅致が触穢のため接触できないということだった。→短期間で修理大夫に修理させることになった。(『権記』)
  • 寛弘八年(1011)9月14日甲申、大江景理が源兼澄の触穢の過状を持ってきた。(『御堂関白記』)
  • 寛弘九年(1012)2月28日丙寅、藤原道長はここ数日間触穢のため籠居していたが、この日は訪問者があった。(『御堂関白記』)

諸祭・行事を延期・中止する

  • 永観三年(985)3月10日甲寅、石清水臨時祭使の源時中が触穢を申し出たので、祭祀を26日に延期することになった。(『小右記』)
  • 正暦四年(993)1月17日丙午、一条天皇が建礼門に行幸して射礼が行われる予定だったが、左近衛府にて死穢があったので中止となった。(『権記』)
  • 同年2月18日丙子、前月に左近衛府の穢れによって延期されていた諸祭(釈奠祭・園韓神祭・大原野祭・春日祭・祈年祭)の日程が定められた。(『小右記』)
  • 寛弘六年(1009)9月29日庚辰、触穢のため中宮の仁王会が中止になった。(『御堂関白記』)
  • 寛弘七年(1010)8月9日乙卯、宇佐八幡宮の神宝の調進役が触穢のため、調進は延期となった。(『御堂関白記』)
  • 同年8月16日壬戌、内裏の触穢によって、敦成親王の真菜始が延期された。→10月11日丙辰に行われた。(『御堂関白記』)
  • 同年9月14日己丑、内裏の触穢によって延期されていた諸社への奉幣使が定められた。(『御堂関白記』)
  • 同年9月28日癸卯、触穢によって一条天皇の八省院行幸が中止になった。(『御堂関白記』)
  • 寛弘八年(1011)1月29日癸卯、内裏にて五体不具穢があったため、春日祭をはじめとした諸祭が延期された。(『御堂関白記』)
  • 同年2月4日戊申、触穢のため春日祭と祈年祭が延期された。(『御堂関白記』)
  • 同年3月9日壬午、金峯山詣について話があった。近日中に触穢があった場合は参詣を延期すべきだという意見が出た。(『御堂関白記』)
  • 寛弘九年(1012)3月25日壬辰、前日に内裏にて触穢があったが、寛弘六年に触穢があったときは賀茂祭を行っていた例に準じ、賀茂祭を行うべきだということになった。(『御堂関白記』)
  • 長和二年(1013)2月24日丙戌、内裏にて触穢があったので、三条天皇は祈年穀奉幣と石清水臨時祭を延期するよう命じた。(『御堂関白記』)
  • 同年3月3日甲午、前年に服喪によって中止された東宮由祓は今年行わなければならなかったが、触穢のため中止になった。(『御堂関白記』)

例幣を捧げない

  • 永延元年(987)5月1日壬戌、藤原実資は触穢の疑いがあったので例幣を奉らなかった。(『小右記』)
  • 正暦元年(990)8月1日癸卯、藤原実資には穢れがあったので、例幣を賀茂社に奉らなかった。(『小右記』)
  • 正暦四年(993)2月1日己未、世間に穢れがあったので、藤原実資は例幣を賀茂社に奉らなかった。(『小右記』)
  • 同年3月1日己丑、藤原実資は穢れのため例幣を賀茂社に捧げなかった。(『小右記』)
  • 長保元年(999)、藤原顕光曰く、源致書は触穢のため伊勢例幣を奉らないということだった。(『権記』)
  • 長保二年(1000)9月23日丁酉、源忠隆曰く「内裏に穢があるとき、奉幣宣命の料紙は大臣邸または国司邸から出されたものを用いる」ということだった。(『権記』)

読経を延期する

  • 長保元年(999)9月18日丁酉、藤原道長は滋野善言に対し触穢の期間内における季御読経の扱いを勘申させた。触穢の期間内に行うのは良しとしない例や延期した例が多かったため、延期することになった。(『御堂関白記』)
  • 寛弘元年(1004)閏9月18日己巳、内裏にて犬の死穢があったので、翌日の季御読経が延期された。(『御堂関白記』)
  • 同年10月22日壬寅の朝、土御門第の西面の小庭にて子犬の死穢があったので、秋季読経が延期された。(『御堂関白記』)

人と会うときは座らず立ったまま接する

  • 長保二年(1000)1月13日辛卯の夕方、藤原道長は東三条院のもとを訪れたが、犬の産穢のため立ったまま接した。(『御堂関白記』)
  • 寛弘元年(1004)10月24日、藤原忠輔が天台戒状を持ってきたが、触穢のため、藤原道長は忠輔を立たせたまま裁可した。(『御堂関白記』)
  • 寛弘七年(1010)8月13日己未、触穢の蔵人所出納が着座したことによって、内裏が翌月十日過ぎまで触穢となった。(『御堂関白記』)

年末年始の繁忙期は触穢でも出仕する

  • 長徳三年(997)12月13日、政務に携わる公卿がみな触穢となってしまったが、年末で神事も終えたので、穢れでも慎まないことにしてはどうかという事になった。(『権記』)

穢の記録

天元五年(982)

天元五年(982)1月17日、円融天皇は「穢は、対象となるものを初めて見たときに『穢』とする」という見解を示した。(『小右記』)

1月19日、円融天皇は穢に触れた官人が陣を訪れてはならないとした。(『小右記』)

1月22日、宮中で穢が発生したため、翌月の祭祀を停止あるいは延期することとなった。(『小右記』)

2月3日、藤原頼忠は穢のために延期すべき祭司として祈年祭・春日祭・釈奠祭・園韓神祭・大原野祭について奏上した。(『小右記』)
→延期された諸祭は祈年祭が2月18日、釈奠祭が2月24日、

2月4日、祈年祭を延期した。大祓が行われた。(『小右記』)

2月18日、延期されていた祈年祭が行われた。しかし、その夜、織部司の東辺の小屋が火事に遭い、藤原実資は世の中は不浄だと嘆いた。(『小右記』)

2月21日、藤原実資は穢れの疑いがあったので、春日祭への奉幣を取りやめた。(『小右記』)

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