平安時代

長徳の変(花山院闘乱事件)

長徳の変

長徳の変(花山院闘乱事件)は、長徳二年(996)1月16日、藤原伊周・隆家の従者と花山法皇の従者が闘乱になった事件である。
この事件以降、藤原伊周・隆家兄弟は没落することとなった。

道長と伊周・隆家の対立

伊周の内覧宣旨

藤原道隆が病に倒れる

長徳元年(995)2月26日壬寅、藤原道隆は前日より体調が悪く上表が行われた。(『小右記』)

藤原伊周に内覧宣旨が下る

同年3月8日甲寅、藤原斉信ただのぶは「藤原道隆の病が治るまで、雑文書や宣旨については、まず道隆に見せ、それから藤原伊周これちかに見せるように」と伝えた。
しかし、伊周は「道隆が病を患っている間は自分に委ねると聞いている」と主張した。
一条天皇の奏聞を経たところ「このことを道隆に伝え、指示に従うように」ということだった。(『小右記』)

藤原道隆が藤原伊周を関白とするように奏上する

4月4日庚辰、伊周は随身を賜ることになった。また、道隆は伊周を関白とするよう奏上するように言った。(『小右記』)

4月5日辛巳、中原致時から藤原実資のもとに伊周に随身を賜る宣旨が送られてきた。左右近衛番長各一人と近衛各三人を伊周に賜ることとなった。
一方、伊周を関白にする件について一条天皇は認めておらず、機嫌はよくなかったという。(『小右記』)

藤原道隆が出家する

4月6日壬午、藤原道長から実資のもとに「道隆が出家した」との書状が送られてきた。藤原安親からも、同様のことが伝えられた。(『小右記』)

藤原道隆が亡くなる

4月10日亥の刻頃、道隆が亡くなった。(『小右記』同年4月11日条)24日、道隆の葬儀が行われた。(『小右記』)

藤原道長に内覧宣旨が下る

5月11日丙辰、実資は道長が関白詔を蒙ったと聞いたが、源俊賢に事情を尋ねたところ関白詔ではなく、太政官中の雑事を行うように言われたということだった。(『小右記』)

道長と伊周・隆家の対立

道長と伊周の口論

長徳元年(995)7月24日戊辰、陣座において道長と伊周が口論になった。その時の様子は、闘乱かと思うほどであった。その場にいた人々は壁の後ろに群がって口論を聴き、嘆いていた。(『小右記』)

隆家の従者と道長の従者が闘乱する

7月27日辛未、七条大路において藤原隆家と藤原道長の従者が闘乱になった。(『小右記』)

隆家の従者が道長の従者を殺害する

8月2日丙子、道長の従者が隆家の従者に殺害された。
翌日、一条天皇は「隆家が下手人を差し出さないのであれば、参内してはならない」との綸旨を出した。(『小右記』)

伊周関係者の陰陽師・法師が道長を呪詛する

8月10日、高階成忠宅において陰陽師・法師が道長を呪詛した。(『百錬抄』)

事件

花山院闘乱事件

伊周・隆家の従者が花山院の従者と乱闘になる

当時、藤原伊周は故太政大臣藤原為光三女のもとに通っており、花山院はその妹の四女(藤原儼子たけこ)のもとに通っていた。ところが、伊周は花山院も三女のもとに通っているのと誤解したのである。(『栄花物語』)

長徳二年(996)1月16日、伊周の相談を受けた隆家は花山院を脅そうとして、従者に命じて四女のもとから帰る途中の花山院に矢を射させた。(『日本紀略』)矢は、花山院の衣の袖に当たった。(『栄花物語』)互いの従者同士が争い、隆家の従者が花山院の童子二人の首を持ち去った。(『三条西家重書古文書』)
『小記目録』には、隆家と花山院が闘乱になったとある。

花山院は四女のもとに通っていたことを知られたくなかったので事件を公にせず包み隠していたが、結局大勢の人々に知られることとなった。

伊周が兵を隠しているという噂が流れる

2月5日丙戌、平致光及び藤原伊周の邸宅に多くの兵が身を隠しているという噂が流れたので、検非違使は致光及び伊周、その家司である菅原董宣の邸宅を調査した。検非違使は董宣邸にいた八人の兵士を捕らえた。(『小右記』)

道長が伊周の罪名を勘申するよう命じられる

2月11日壬午、陣定において藤原道長は藤原斉信から伊周・隆家の罪科を決定するよう命じられた。道長は明法博士に罪名を勘申させた。(『小右記』)

中宮藤原定子が二条北宮に移る

3月4日甲辰の夜、中宮定子は二条北宮に移った。
しかし、供奉する者は少なく、饗宴もなかった。(『小右記』)

東三条院の病は呪詛によるものだという噂が広がり、寝殿の下から厭物が発見される

3月28日戊辰、東三条院藤原詮子の病は呪詛によるものだという噂が広がった。また、寝殿の板敷の下から厭物が発見された。(『小右記』)

この頃、一般臣民に禁じられている太元帥法を伊周が行っていたという噂が広まった。(『栄花物語』)

伊周・隆家の配流命令が下される

4月24日甲午、伊周・隆家の配流宣命が下された。その理由は、花山院を射たこと・東三条院詮子を呪詛したこと・太元帥法を私的に行ったことによる。(『小右記』)
4月25日乙未、伊周は中宮の御所に籠もって配流に応じなかった。二条大路は見物人であふれ返っていたという。(『小右記』)
4月28日戊戌、伊周と中宮定子は手を取り合って離れなかったので、どうにもできなかった。(『小右記』)
5月1日庚子、隆家を捕らえ配流したが、伊周は逃げ隠れた。2日辛丑、伊周は高階道順とともに愛宕山に向かったというので、追跡させた。(『小右記』)

隆家が捕らえられ配流される/中宮定子が出家

5月1日庚子の朝、中宮において藤原隆家が捕らえられて配流された。伊周は逃亡し、姿を消した。(『小右記』)
また、中宮定子が出家した。(『小右記』同年5月2日条)

伊周が愛宕山に逃亡

5月2日辛丑、伊周が高階道順とともに愛宕山に逃亡したことが判明した。
惟宗允亮・平倫範・左衛門府生忠宗が愛宕山に向かった。(『小右記』)

伊周が出家する

5月4日癸卯、伊周は出家した。
伊周の居場所を突き止めるために拘禁されていた高階信順・高階明順・源明理・源方理が釈放された。(『小右記』)

逃亡中、伊周は父道隆の墓のある木幡に参詣していた。(『栄花物語』)なお、『栄花物語』には木幡詣の記述があるが、『小右記』には記されていない。

伊周家司の郎等の拘禁を解く

5月6日乙巳、伊周の家司・菅原董宣の郎等四人(源元正・菅原宗忠・平常則・志太元貞)が釈放された。(『小右記』)

惟宗允亮が伊周の身柄を領送使に引き渡す

5月10日己酉、惟宗允亮が伊周の身柄を領送使為貞に引き渡した。(『小右記』同年5月12日条)

伊周の母・高階貴子が来向

5月11日庚戌、伊周と行動を共にしていた母貴子が来向した。伊周は病のため丹後国に逗留し、病状がよくなってから配所に送るよう宣旨が下された。(『小右記』)

伊周・隆家が病のため逗留

5月15日甲寅、領送使は伊周と隆家が病のため配所に行かず逗留すると言上した。病が癒えるまで、伊周は播磨国、隆家は但馬国に逗留することになった。

伊周が密かに入京したという噂が流れる

10月8日乙巳、伊周が密かに入京し、中宮定子のもとに潜伏しているという噂があった。また、伊周は出家したとはいえ、髪は剃っていなかったという。(『小右記』)

この頃、中宮定子は産期に当たっていた。『栄花物語』によると、伊周が入京したのは病の母貴子に会うためだったとされている。

伊周が太宰府に配流される

10月10日丁未、伊周が太宰府に配流された。(『小右記』同年10月11日条)

伊周が太宰府に到着

12月8日、伊周が太宰府に到着した。(『扶桑略記』)

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