資料室 文学

大鏡より「花山院の出家」

『大鏡』より「花山天皇」の現代語訳。

あらすじ

次の帝は、花山天皇といった。

冷泉れいぜいの第一皇子である。

母は太政大臣藤原伊尹これまさの長女で皇后の懐子かいしである。

この帝は、安和元年(968)戌辰10月26日、母方の祖父伊尹の一条の館で生まれたとあるが、世尊寺での事だ。
その日は冷泉院の時代で、大嘗会の御禊が行われた。

安和二年(969)己巳8月13日、花山院は皇太子となった。2歳の時だった。

天元五年(982)壬午2月19日、元服した。15歳の時だった。

永観二年(984)甲申8月28日、天皇に即位した。17歳の時だった。

寛和二年(986)丙戌6月22日の夜、驚いたことに、花山天皇は人知れずこっそりと花山寺に赴いて出家した。19歳の時だった。
天皇として世を治めたのは2年間。出家した後は22年間ご存命であった。

気の毒なことに、退位した夜、藤壺の上の部屋の小戸を出ると、有明の月がひどく輝いていた。

天皇が「こんなに明るくては人に見られてしまう。どうすればよいだろうか」と仰った。
しかし、粟田殿が「そうは言っても、取りやめることはできないのです。三種の神器のうち、神璽と宝剣はもう春宮とうぐうにお渡りになってしまったのですから」と騒々しく申し上げた。

春宮=皇太子。ここでは、懐仁親王のこと。

天皇が出発する前に粟田殿が自ら神璽と宝剣を春宮に渡してしまったので、今さら天皇が戻るようなことはあってはならないと思ってこのように申したのだ。

明るい月の光をまぶしく思っていると、月の表面に群雲がかかって少し暗くなった。
それを見て花山天皇は「我が出家は成就するだろう」と言って歩き出したが、弘徽殿の女御からもらったもので普段から破り捨てずに肌見離さずご覧になっていた手紙を思い出した。

花山天皇は「しばし待て」と言って、手紙を取りに戻ろうとした。
すると粟田殿が「なぜそのような未練がましいことをお考えになるのですか。この機を逃せば自ずと出家に差し障りも出てくるでしょうに」と嘘泣きをした。

こうして土御門から東の方へ向かっていると、安倍晴明の邸宅の前を通り過ぎたところで手をおびただしく、はたはたと打った。

「帝が退位なされる兆しが天変に顕れたが、すでに退位されてしまったようだ。参内してこの事を奏上したい。牛車の準備をせよ」と言う晴明の声が聞こえた。
花山天皇は晴明の言葉にしみじみと感じ入った。

晴明が「式神を一人内裏に参上させよ」と言うと、目に見えぬ何かが戸を押し開けて帝の後ろ姿を見たのだろうか、
「ちょうど今、帝が目の前を通り過ぎるところです」と答えたようだ。
晴明の家は土御門の町口に位置していたので、帝の通り道だったのだ。

花山寺に到着して、花山天皇は髪を下ろした。
栗田殿が「少しの間ここを離れて、父に出家する前の姿を今一度見せて、必ず戻ってきます」と言ったのを聞いて、花山天皇は「朕を騙したな」と泣いた。
なんと気の毒で、悲しいことだろう。

日頃からよく「帝が出家なさいましたら、私もお供いたしましょう」と約束をしていたというのに、恐ろしいことよ。

栗田殿の父・東三条殿は、息子も出家してしまったのではないかと気に病んで源氏の武者たちを護衛に付けられた。

都にいるときは隠れて、堤を渡る辺りで出てきた。

寺などには、息子を無理矢理出家させようとする者が出てくることを考慮して一尺ばかりの刀を抜いて警護していた。

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