陰陽道

方忌(かたいみ)・方違(かたちがえ)

方忌方違

方忌かたいみは陰陽道における方角についての禁忌で、方違かたちがえは方忌を避けるために他の場所に泊まることである。

忌むべき方角は年単位・月単位・日単位あり、年単位では大将軍・金神・八卦、月単位では王相神、日単位では太白神・土公神・天一神などである。

方忌

方角の禁忌には、常に禁忌とされる方角と、暦によって一時的に禁忌とされる方角がある。

  • 鬼門……すべての人が忌むべき方角。中国・日本では丑寅(艮)の方角である。
  • 絶命……一生のうちで、何年か忌むべき方角。人それぞれ時期は異なる。
  • 遊行神の移動によって起こる方忌

方忌

目的地へ行く年月日と、目的地へ行く人間の星巡りを基にして陰陽師が忌むべき方角を算出する。

方忌の記録

  • 寛和元年(985)6月21日甲午の夜、四十五日の方忌を違えるため、藤原実資は子供を源遠業の邸宅に移した。(『小右記』)
  • 永延元年(987)5月4日乙丑の夜、藤原実資は方忌のため藤原陳泰の邸宅に泊まった。(『小右記』)
  • 長徳三年(997)11月18日己卯の夜、方忌があった。(『小右記』)
  • 同年12月13日、藤原行成は方忌のため三条宅ではなく源成信の邸宅に泊まった。(『権記』)
  • 長保元年(999)7月8日戊子、一条天皇は北対へ遷御する予定だったが、方忌のため夜に行われるということだった。(『小右記』)
  • 長保元年(999)7月25日、藤原行成には方忌があったので、物忌を行わなかった。(『権記』)
  • 同年9月11日、藤原行成は方忌のため観修の車宿に泊まった。(『権記』)
  • 同年10月17日、藤原行成は方忌のため内裏に宿直せず退出した。(『権記』)
  • 長保二年(1000)、5月7日癸未、藤原行成は方忌のため内裏に宿直せず退出した。(『権記』)
  • 寛弘元年(1004)閏9月25日丙子、藤原道長は方忌のため夜になってから内裏を退出した。(『御堂関白記』)
  • 寛弘八年(1011)9月10日庚辰、藤原妍子が方忌のため一条院の別納に移った。(『御堂関白記』)
  • 同年11月11日庚辰、藤原道長は内裏から退出したが、方忌があったので、夜になってまた内裏に入った。(『御堂関白記』)
  • 寛弘九年(1012)閏10月15日己卯、藤原道長は内裏にて候宿すべきだったが、方忌のため退出した。(『御堂関白記』)
  • 長和二年(1013)2月10日壬申、藤原道長は方忌のため中宮に参った後土御門第に帰り、皇太后宮に候宿した。(『御堂関白記』)
  • 同年4月2日癸亥、法興院の仏堂建立に辺り、翌日から大将軍遊行の方角になるため、藤原道長は源雅通の邸宅に泊まった。(『御堂関白記』)
  • 寛仁元年(1017)3月27日、安倍吉平は「来月十九日に法興院の御堂を立てるべきですが、方忌があります。来月四日より前に他所へ渡ってください。済政の家がよろしいでしょう」と申した。(『御堂関白記』同日条)

方違

方違

方忌を避けるために行われるもの。

目的地の方向が凶となっている場合、一旦他の方角で一泊し、次の日に目的地へ向かう。

他の場所を経由して目的地へ向かう

犯土(ぼんど)

  • 寛弘七年(1010)11月4日己卯の戌の刻、翌日から土御門第に犯土の禁忌があるため、藤原道長は源頼光の邸宅に移った。(『御堂関白記』)
  • 同年3月14日丁亥の早朝、土御門第に犯土の禁忌があるため、源倫子が道長のもとに移ってきた。(『御堂関白記』)
  • 長和二年(1013)2月18日庚辰、藤原道長は犯土の禁忌によって三条の邸宅に移った。(『御堂関白記』)
  • 同年4月5日丙寅、法興院の犯土の禁忌によって、藤原道長は源雅通の邸宅から皇太后宮に参った後土御門第に帰り、夜になって再び雅通の邸宅に行った。(『御堂関白記』)

季節の方違

  • 承平六年(936)1月5日、藤原忠平は藤原師輔に「明日は立春だから、今夜は一条の師輔邸にて方違をしようと思う」と話した。(『九暦』)
  • 大治五年(1130)6月21日、源師時は「来年の正月は立春だから、十二月の晦日の晩に方違をしよう」と述べている。(『長秋記』同日条)
  • 正治二年(1200)1月12日、藤原定家は「節分の方違をする。今夜御所に参って泊まる。節分の忌みに依るものである」と述べている。(『明月記』同日条)
  • 保安元年(1120)1月2日、藤原忠実は「今年、堂宇は宇治の平等院を建立すべきだが、金神、巳の方角にある。京から宇治は巳の方角に当たる。よって、去る二十九日に宇治に向かって方違を行った」と述べている。(『中右記』)
  • 永久二年(1114)3月20日、「今日は夏の節分の方違を行うために、鳥羽殿へ御幸があった」とある。(『中右記』同日条)
  • 長治二年(1105)9月21日、「冬の節分の夜、方違のために鳥羽殿から土御門邸に還御した。後にまた鳥羽殿に還御した」とある。(『中右記』同日条)
  • 仁安元年(1166)10月5日、「天皇は方違のために成頼卿の土御門邸に行幸した」(『兵範記』)→6日に立冬、十月節とある。
  • 承安四年(1174)10月3日、「冬の節分によって方違をするため、女院の御所に参って泊まる」とある。(『玉葉』)

文学における方違

『枕草子』二二段において、方違に来たにもかかわらずご馳走のない家は、興ざめだとしている。
また、『源氏物語』では、光源氏が方違のため空蝉の邸に行っている。

方違(ほうちがい)神社

方位の災いを除く神が祀られている。

方違の記録

  • 延長四年(926)8月18日、「忌みを違えるため、修理大夫の邸宅に泊まる」とある。(『貞信公記』)
  • 寛和三年(987)1月4日丁卯、四十五日間の忌みを違えさせるため、藤原実資は子供を大蔵高行の邸宅に移した。(『小右記』)
  • 永延三年(989)5月4日癸未の夜、藤原実資の娘は方違のため藤原義理の邸宅に移った。(『小右記』)
  • 同年5月9日戊子の夜、藤原実資は妻とともに方違を行うため大蔵高行の邸宅に移った。(『小右記』)
  • 長徳四年(998)10月9日の夜、藤原道長は方違のため桃園に泊まる予定であった。(『権記』)
  • 長保元年(999)7月7日の夜、一条天皇は方違のため東対に移った。(『権記』)
  • 同年10月25日の夜、藤原彰子は入内のため西京の大蔵録太秦連理の邸宅に方違を行った。(『権記』)
  • 同年12月22日辛未、藤原詮子が方違のため法興院に来た。(『権記』)
  • 長保二年(1000)7月12日丁亥の夜、藤原詮子は方違のため藤原正光の邸宅に移った。(『権記』)
  • 長保六年(1004)4月24日丁丑、敦道親王は方違のため藤原道長の邸宅に移った。(『御堂関白記』)
  • 同年4月26日己卯、藤原道長は方違を行った。(『御堂関白記』)
  • 寛弘元年(1004)8月26日戊寅、藤原道長は方違を行った。(『御堂関白記』)
  • 寛弘二年(1005)7月30日丙子、藤原道長の子どもたちは方違のため一条第に移った。(『御堂関白記』)
  • 同年8月3日己卯の夜、藤原道長は方違のため東三条第に移った。(『御堂関白記』)
  • 寛弘三年(1006)10月20日己丑、冷泉院は方違のため小南第に移った。(『御堂関白記』)
  • 寛弘八年(1011)9月18日戊子、藤原道長は方違のため土御門第の御仏堂に泊まった。(『御堂関白記』)
  • 同年10月15日甲寅の夜、藤原彰子は方違のため一条院の東の別納に移った。(『御堂関白記』)
  • 長和二年(1013)2月11日癸酉、藤原道長は18日に法興院の堂の基壇を築く予定だったが、その日は大将軍遊行の方角であったため、方違のために源雅道の邸宅に泊まった。14日に土御門第に帰った。(『御堂関白記』)
  • 同年10月11日己巳の夜、藤原道長は方違のため一条第に移った。(『御堂関白記』)

文学における方違

今昔物語集

  • 巻27第30話 幼児為護枕上蒔米付血語

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