平安時代の陰陽師には、官人陰陽師と法師陰陽師という二種類の陰陽師がいた。
官人陰陽師は陰陽寮で働き、朝廷から位階や官職を与えられる。安倍晴明もこの官人陰陽師の一人であった。
一方で、朝廷から官職を与えられないのが、法師陰陽師(民間陰陽師)である。
官人陰陽師
『御堂関白記』に登場する陰陽師は、安倍晴明・賀茂光栄・安倍吉昌・大中臣実光・安倍吉平・惟宗文高の六人である。
賀茂光栄は天延三年(975)正月には暦博士であった。安倍吉昌は寛和二年(986)に天文博士に補任されており、大中臣実光は寛弘元年(1004)正月に従五位下に除され、その後も昇進して長元四年(1031)には陰陽頭に補任されている。安倍吉平は寛弘八年(1011)十月の時点で主計頭になっており、惟宗文高もまた、長和元年(1012)六月には陰陽頭であった。
官人陰陽師は上級貴族から依頼されることが多く、中級貴族は上級貴族の依頼を請けていない官人陰陽師であれば利用することができた。
官人陰陽師の人数
陰陽寮において、陰陽允が大允・少允に分けられ、さらに少允と陰陽助・陰陽少属・陰陽博士・暦博士・天文博士には権官が各一名ずつ設置されている。
これらを踏まえると、平安時代中期の陰陽寮には多くて二十三名、少なくとも二十名はいたことになる。
官人陰陽師の職場
陰陽寮の官人の中には、都を離れてそのまま地方に留まる者もいた。
地方に下って受領の地位にある者に随行して財を成すほうが、都で勤めるよりも稼げるからである。
なお、地方に留まっていても、陰陽寮の官職に就いている場合は陰陽寮の官人として扱われる。
法師陰陽師
陰陽寮に属さない(官人陰陽師ではない)陰陽師は非公式の陰陽師と見なされ、「隠れ陰陽師」ともいわれた。
『宇津保物語』において陰陽師は巫・博打・京童部・嫗・翁などの庶民層と同等に見なされ、清少納言は『枕草子』において、「見苦しきもの」の一つとして「紙冠を着けて祓をする法師陰陽師」を挙げている。
法師陰陽師を利用する人々
藤原道長や藤原行成、その他上級貴族が呪詛以外の目的で法師陰陽師を利用したことは、藤原実資の他には確認されていない。
実資の場合は、賀茂光栄や安倍吉平などの官人陰陽師との併用ではあるが、皇延という法師陰陽師に幾度か卜占を行わせている。(『小右記』長和三年〈1014〉十一月五日条、長和四年〈1015〉七月十三日条、同年八月二日条)
平安時代の上級貴族たちは法師陰陽師にあまり関心がなかったようだ。
呪詛をする法師陰陽師
寛弘六年(1009) 敦成親王呪詛事件
寛弘六年(1009)2月1日丁亥、藤原行成は前日に藤原道長から厭符を見せられた。道長曰く、その厭符は藤原彰子・敦成親王を呪うものだった。(『権記』)
同年2月5日辛卯、藤原道長は呪詛事件に関わったとみられる高階光子・源方理らの罪名を勘申するよう命じた。(『権記』)
『政事要略』巻七十糾弾雑事蠱毒厭魅及巫覡では、高階光子のもとに出入りしていた者として僧道満の名が挙げられている。(「元来僧道満、年来召仕彼宅之陰陽師」)※実際に呪詛に関わったのは僧円能である。
同年2月20日丙午、高階光子と源方理は除名され、官位を剥奪された。藤原伊周は朝参を禁じられた。(『権記』)
円能は高階光子や源万理などの中級貴族から依頼されて呪詛を行っていた。また、円能は中級貴族である源為文の邸宅によく出入りしていたことから、検非違使庁から拷問を受けた際に為文の関与についても尋問されている。
他にも、右大臣を呪詛する法師陰陽師(『百錬抄』長徳元年〈995〉八月十日条)や一条院御息所を呪詛した皇延・護忠の師弟などがいる(『小右記』長元三年〈1030〉五月四日条)。
記録に残されている法師陰陽師は呪詛に関わっているものが多い。
呪詛が行われる前に、円能は高階光子から禊祓の報酬として絹一疋と紅花染衣一領を受け取っている。
当時の絹一疋は一・五石の玄米と等しく、法師陰陽師のような層にとっては破格の報酬だった。
実際には陰謀に加担することに対してのものであった可能性が高いが、円能に仕えていた糸丸という童子は知らなかったようだ。(『政事要略』)
その他、呪詛に関与した法師陰陽師として史料に残されているのは、道満・円能・源心・妙延・安正・皇延・護忠の七名である。
卜占をする法師陰陽師
藤原実資は度々皇延という法師に卜占を行わせていた。
- 長和三年(1014)2月21日丁丑、前日に藤原実資邸に鹿が乱入する怪異があったので、実資は賀茂光栄・安倍吉平に吉凶を占わせた。その後、皇延法師にも占わせた。(『小右記』)
- 同年6月27日辛巳、藤原実資は皇延法師を召して前日の鹿の怪異について吉凶を占わせた。(『小右記』)
- 長和三年(1014)11月5日丁亥、藤原実資は前日の春日明神による託宣について疑念があったので、賀茂光栄と皇延に真偽を占わせたところ虚言だということだった。(『小右記』)
- 長和四年(1015)7月13日庚申、藤原資平が病に苦しんでいたので、藤原実資は安倍吉平を召して占わせた。さらに、皇延法師にも占わせた。疫病の気があるということだった。
→7月14日辛酉、藤原実資は「皇延法師の占ったとおりだった」と記している。(『小右記』) - 長和四年(1015)8月2日己卯、前日に起こった鷲の怪異について、安倍吉平は病に気をつけなければならないと占った。また、皇延法師も占い、その慎むべき期間は吉平が占ったものと同じであった。(『小右記』)
弟子がいた皇延法師
長元三年(1030)5月4日丙辰、小一条院の御息所を呪詛した罪で法師皇延とその弟子・法師護忠が捉えられた。(『小右記』)
弟子を取り人数を増やす
官人陰陽師が陰陽寮で陰陽師を育てる一方で、法師陰陽師は弟子を取ることで人を増やしていた。
円能には妙延という弟子がおり、皇延にも護忠という弟子がいた。