平安時代

寛和の変(花山天皇の退位・出家)~出家の途中で安倍晴明の家の前を通りかかる

花山院の出家

寛和かんなの変とは、寛和二年(986)6月23日に起こった花山天皇の退位・出家事件である。
『古事談』では、寵愛していた弘徽殿の女御の死を悲しんでいたところへ藤原道兼が出家を勧めてきたとされている。
しかし、花山天皇出家の際に道兼は行方をくらまして剃髪しなかった。
『大鏡』によると、花山天皇は出家のために寺に向かう途中で、安倍晴明の邸宅の前を通り過ぎた。

花山院の出家

寵愛していた弘徽殿女御(藤原忯子)の急逝

寛和元年(985)7月18日辛酉の午の刻頃、弘徽殿女御(藤原忯子よしこ)が没した。
女御は、懐妊七ヶ月目であった。(『小右記』)

花山天皇が悲嘆に暮れていたところへ、藤原道兼は良い機会だとばかりに「この世は無常である」という法文(「妻子と珍宝及び王位、命終の時に随わざる者なり」など)を記して見せ、出家を勧めた。道兼は、天皇とともに出家して御供すると約束した。(『古事談』)

花山天皇の出家

寛和二年(986)6月23日の子の刻、花山天皇は密かに内裏を抜け出した。藤原道兼と天台僧厳久が御供した。厳久は花山天皇の側を離れず、道兼は馬に乗っていた。
天皇は弘徽殿の女御からもらった手紙を忘れて来てしまったので取りに戻ろうとしたが、道兼から「剣璽(三種の神器の一つ)はすでに東宮(懐仁親王:後の一条天皇)のもと(凝華舎)にお渡ししてしまったので、もうお戻りになれません」と申し上げた。

内裏を出発しようとするとき、雲ひとつない空に月が明るく輝いていたのを見て、天皇は感慨深く眺めて立ち止まっていたところ、雲が月を覆い隠したので、天皇は「我が出家は成就した」と言って貞観殿の高妻戸から飛び降り、北の朔平門から土御門を東へ進んだ。(『古事談』)

『大鏡』では、月を見た後に弘徽殿の女御からの手紙を取りに行こうとして道兼に制止されている。

花山天皇たちは寺に向かう途中で、安倍晴明の家の前を通り過ぎた。
晴明は事前に天皇退位の兆しとなる天変を目撃していたが、すでに退位していたので、参内して奏上することにした。
晴明の声を聞いた天皇はしみじみと感じ入った。
晴明の式神が戸を押し開けると天皇が家の前を通り過ぎるところが見えたので、晴明に知らせた。(『大鏡』)

三人は花山寺(元慶寺)に向かい、厳久に髪を剃らせた。花山天皇は十九歳で出家した。この時、藤原兼家は懐仁親王のもとに参上し、諸陣の警備を固め出入りを禁じた。
翌朝、藤原義懐・藤原惟成らも花山寺に参り、天皇と同じく出家した。未の刻に藤原実資が参上し、天皇の御前に伺候した。
花山天皇は「すでに宿願を遂げた。世間からどう思われても構わないが、太上天皇の尊号と封禄などは決して受け取ることができない。しばらくは横川に住むことにする」と言った。義懐は「御在位の間、この上ない朝恩を浴びました。今、退位に際して心変わりするのは本意ではないため、出家しました。それに、いつまでも世俗にしがみついているのもよくないので」と述べた。惟成も同じことを述べたという。

花山天皇は道兼からともに出家すると約束されていたが、天皇が剃髪した後、道兼は「父上(藤原兼家)に髪のある姿を今一度見せてから戻って参ります」と申して姿を消した。
天皇は、「私を騙したな」と涙を流したという。(『大鏡』『古事談』)

出家後の朝廷

花山天皇が出家すると世の中は大騒ぎになったが、藤原兼家は「そこまで大変なことにはなっていないはずだ、よく探せ」と言って騒がなかった。(『古事談』)

一条天皇が即位

同年6月23日、花山天皇の退位に伴い懐仁親王が一条天皇として即位した。当時七歳であった。(『愚管抄』)

一条天皇の母は藤原兼家の娘・東三条院詮子である。一条天皇の外祖父(母方の祖父)にあたる兼家が摂政を務めた。

藤原道兼の出世

花山天皇の出家後、五ヶ月のうちに道兼は五位の小弁から正三位中納言へ昇進した。(『古事談』)

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