千葉常胤・三浦義澄・上総広常の進言を受けた頼朝は、まず東国を平定してから上洛することにした。
弟・義経との再会も果たし、頼朝は常陸国に向けて出発した……。
経過
常陸国へ
治承四年(1180)10月27日、頼朝は佐竹秀義を追討するため常陸国へ向けて出発した。
この日は頼朝にとって御衰日にあたるので周りから反対されたが、頼朝が日取りを気にする必要はないというので出発することになった。
ポイント
陰陽道で行動を慎むべきとされた日。
行年衰日(その人の年齢によって決まるもの)と生年衰日(生まれ年によって決まるもの)の2種類あるが、通常は行年衰日が用いられる。
この年、頼朝は34歳のため子・午の日が御衰日にあたる。
佐竹氏に探りを入れる
11月4日、頼朝は常陸国の国府に到着した。
千葉常胤・上総広常・三浦義澄・土肥実平ら宿老たちが話し合った結果、佐竹氏の権威は国外にまで及び国内は郎従で満ちているので、軽率な行動はせず作戦を練って佐竹を倒そうということになった。
頼朝は佐竹氏の考えを探るために上総広常を派遣した。
佐竹義政はすぐに参上すると返事をしたが、佐竹秀義は思うところがあってすぐには参上できないと言って金砂城に籠もった。(『吾妻鏡』同日条)
佐竹義政を誅殺する
同日、上総広常は義政を大矢橋の辺りまでおびき寄せた。
その時、頼朝は義政の家人らを橋の外に退け、義政一人だけを橋の中央に招いた。
そして、広常に誅殺させた。
とても素早い処置だったので、義政の家人のある者は降伏し、ある者は足早に逃げていった。
金砂城を攻める
その後、頼朝は佐竹秀義を倒すために軍勢を派遣した。
下河辺行平らが数千騎を率いて金砂城に向かった。
- 下河辺行平
- 下河辺政義
- 土肥実平
- 和田義盛
- 土屋宗遠
- 佐々木定綱
- 佐々木盛綱
- 熊谷直実
- 平山季重 他
秀義は金砂山に城壁を築き防戦の準備をしていたので、少しも動揺せずに戦いを始めた。
金砂城は高い山の頂上にあったが頼朝方の軍勢は山麓の渓谷を進んでいたので、両軍の位置は天と地のような隔たりがあった。
そうしているうちに城から矢石が飛んできて、頼朝軍の兵士に当たった。
頼朝軍から射た矢はほとんど山の上に届かず、岩で道が塞がれて進軍することができなかった。
兵たちも疲れ果ててどう戦えばいいのか考えているうちに一日が終わった。
佐竹の防御を打ち破る
5日寅の刻、土肥実平・宗遠らが頼朝に使者を送り、佐竹の要塞はとても強固で人間の力で突破することは難しく、中にいる兵も一騎当千の強者揃いだと伝えてきた。
広常が佐竹秀義の叔父佐竹義季を引き入れてはどうかと提案したので、頼朝は広常を義季のもとへ派遣した。
義季は頼朝方に付き、広常とともに金砂城の背後に回ってときの声を上げた。
これを予測していなかった秀義とその郎従たちは防御する術もなく逃亡した。(『吾妻鏡』同日条)
6日丑の刻、広常は秀義が逃亡した跡に入り城壁を焼き払った。
その後、手分けして秀義を探していると、奥郡の花園城に向かったという噂が聞こえてきた。
合戦の経過報告と勲功
7日、広常らが宿所に帰参し、合戦の経過や秀義の逃亡、城郭を焼き払ったこ事などを報告した。
熊谷直実と平山季重には特に勲功があったので、彼らの恩賞は他の武士たちよりも厚くすることになった。
また、佐竹義季が配下に加わった。
8日、秀義の所領である常陸国奥七郡(那珂東・那珂西・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・多珂)と太田・糠田・酒出を収公し、恩賞に充てた。
佐竹氏を御家人に加える意義
新たな領地を得たことによって頼朝は御家人たちの所領欲求に応えられるようになり、家人統制の基盤が強化された。
また、地理的関係から佐竹氏と奥州藤原氏が手を組む可能性もあったため、関東では最大勢力を有する平氏方武士団である佐竹氏を倒し、その一部である義季を御家人として取り込んだことは大きな意義があった。
岩瀬太郎が配下に加わる
佐竹氏家人の涙
治承四年(1180)11月8日、逃亡していた佐竹氏の家人が10人程現れたという噂があったので、広常は和田義盛とともに家人たちを生け捕った。
家人のひとりが「死んだ主人の事を思うと、生きていてもどうしようもない」と泣きながら言った。
頼朝が「そう思うなら、どうして佐竹が誅される時に一緒に自害しなかったのか。」と問うと、家人は「主人は一人で橋の上に呼び出されて首を取られたので、後々の事を考えて逃げ出した」と言った。
さらに、家人は頼朝に平家の追討に皆で力を合わせるべきだ、罪のない一族を滅ぼすのはよくないと言った。
広常は家人が謀反を起こそうとしているので誅すべきだと言ったが、頼朝は家人を許し御家人に加えた。(『吾妻鏡』同日条)
広常はこの家人が謀反を起こそうとしているのは疑いないので早く誅すべきだと言ったが、頼朝はその男を許したばかりか、御家人に加えた。
この男の名前は、岩瀬太郎という。
参考資料
- 上杉 和彦「源平の争乱 (戦争の日本史6) 」吉川弘文館、2007