亀前事件
政子が愛人宅を破壊
寿永元年(1182)11月、源頼朝の愛人亀前は伏見広綱という者の家に住んでいた。
ところが、北条時政の妻牧の方がひそかに頼朝が愛人の家に通っていることを政子に伝え、激怒した政子は牧の方の父宗親に命じて広綱の家を破壊させた。
広綱は亀前を連れてなんとか逃げ出したという。(『吾妻鏡』養和二年〈1182〉11月10日条)
一般に牧宗親は牧の方の父とされているが、『吾妻鏡』建久二年(1191)11月12日条では「牧の方が京都から下向された。兄弟の武者所(牧)宗親・外甥の越後介高成らを伴われたという。」とあるので、宗親は牧の方の兄弟という説もある。
政子の激しい一面がわかる場面だが、後日、頼朝は牧宗親を戒めた。
遠江国掛川周辺の出身で、安田義定の推挙で源頼朝の右筆として仕えた。
亀前事件の2ヶ月前には新田義重の娘に頼朝の恋文を届けている。
頼朝が宗親に激怒
頼朝は牧宗親の髻を切り落とし、「政子を大事に思うのはよいが、その命令に従うにしてもどうして事前に報告してこなかったのだ。すぐに恥辱を与えるというのは、何を考えているのか」と憤慨したので、宗親は泣きながらその場を立ち去った。
その夜、頼朝は亀前が避難していた大多和義久の家に泊まったという。(『吾妻鏡』同年11月12日条)
時政が伊豆に帰る
ところが、頼朝が宗親を処罰したことを不満に思った時政は伊豆国へ帰った。
このことは、挙兵以来深い信頼関係で結ばれていた頼朝と時政の初めての行き違いだった。
時政に従わなかった義時
頼朝は激怒し、梶原景季に「江間(義時)は穏やかな者だから、父(時政)が休暇の申請も出さずに国へ帰っても従ってはいないだろう。鎌倉にいるかどうか見てこい」と命じた。
景季が帰参して義時が帰っていないことを報告すると、頼朝は景季を介して義時を呼び出し、「宗親が奇怪な行動を取ったので処罰したところ、時政が不満に思って国に帰ったのはまったく意に介さないことだ。お前が時政に従わなかったのは特に感心するところである。必ず子孫の護りとなるだろう。後で恩賞を与えよう」と言った。
義時はこれに対して回答はせず、「恐れ多いことです」とだけ言って退出したという。
亀前と伏見弘綱の追放
12月10日、亀前は政子の怒りを恐れていたが、頼朝の寵愛が日ごとに増していったので中原光家の邸宅に移り住んだ。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉12月10日条)
16日、政子の怒りによって伏見広綱が遠江国に配流された。
参考資料
- 関 幸彦「北条時政と北条政子―「鎌倉」の時代を担った父と娘」山川出版社、2009年
- 細川 重男「執権 北条氏と鎌倉幕府」講談社、2019年
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