鎌倉時代

組織としての鎌倉幕府

「幕府」という言葉は元々中国の古典的用法で、出征中の将軍が政務を執る場所として設置した幕営のことである。
この意味に沿えば建久元年(1190)源頼朝が右近衛大将に任ぜられた時か、建久三年(1192=昔は定説だった「いい国つくろう鎌倉幕府」の年)に頼朝が征夷大将軍に任ぜられた時が鎌倉幕府が成立した年ということになるが、一般的には政権としての基盤が築かれた時点が幕府成立の時期だと考えられている。

鎌倉に拠点を置いた源頼朝にとって新たな東国政権の地盤を固めたことは、以後の鎌倉幕府の成長の基礎を築いたものであった。
しかし、幕府の運営には東国の武士たちよりも京都から下ってきた下級貴族たちの力が大きかった。

東国各地の地方政治機関の基盤強化

各国府の政庁

国内に広く張りめぐらされた道路交通網は国府に集まり、遠くへ繋がっていく。
郡や郷など国内の要所に設置された倉庫群には国衙領の年貢が蓄積されており、職人たちのほとんどは国府の下に所属している。
土地台帳などの多くの帳簿は国府の政庁に設置され、数十人にも及ぶ在庁官人たちがこれらの帳簿を作成し地方政治の実務を担当していた。

鎌倉を建設するにしても、そのためには各国の国府政庁を通じて職人を集めなければならない。
年貢を徴収するにも、戦で荒れ果てた田畑をきれいに耕作させるための食糧や種もみを農民へ貸し付けるにしても、各国の地方政治機関の力を狩りなければならない。
御家人たちの所領を承認し、給与を払うにしても国府政庁の田所に保管されている土地台帳の支援が必要である。

鎌倉幕府の職制

侍所以外はすべて実務経験を持つ人々で構成され、政務の決定権は鎌倉殿である源頼朝に委ねられていたので、問註所や政所のスタッフが枠組みを越えて雑用をこなすこともあった。
また、問註所や政所の多くは朝廷の下級官吏出身の人々だった。

鎌倉官職

将軍の下に政所まんどころ問註所もんちゅうじょ侍所さむらいどころなどが置かれ、後に評定衆ひょうじょうしゅう引付ひきつけが加わった。

鎌倉幕府の記録として最も早く記録上に登場するのは、治承四年(1180)11月に設置された侍所である。

侍所

治承四年(1180)11月に侍所が設けられた。
別当(長官)・所司(次官)をはじめとする職員を持ち、御家人の統制を任務とした。
本来は公家の家政機構の一つで、貴族に伺候する侍の詰所だったのを、頼朝はこれに倣い家人の統率機関としたのである。
鎌倉幕府最初の統治機構であり、確立後の幕府耐性において全国規模の軍事部門における最高機関として発展していく。

和田義盛を長官に任命

治承四年(1180)10月17日、頼朝は侍所別当(長官)に和田義盛を任命した。
『吾妻鏡』によれば、頼朝が安房国にいたときに義盛が強く望んだという。

問註所

寿永三年(1184)10月、裁判を行うために設置された。
頼朝邸の東面の廂二ヶ間に設けられ、三善康信が執事に任ぜられた。
訴訟のための機関で、執事(長官)以下の職員を置いたが、当初幕府における裁判は基本的に将軍による親裁だったので、その役割はあくまで訴訟の準備あるいは事務手続きに限られていた。

政所

元暦元年(1184)10月、問註所と同時期に設置された公文所が政所と名を改めて開設された。
大江広元が別当となり、中原親能・二階堂行政・足立遠元・甲斐秋家・藤原邦通が寄人となった。
関東御領(将軍直轄領)の管理や将軍一家の生活上の必要の充足といった将軍の私的な経済の管理を中心に、将軍の直轄支配であった鎌倉の市政や将軍直轄社寺の管理、将軍に人格的に従属する御家人たちの所領の給与・安堵の事務を担当した。

現在まで残っている政所の発給文書では建久五年(1194)までは”将軍家政所”という名前で記されているが、建久六年(1195)に頼朝が征夷大将軍を辞退してからは元の”前右大将家”に戻っている。

政所の構成

建久二年(1191)1月15日、政所の吉書始(年始や官職昇進後のようなときに儀礼的に行う文書作成行事)が行われた。
今回は頼朝の右近衛大将就任(辞退したが、任命されたことに変わりはない)のために行われた。

この時、政所の職員として令に二階堂行政、別当に大江広元、知家事に中原光家、案主に鎌田俊長の4人の名前が記され、その他に問註所執事に三善康信、侍所別当の和田義盛と所司梶原景時、公事奉行人の中原親能以下7人、京都守護一条能保、鎮西奉行天野遠景の名が記されている。
いずれもこれ以前に与えられた役職だが、政所吉書始で改めて幕府支配機構内の立場が確認された。

別当は時期によって2〜9名の変動があり、令または別当のうち一人は執事と呼ばれた。

袖下判文から政所下文へ

所領安堵や新恩給与の様式を頼朝による袖半下文から政所のスタッフが署判する政所下文の様式に変えられたことから、頼朝は政所を重要な機関として位置づけていたのか、幕府の基盤を安定させる建久年間には政権構想のなかで政所が大きな位置を占めていたようだ。

だが、小山朝政をはじめとした有力御家人のなかには、頼朝個人の署判を望むものもいて、政所下文のほかにも頼朝個人の署判がある下文を求めたという。

歴代の将軍は政所開設の資格を与えられ三位に叙されるまで政所下文の形式は使わず、袖判下文を使った。

下文の役割

下文とは立場が上の者から下の者に与える文書の様式である。
頼朝が発給した下文には「頼朝個人として出したもの」と「幕府として出したもの」の二種類がある。

さらに、頼朝個人の意志で出した下文は、最初は日付の次の行の上部に「前左衛門佐源朝臣」と花押を押したものが使われていたが、元暦元年(1184)3月に頼朝が木曽義仲追討の功績によって正四位下に叙せられてからは、文書の右部分に花押を押したものが使われている。

討手

討手担当は決まっていない

謀反などの理由で処刑する人間が出たとき、頼朝は特定の討手を定めず御家人の中からその時その時の討手を選出していた。
罪人の身柄を預かる人間も、その時の状況に応じて命じられていた。

なぜ担当を固定化しなかったのか

新たな組織を作る際、職務の既得権化、職務に対する緊張感の喪失、役得・利権への感覚麻痺、世襲化などの問題が伴う。
こうした弊害を避け、担当者に緊張感を保持させるには、職務の固定化は行わないほうが有利なのである。

また、担当が固定されると本来対等な関係であるはずの御家人同士の関係に優劣をつけることになる。

鎌倉幕府の財政

幕府の収入

幕府の財政
  1. 関東御領
  2. 関東御分国
  3. 関東御公事

関東御領

鎌倉幕府の将軍が荘園の本所として直轄した荘園からの収入。

関東御分国

将軍が知行国主であった諸国からの収入。関東御分国は時代に応じて変遷があるが、幕府体制確立以降は駿河・相模・武蔵という東海道諸国と越後はほぼ一貫して含まれていた。

関東御公事

鎌倉幕府の御家人の負担する費用。
将軍御書の造営費、鶴岡八幡宮の修造費、諸行事の費用などが含まれ、元々は臨時に課されるものだったものが後に恒例となった。
賊課決定の基準は国内のすべての田地面積や領有関係を記載した大田文である。

鎌倉時代の裁判

御前対決

御家人や貴族が何らかの事情で幕府を訴えることは、そのまま源頼朝自信を訴えることを意味した。
そして、このような訴訟は頼朝が自ら直接裁定を下している。

この時、訴人(原告)と論人(被告)が頼朝の御前で直接主張し合う御前対決が行われる場合がある。

だが、武士の狼藉の停止を求める公家・寺社の訴訟に対しては被告にあたる武士の主張が聞かれることは少なく、一方的な主張によって狼藉を禁じられるのが通例であった。
これは頼朝が公家や寺社に味方しているわけではなく、朝廷との不要な軋轢が生じることを避けて御家人の権利を安定させるためである。

熊谷直実と久下直光の御前対決

建久三年(1192)11月25日に行われた所領をめぐる御前対決。

参考資料

  • 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
  • 歴史読本編集部「増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本」KADOKAWA、2014年
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やみみん

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