甲斐源氏のルーツ
武田を名乗り甲斐国を拠点とする
甲斐源氏の起源は、河内源氏の源義光の子義清が常陸国武田郷を本拠地とし、武田冠者を名乗ったことがはじまりである。
ところが『長秋記』大治五年(1130)11月30日条によると、義清の子清光が常陸国司から朝廷に濫妨を働いたと訴えられ、程なくして父子ともに甲斐国市河荘に配流された。
清光は甲斐国北部の逸見地域を活動基盤とし、彼らの子孫たちは甲府盆地一帯から富士川流域にかけて拠点を形成した。
京都で活動を開始
保元・平治の乱で源為朝と源義朝が討たれたことによって源義家からの流れを組む源氏が没落するとともに、甲斐源氏は京都での活動を開始した。
武田信義の在京活動
武田信義の子有義は一族の中で唯一左兵衛尉へ任ぜられており、平徳子の侍長を務めているため、長期に渡り在京活動を行っていたと考えられる。
また、鶴岡八幡宮の大法会では源頼朝が有義に御剣役を命じたところ、有義が渋ったという。(『吾妻鏡』文治四年〈1188〉3月15日条)
頼朝は有義が京都にいたときに平重盛の剣を持参していたことを理由に叱責していることから、有義が平重盛に仕えていたことがわかる。
加賀美遠光の在京活動
承安元年(1171)、加賀美遠光は宮中にて鳴弦の術を行い怨霊を鎮めた恩賞として、高倉天皇から清涼殿に祀られていた不動明王像を授かった。
遠光は像を自身の勢力圏内にある大聖寺に祀った。
遠光の子秋山光朝・小笠原長清は平知盛に家礼として仕えた。
治承・寿永の乱での活動
当時の甲斐源氏は三つの勢力に分かれていた
この当時の甲斐源氏は大きく三つの勢力に分かれていた。
武田信義・加賀美遠光・安田義定の世代は甲府盆地の北部・西部・東部を拠点として、国衙が置かれた盆地中央部から離れた地域を拠点にしていた。
彼らは甲斐国と隣接する周辺諸国を往来する主要な交通路上に拠点を置いていた。
- 武田信義
- 安田義定
- 加賀美遠光
武田信義
第一の勢力は武田信義とその子息の一条忠頼・板垣兼信・武田有義・石和信光らで、北巨摩から甲府盆地中央部の中郡、石和方面に勢力を広げていた。
武田信義は甲府盆地北部の武田郷・甘利荘から中央部の一条郷・板垣郷・塩部荘・小松荘・石和御厨・東部の岩崎郷を名字の地とした。
信濃国諏訪部・佐久郡と甲斐国・駿河国を結ぶ街道沿いに拠点を展開していった。
安田義定
第二の勢力は安田義定とその子息義資らで、山梨郡八幡荘内安田郷を本拠地として東郡(甲府盆地東部)の安田郷や牧荘を拠点とした。
甲斐国と武蔵国秩父郡を結ぶ街道沿いに位置した。
加賀美遠光
第三の勢力は加賀美遠光そその子息小笠原長清らで、巨摩郡加々美荘を本拠地として釜無川右岸の西郡から富士川の両岸地域に勢力圏をもっていた。
甲府盆地西部の加賀美荘・秋山郷・原小笠原荘から富士川流域にある飯野牧の南部郷・波木井郷、盆地中央部の八代荘を名字の地とした。
また、信濃国の伴野荘・大井荘などにも進出した。
甲斐国と駿河国安部郡を結ぶ街道沿いに位置した。
石橋山合戦で大庭景親の弟と戦う
大庭景親の弟俣野景久は駿河国目代の橘遠茂の軍勢を率いて武田・一条らの源氏を襲撃するために甲斐国へ進軍した。
ところが前日、辺りが暗くなったので富士山の北嶺で宿泊していたところ景久と郎従たちの弓の弦がネズミによって食いちぎられてしまった。
景久たちが途方に暮れていたところに、石橋山合戦の報せを受けて甲斐国を出発していた安田義定・工藤景光・行光・市川行房らと波志太山で遭遇し、そのまま合戦となった。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉8月25日条)
工藤景光・行光父子は景光から五代以前にあたる景任の代に甲斐国に居住しており、市川行房は甲斐国市河荘を本拠地とする藤原一族と考えられている。
景久たちは弓を使えなかったので太刀をとって戦ったが、義定たちの攻撃を防げず敗戦した。
武田信義が源頼朝とともに反乱軍の中心的人物として認識される
9月7日に前太政大臣藤原忠雅に届けられた上野国の新田義重からの手紙には、「義朝の子(頼朝)が伊豆国を、武田太郎(信義)が甲斐国を占領した」と記されていた。(『山槐記』治承四年〈1180〉9月7日条)
このため、武田信義らの反乱は8月下旬には始まっていたと思われる。
また、『玉葉』治承四年10月8日条では以仁王や源仲綱が甲斐国に潜伏しているとの噂が都に広まっていた。
そしてついに『吉記』治承四年11月8日条では、前日の11月7日武田信義が源頼朝とともに追討の対象とされたことが記されている。
9月の段階で信義は頼朝とともに甲斐国を占領したことになっているため、本来であればこの時期に追討の対象となっていてもおかしくないのだが、このとき対象となったのは頼朝だけだった。
これは頼朝が山木兼隆を討ち取った伊豆国が平時忠の知行国だったことによる。
信義が諏訪大社に所領を寄進
武田信義と一条忠頼らは石橋山合戦の報せを受け源頼朝を尋ねて駿河国へ向かおうとした。
しかし、平氏方が信濃国にいるというので、まず信濃国に出陣した。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉9月10日条)
諏訪上宮の庵沢付近を宿として、夜が明けると一人の若い女が一条忠頼の陣を訪れた。
私は諏訪上宮の大祝篤光の妻です。夫の使者として参りました。
夫が申すには、源家のご祈祷を心を込めて行うため、三日間社頭に籠もり家にも戻りませんでした。
そしてまさに今、夢でお告げがありました。
梶葉の紋の直垂を着て葦毛の馬に乗った源氏の味方を名乗る一人の武士が、西の方へ馬を走らせて行きました。
これは、諏訪大明神がお示しになったことです。夢から覚めた後参上して申し上げるべきなのですが、社頭におりますので、妻の私を差し遣わしたのです。
忠頼はこれを信じて野剣一腰と腹巻一領をその妻に与えた。
そして、夢のお告げに従いすぐに出陣して平氏方である菅冠者の伊那郡大田切郷の城を襲撃した。
菅冠者は戦うことなく自害したので、これは諏訪明神の罰によるものだということになった。
そこで、上下両社に田畑を寄進して頼朝に報告することになった。
上宮には信濃国平出・宮所、下宮には竜市を寄進することになった。
ところが、執筆担当の者が誤って岡仁谷郷を書き加えてしまった。
誰も知らない地名だったので何度も書き直させたが、そのたびに間違えてしまうので、結局そのままにした。
しかし、古老いわく岡仁谷という地は実在するという。
信義と忠頼らはこれを「上宮と下宮に優劣はない」という神の思し召しだと考え、ますます信仰を強め両宮を敬った。
その後、平家に味方しているとの噂があった者たちの多くを鎮圧したという。
武田信義と一条忠頼らが源頼朝と対面
武田信義と一条忠頼らは信濃国中の悪党たちを討ち、甲斐国へ戻り逸見山に宿泊していた。
そしてこの日、北条時政が宿に到着して頼朝から命じられた趣旨を二人に伝えた。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉9月15日条)
駿河国への侵攻
9月24日、時政と甲斐源氏たちは逸見山から石和御厨へ移動して宿泊していたところ、土屋宗遠が来て頼朝の命令を伝えた。
そこで信義と忠頼らが集まり、駿河国で合流しようと評議した。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉9月24日条)
9月29日、東国武士による反乱を鎮圧するために平維盛を大将軍とする追討軍が京都を出発した。
そして10月13日、甲斐源氏と北条時政・義時父子が駿河国へ向かい、大石駅に宿泊した。
一方、追討軍も安部川西岸の駿河国手越宿に着くと、駿河国目代橘遠茂は戦況を有利にしておくために2000余騎を率いて甲斐に向かった。
この報せを聞いた甲斐源氏たちは、途中で橘遠茂を迎撃することになった。
武田信義・一条忠頼・板垣兼信・武田有義・安田義定・逸見光長・河内義長・伊沢信光らが富士北嶺の若彦路を越え、甲斐国へ逃れていた加藤光員・景廉と合流して駿河国に到着した。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉10月13日条)
14日午の刻、甲斐源氏らが神野と春田路を経由して鉢田の辺りに到着した。
橘遠茂は大軍を率いて甲州に向かっていたところ、ちょうどこの場所で甲斐源氏らに遭遇した。
山峰が連なり道は大きな岩に遮られていたので逃げ場がなかったが、伊沢信光と加藤景廉の奮戦もあって長田入道子息二人が討ち取られ、遠茂も生け捕られた。
(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉10月14日条)
後に、藤原経房はある者からの伝聞として、合戦の様子を「甲斐源氏の軍勢が橘遠茂の軍勢を山中の間道に引き入れた上で道を塞ぎ、そこを狙って樹木や岩陰に隠れていた歩兵たちが一斉に矢を放って大勝利を収めた」記している。(『吉記』治承四年〈1180〉11月2日条)
『吉記』では目代以下の軍勢2000騎が袋小路に追い込まれて全滅したとし(『吉記』治承四年〈1180〉11月2日条)、『玉葉』では目代以下3000騎が敗北し、目代以下80名が梟首されたと記している。(『玉葉』治承四年〈1180〉11月5日条)
信義の軍勢が平氏軍と対峙
11月17日、頼朝追討のために東国へ派遣された平維盛率いる平氏軍の藤原忠清が駿河国高橋宿で武田方の使者を討った。
そして18日に平氏軍が富士川周辺に陣を敷いたところ、武田方に寝返る者が現れたので撤退したという。(『玉葉』治承四年〈1180〉11月5日条)
また、平氏軍が頼朝あるいは武田方の使者を討ち取ったが、頼朝の軍勢が襲来したとの噂を聞きつけて手越宿に撤退したところ、火事になって混乱状態のまま帰洛したという。(『吉記』治承四年〈1180〉11月2日条)
富士川合戦で活躍
治承四年(1180)の富士川合戦当時、甲斐源氏は源頼朝と対等あるいは優位な立場にあった。
一ノ谷の合戦に出陣
元暦元年(1184)2月の一ノ谷合戦の大将は源範頼・源義経とともに安田義定が務めていたという。
また、範頼率いる大手口の軍勢には武田有義・板垣兼信が参戦していた。(『吾妻鏡』元暦元年〈1184〉2月5日条)
一方、一条忠頼は洛中の警護に従事していた可能性がある。
参考資料
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
- 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年
- 野口 実 (編)「治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)」清文堂出版、2014年