寿永二年(1183)10月14日、後に寿永二年十月宣旨と呼ばれる宣旨が発布された。
この宣旨は東海道・東山道・北陸道の三道の治安を安定させるため、源頼朝に国衙在庁を指揮する権限を与えるというものであった。
朝廷が頼朝の東国支配を正式に認めたできごとであり、頼朝と木曽義仲の対立が深まったきっかけでもある。
背景
治承・寿永の乱が始まってからというもの諸国の国衙領・荘園の郡司・郷司・荘官たちのある者は反乱に参加して年貢を納めず、ある者は倉庫を襲撃して食糧を奪った。
凶作・飢饉の打撃も大きく、中央の貴族たちは大いに苦しんでいた。
こうした京都の状況を見て頼朝が打ち出した案が、中央貴族の迎え入れであった。
経過
頼朝の復官
10月9日、朝廷は頼朝の勅勘を解き平治の乱以前の本位だった従五位下に復位させ、頼朝は「朝敵」の名を逃れることとなった。(『玉葉』同日条)
十月宣旨
上洛を促す後白河の使者を鎌倉に迎え入れた源頼朝は、北方の王者として陸奥に君臨していた藤原秀衡の驚異と畿内の飢饉を理由として上洛の無期限延期を要請し、「東海・東山・北陸三道の国衙領・荘園は元のように国司・本所に返還せよ」との勅令発布を要請した。
義仲の株が下落するのとは対照的に、頼朝の評判はますます高くなっていった。
挙兵当時は頼朝の名前すら知らず「謀反の賊」「凶賊」と呼んでいた九条兼実も、「頼朝の体たらく、威勢厳粛、其の性強烈、成敗分明、理非断決」と賞賛している。
頼朝の提案はさっそく受け入れられ、義仲の支配下にある北陸道を一時的に除外した上で要請通りの勅令が宣旨として公布された。
宣旨の内容
- 東海道・東山道・北陸道の三道の荘園と国衙領を元の荘園領主に返還する
- 宣旨に従わないものは、頼朝の命により追討する
十月宣旨は東海・東山両道の荘園と国衙領を本来の荘園領主に戻すというものだった。(『百錬抄』寿永二年〈1183〉10月14日条)
さらに、宣旨に従わない者がいたら頼朝に連絡して従わせるという、頼朝の実力敵支配を前提として東国の荘園・国衙領を中央貴族や寺社に回復させるものだった。(『玉葉』寿永二年〈1183〉閏10月22日条)
頼朝はさっそく源義経と中原親能を伊勢国まで進軍させた。
鎌倉軍が京都に向かって来たことによって、木曽義仲はあわてて帰洛することとなった。
宣旨の修正
朝廷が頼朝に認めた支配領域のうち、北陸道だけは朝廷が木曽義仲を恐れて宣旨の対象地域から除外された。(『玉葉』同年閏10月13日条)
影響
東国支配権の公認
この宣旨は頼朝が東国で独自に築き上げてきた反乱軍の軍事体制(敵方の所領没収と没収地給与など)を朝廷が王朝機構として認めたことを意味しており、頼朝の支配領域が西国に拡大していくきっかけとなった。
それまで、源頼朝の支配領域は伊豆国・相模国・上野国を西側の境界としていたことから考えても、この宣旨によって広大な軍事指揮権の範囲を獲得したのである。
義仲の怒り
十月宣旨によって源頼朝に全権が委ねられる領域の中には、義仲がやっとの思いで占領した地域である北陸道が含まれていた。
北陸道・東山道・東海道の三道を合わせた領域が日本の”東国”にあたるからだ。
京都を占領していた義仲の激怒を後白河も無視できず、ついに宣旨内容から「北陸道」の名を消している。
だが、この宣旨からもわかる通り後白河は政治交渉の相手として義仲ではなく頼朝を選んだ。
この一件は、義仲の後白河への不満を一層募らせた。
参考資料
- 福田 豊彦 (編集)、関 幸彦 (編集)「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
- 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
- 五味 文彦「鎌倉と京 武家政権と庶民世界」講談社、2014年