『承久記』下
押松の復命
後鳥羽院をはじめ大臣・公卿・大納言・中納言・参議・諸人が集まり、「押松が義時の首を持って参上する、ご覧に入れよ」と言って、人々は賑わった。
さて、押松は前庭で顔を下に伏してしまった。
秀康は「押松がこんな晴れた日に高陽院殿の大庭でうつ伏せになっていることのおかしさよ。起き上がって鎌倉の様子をありのままに報告せよ、押松」と仰せられた。
このように二、三度仰せられた後、押松が起き上がって涙を流しながら「この世の中が闘諍堅固の世となって、下剋上の状態になるのは儚いものです。義時が『後鳥羽院に申せ』というのは『こんなにたくさんの染物巻八丈、金銀、夷の秘蔵の羽、貢馬上馬など、年に二、三度しかないようなものを賜るのは、面目ないことです。何を不足に思ってこのような宣旨を下したのでしょうか。武士をお召しとのことでございますので、山道・海道・北陸道の三路から十九万騎の若武者たちを上洛させます。西国の武士と合戦する様子を御簾の隙間からご覧になってください。なお、軍勢が足りなければ足の早い飛脚を遣わして知らせよ。義時も十万騎の軍勢を率いて馳せ上り、手際よく戦ってお目にかけましょう』と言上申し上げよ」とだけ言っていました」と申すと、これを聞いた者は皆後鳥羽院の心を推し量って面を伏せたのである。
後鳥羽院が仰せられるには、「情けないなあ、お前たちは。そのように気が弱いのに朕に合戦をせよと勧めたのか。このことは、どう説得してもだめだろう。早く戦の準備をして、討手を差し向けよ」と。
京方、防衛軍の手分けをする
秀康はこの宣旨を蒙り、多くの軍勢を選り分けて配置された。
「海道の大将軍は、秀康と藤原秀澄・三浦胤義・佐々木広綱・八田知尚・小野成時・大内惟忠・平内左衛門・平三左衛門・藤原能茂・斎藤親頼・薩摩左衛門・安達源左衛門・熊替左衛門・安房守長家・下総守・上野守・重原左衛門・源翔をはじめとして、七千騎にて下向せよ。
山道の大将軍は、蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門・高桑殿・開田・懸桟・上田殿・打見・御料・寺本殿・大内惟信・関左衛門・足利忠宏・筑後入道父子六騎・上野入道父子三騎をはじめとして、五千騎にて下向せよ。
北陸道の大将軍は、伊勢前司・石見前司・蜂田殿・若狭前司・隠岐守・隼井判官・江判官・主馬左衛門・宮崎左衛門・筌会左衛門・白奇蔵人・西屋蔵人・保田左衛門・安原殿・成田太郎・石黒殿・大谷三郎・森二郎・徳田十郎・能木源太・羽差八郎・中村太郎・内蔵頭をはじめとして、七千騎にて下向せよ。山道・海道・北陸道三路から一万九千三百二十六騎になる。その他の人々は、宇治・勢多を警護せよ」と。
都周辺の防衛軍
瀬田を通って下向しようと仰せ付けられた。
美濃竪者・播磨竪者・周防竪者・智正・丹後をはじめとして、七百人のみ下向した。
五百人は水尾崎、二百人は瀬田橋へ向かった。橋桁に矢を三間引き放ち、太い綱を張って乱杭・棘のある木の枝を並べて結び合わせた柵を引いて待ち構えた。
宇治の討手には、藤原範茂・藤原朝俊・蒲入道をはじめとして、奈良の無頼の徒にも仰せ付けられた。
真木島は源有雅、伏見は藤原宗行、芋洗は藤原忠信、魚市は吉野山の執行、大渡は二位法眼尊長、下瀬は河野通信に仰せ付けられた。
その他の人々は、藤原光親をはじめとして一千騎、高陽院殿に籠もった。
海道の防衛軍
さて、海道大将軍藤原秀澄は美濃国垂見郷の小さな野に到着し、軍勢を分散させた。
「阿井渡は、蜂屋入道が警護せよ。大井戸は、駿河判官・関左衛門・足利忠広が警護せよ。売間瀬を神地頼経、板橋は荻野次郎左衛門・山田重継が警護せよ。火御子は打見・御料・寺本殿が警護せよ。伊義渡は、関田・懸棧・上田殿が警護せよ。大豆戸は、秀康・胤義が警護せよ。食渡は、惟宗孝親・下条殿・加藤光定が三千騎にて警護せよ。上瀬は、滋原左衛門・翔左衛門が警護せよ。墨俣は山田重定が警護せよ」と。
山道・海道の一万二千騎を十二の木戸(防衛のために設けられた城や柵の入り口)へ分散させたのは、気の毒なことだ。
鎌倉方、玄番太郎を討つ
さて、海道の先陣を務める北条時房は遠江国橋本の宿に到着した。
都にいる下総前司盛綱の郎等玄番太郎という者は、安房国の住人である。
鎌倉へ官に納入される物品を背負っていったが、北条氏に従わねばならない苦しさは、妻子に暇も求めず、時房の手勢に駆り出されて、遠江の橋本の宿までお供して来たが、「武士の身であるのだから、都におわします主君下野守のお姿を今一度見たい」と思い、十九騎の軍勢にて橋本の宿を夜出発して 、時房の宿の前に差し掛かっても馬から下りて挨拶することもせず、遠慮会釈もなく通り過ぎた。
時房はこれを見て、内田党を召し寄せて「私の宿の前を馬から下りもせずに通り過ぎたのは何者だ。けしからぬことだ。見に行ってこい」と言ったので、内田三郎が見に行き、戻ってきて「下野殿の郎等玄番太郎です」と申した。
時房は重ねて「優れた軍兵は天より下りてきて地より湧いてくるものなのだなあ。坂東武者は馬の足も疲れているから追いつけないのだ。遠江の侍を追え」と申された。
内田党は命じられたとおり百騎の軍勢を引き連れて三河国高瀬・宮道・本野原・音和原を通過して、石墓でとうとう追いついた。
内田三郎は「あなたは玄番太郎ではありませんか。そうでいらっしゃったら、相模殿(時房)の使者として内田党が参上しましたので、お帰りになってください」と申した。
玄番太郎はこれを聞いて戻った。お互いの乗っている馬の鼻が同一線場に並ぶほど近付いて「皆様、聞いてください。武士の身であれば、都におわします主君の前に今一度参上しようと思って上洛するのは、いけないことなのでしょうか。私もあなたも互いに討死するまでです」と言って、十九騎の強者のうち十一騎は刀を取り、八騎は弓を取り矢合わせをして懸け合い、入り組んで戦った。百余騎の討手のうち、三十五騎が討たれた。負傷した者もたくさんいた。十九騎の強者も、十一騎が討たれた。
残りの八騎は大道から南にある宿太郎の家に逃げ入り、門戸を差し回し火を放ち、各々が自害した。
内田三郎はこれを見て十一騎の首を取り、本野原に竿を結って、取った首級を懸けて帰った。
時房のいる橋本の宿に帰参してこのことを申し上げると、時房は「私は、この度の戦に勝った」と言って上差を抜き、軍神に奉った。
秀澄、山田次郎の提言を退ける
山道遠江井助は、尾張国府に到着した。
その時、墨俣にいた山田殿がこの事を聞きつけて、河内判官に「相模守・山道遠江井助が尾張国府に着いたそうだ。我らが、山道・海道の一万二千騎を十二の木戸へ分散させたことは無意味なことだ。この軍勢を一纏めにして墨俣を打ち渡し、尾張国府に押し寄せて遠江井助を討ち取り、三河国高瀬・宮道・本野原・音和原を通過して、橋本の宿に押し寄せて、泰時と時房を討ち取り、鎌倉へ押し寄せ、義時を討ち取って、鎌倉中に火を放ち空の霞となるまで燃やし尽くし、北陸道に向かい、朝時を討ち取り、都に戻って院のもとへ参上しよう、河内判官殿」と申された。
判官は生まれつき気の小さい武士である。この事を聞き、「それはもっともなことだが、山道・海道を一つにまとめて墨俣を通り、尾張国府にいるという遠江井助・武蔵・相模守を討ち取り、鎌倉へ下向するならば、北陸道から攻め上ってきた式部丞朝時、山道から上ってきた武田信光・小笠原長清の軍勢に取り囲まれて、恥をかいてしまってはつまらいことです。都からここまで下向するのでさえ馬の足が疲れているのだから、ここでいつまでも待ち受けて坂東武者の種を根絶やしにしてやろう、山田殿」と申された。
山田次郎の斥候達の活躍
山田次郎はこれを聞いて「河内がその気ならば、重定の軍勢を行かせよう」と思い、井綱権八・下藤五という二人の主たちを召し寄せて「相模守・山道遠江井助が尾張国府に到着したそうだ。様子を見てこい」と遣わした。
遠江井助は中源次・中六という二人の主たちを召し寄せ「都の武士が墨俣に到着したそうだ。形勢が味方にとって良いか悪いか見てこい」と言って上らせた。
両方の使者は牛尾堤にて衝突した。
中源次は「あれは、やあやあ、中六殿。これらの者どもは都の武士が墨俣に着いたというので偵察に来たのだろう。捕らえて首を斬れ、中六殿」と申した。
これを聞いて、権八は「都の武士の先発隊ではない。賀楊津の宿太郎である」と申した。
中源次はこれを聞き、「本当に宿太郎ならば、我らこそ、都の武士が墨俣に着いたそうだが、院宣を破るために上京する鎌倉殿の使者よ。そうであればお供して案内せよ」と、あっさりと言った。
権八はこれを聞いて「さあいらっしゃい。下藤五殿が皆様にお供して案内しましょう」と連れて行った。
本鴙の墓を通過して尾張の一宮も通過すると、権八は「奴らを案内しても無意味だ。捕らえよう」と思い、槍や長刀などの武器を刀身に近く柄の根本の太い部分を握って取り、二人の主たちを馬から夏の烈日に照らされて固まった大地に打ち落とし、後ろ手にして首から縄を掛けて厳しく縛り、敵の馬を奪い取り、その馬に乗って、墨俣を越えて山田殿のもとへ参上した。
仰せられたのは、「おかしなことだ、主たちよ。此度の戦に勝ったならば、所領を与えて繁昌させたものを」と酒を飲ませ、干飯を三升ほど食べた。
山田次郎は、道理を弁えた武士であったため、中六をその日の戦の大将軍河内判官に奉った。
判官は心のたるんでいる武士であったため、兵糧を食べている間に中六を取り逃がした。
山田殿は中源次を召し寄せ、「鎌倉では今回のことをどう評定しているのか」と。ありのままを報告した。その後は権八に身柄を預けた。森の堤にてついに首を斬り、首級を掛けた。
時房の軍議、武田・小笠原の去就
さて、海道の先陣北条時房は橋本の宿所を出発し、三河国矢作・八橋・垂見・江崎を通過して、尾張の熱田神宮へ参詣した。
上差を抜いて熱田明神へ奉納し、その夜は赤池の宿所で休息をとった。
翌日、尾張の一宮の外の郷で軍勢の配置を決めた。
「此度の軍勢の配置は身分の高い者の順だぞ。大豆戸は武蔵守、高桑は天野政景、大井戸・河合は(脱文の可能性あり)」
武田・小笠原は美濃国東大寺に到着した。
両人が言うには「現世は無常な場所だから、ここで討死するかもしれないが、この戦いは死ぬべき戦なのだろうか、武田殿」と。
武田は「やあやあ、小笠原殿。大事なことですよ。鎌倉が有利であれば鎌倉に付きましょう。朝廷が有利であれば朝廷に付きましょう。武士のみの習いであるぞ、小笠原殿」と返事をした。
武田・小笠原大井戸を渡す
さて、時房は手紙を書き、「武田・小笠原殿。大井戸・河合の渡河作戦に成功したならば、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六ヶ国を与えよう」と書いて、飛脚を遣わした。
両人はこれを見て、「鎌倉に従おう」と言って、武田は河合を攻め、小笠原は大井戸を攻めた。
小笠原の郎等の一人である市川新五郎は扇を掲げて、向こう側の旗を招いた。
「向こうの旗にいるのは、河法敷の人でしょうか。敵に回して不足ない人ならば、渡して見参しよう。相手とするに足りない二流三流の人ならば、馬を苦しませることになるから渡すまい」と言った。
薩摩左衛門が進み出て「者ども、あのように言っているが、お前たちは権大夫の郎等である。朝廷を制圧せよとの宣旨を蒙った身で、どうしておとなしく渡らせようか。渡ることができるならば渡ってみよ」と言った。
新五郎はこれを聞き腹を立てて「真っ先に口達者に喋る男だな。先祖をたどれば誰だって皇族だ。武田・小笠原殿も清和天皇の末裔である。権大夫も桓武天皇の後胤である。先祖が皇族でない者などいるのか。その気ならば、渡ってみせよう」と言って、一千余騎を進めた。
武田六郎はこれを見て、「お前はどこの武士だ」と。
「小笠原殿の郎等の一人市川新五郎」と申した。
武田六郎が申されたのは、「なんと、新五郎が此度の渡河作戦にいるのか。名を残そうと思って甲の錣も敵に見せずして、水に流れて死んだら仕方がない。特に水泳の達者な若者であれば、川の瀬の深さを足で測らせよう。帰れ」と言われた。
十九歳になる荒三郎を召し寄せて、「瀬踏みせよ」と命じた。
荒三郎は防具を外し置き、矢筒の中差二筋と弓を備えて川の底に飛び込んだ。
水底を測って向こう岸の端に浮かび出て、高桑殿を見つけると、「なんと、敵ではないか。討たねば」と思い、「討ち漏らしたならば、ここで死のう」とも思ったけれども、濡れた矢を番えて飽くまで引き放つと、高桑殿の左側の腹を鞍の末まで射通した。
高桑殿は馬から逆さまに落ちて、絶命した。
朝廷軍はこれ見て、我も我もと駆け入ると、荒三郎はまた水底へ飛び込んだ。
一町四五段ほど測って、水底から這い出て小笠原のいる岸に浮き出た。
小笠原は「これは向こう岸に浮き上がり、敵を射落とした者ではないか。早く防具を着けよ」と命じた。
荒三郎は防具を身に着けて、武田殿の前に進み出て「馬の足が立つ所は、川の中に二段ほどあります」と。
郎等らに向かって「皆の者は、川の渡り方を知っているか。川を渡るには、強い馬を上手に立て、弱い馬を下手に立て、水を塞いで水の勢いを弱めて、鎧の袖があれば緒の結び目に引き掛けて、弓の上部の弭を馬の首に引き副えて、手綱を前輪に引き付けて渡れ」と申した。
大井戸の攻防戦、蜂屋三郎の奮戦
その後、水に浸かって渡る人々には、一陣に智戸六郎、二陣に平群四郎、三陣に中島五郎・武田六郎をはじめとして五千騎が渡った。
大内惟信と智戸六郎が戦った。惟信の手にかかり、川の中で二十五騎が射られて川に流れてしまった。
寄り合い、掛け組み、惟信は数多の敵を討ち取った。
子息大内惟忠が討たれると、背後に不安を感じたのか、逃げていった。
二宮殿と蜂屋入道が戦った。蜂屋入道は、二宮殿の軍勢を二十四騎まで射流した。
渡りきった後、蜂屋入道は二宮殿と組み合った。
蜂屋入道は多くの敵を討ち取って自らも負傷し、自害した。
小笠原はこれを見て、三千騎を一人も漏らさず渡した。
市川新五郎は、先程言ったことを悔しがって、薩摩左衛門を標的として押し寄せて、熊手を持って甲の鉢の頂上に打ち立て、掛けて引き寄せ、首を取った。
蜂屋蔵人はこれを見て、「逃げるが勝ちだ」と思いつつ、馬に鞭を打って高山に入っていった。
蔵人の弟三郎が蔵人に追いついて「どこへ行かれるのですか。逃げても、ちやほやされて繁栄することはできはしません。引き返してください。父の敵を討ちましょう、蔵人殿」と言ったが、聞き入れず逃げていった。
蜂屋三郎は力及ばず引き返し、武田六郎と戦った。
蜂屋三郎は「武田六郎ではないか。私が誰かわかるか。経基王の末孫蜂屋入道の子息、蜂屋三郎とは私のことだ。父の敵を討つために参上した。武芸の腕前を見よ」と上差を抜き、滋藤の弓を番えて飽くまで引き放つと、武田六郎の左側にいた郎等の鎧の胸板、上巻まで射通したので、こらえきれず馬から落ちた。
二本目の矢を返して射ると、武田六郎の小舎人の童子の頚骨を射抜いた。
その後、六郎と三郎は引っ組んで、共に馬から落ちた。
上になったり下になったりしているうちに、三郎は腹巻通を抜き出し、六郎の甲の辺り、鎧の綿噛にかきついた。
六郎が危うくなったところに武田八郎がやって来て、六郎を押しのけて三郎を討ち取った。
八郎がいなければ、六郎は討ち取られていただろう。
神土、泰時に降参して斬られる
山道を防衛していた朝廷軍は、皆悉く敗走した。
武田・小笠原は、大井戸・河合を攻め落として、川を下流に向かって騎馬を進めたので、鵜沼の渡しにいた神土殿はこれを見て「川を下流に向かって進んでいるのは、敵か味方か」と問われると、上田刑部は「あれこそ武田・小笠原が大井戸・河合を攻め落として川を下っているところですよ」と言った。
神土殿は「そうならば、皆々思い切って合戦せよ」と申された。
上田刑部は「人の身に、命に勝る宝はありません。『命あれば海月の骨にも逢う』という例えもあります。合戦をするよりは、逃げて天野政景のもとへ行き、武蔵殿に臣従する支度をしてください、神土殿」と申した。
「それもそうだ」と思い、天野政景のもとへ行き、武蔵殿のもとへ向かった。
武蔵守が御前に召し寄せて申したのは、「皆の者、聞いてくれ。武士の身となっては朝廷に付けばひたすら朝廷に従い、鎌倉に付けばひたすら鎌倉に従うものだ。これを放置しておけば、他の諸君もこのように日和見するだろう。裏切った傍輩同様に首を取れ」と言われたので、神土殿父子九騎を討ち取り、金の竿に先に梟首した。
京方諸所での戦いに敗れる
板橋にいる荻野次郎左衛門・伊豆御曹司が駆け出て戦った。数多の敵を討ち取り、ついに勢いがくじけて敗走した。
伊義の渡りにいた関田・懸棧・上田殿・坂東方と鏑矢を射合わせて戦ったが、数多の敵を討ち取り、これも勢いがくじけて敗走した。
火御子にいた打見・御料・寺本殿は尾張熱田大宮司に馬を馳せ追い詰められて、唐川にて討ち取られた。
大豆戸の渡りを守っていた秀康・胤義が駆け出て戦った。
胤義は「私を誰だと思うか。駿河守の舎弟胤義、平の判官とは私のことだ」と言って、向かう敵二十三騎を射流した。
待ち受けて多くの敵を討ち取って、ついには勢いがくじけて敗走した。
食渡を守っていた惟宗孝親・下条殿が待ち構えていた。
向かいの谷は、関政綱・大和入道・狩野入道が押し寄せて、川端の堂を取り壊し、筏を組んで渡った。
狩野入道は「ここは昔から千騎で渡っても一騎も渡りきれない所だ。上流で渡せ」と言ったので、大和入道は「さあやりましょう、入道殿。大夫殿の前で軍の糾明評定を蒙ったのです。ただ上流に渡せということです、皆様。入道は七十歳を超えているので、命は惜しくありません」と言って、一百余騎で渡った。一人も落後することなく渡った。
孝親・下条殿はこれを見て、逃げ腰になって矢を一本も射ることなく逃げていった。
伊勢国の加藤光定は、かつての平家のようになった。平家は東国に攻め下ったが、駿河国富士沼にてあじ鴨の群れの羽音に驚いた。
その二の舞で、尾張国鳴海浦の浦人が山に入るというので、山に火を放ち燃やせば、たくさんの鳥類が炎に耐えきれず伊勢国河沼浦に渡っている途中で、白鷺が百羽ほど渡っているのを見て、光定は「あれを見よ、皆々。水軍の兵士が源氏の旗を差して背後に回り込んで討ち取ろうと押し寄せたのだ。ここは叶うまい」と言って、築千年はあるだろう長江の館に火を放ち、空に霞が立ち上るように焼いて、三千騎の軍勢を雲霞のたなびくように従えながら、矢を一本も射ずして逃げていった。
上瀬にいる重原・翔左衛門が戦った。
翔左衛門は「関東武士は、私を誰だと思うか。我こそは、京より西、摂津国十四郡の中に渡辺党、千騎の中にいる愛王左衛門である」と名乗った。
元々、強弓の達人であり、向かう敵十五騎を目の当たりにして射流した。
駆け込んで組打ちをしたり、入れ違いに馬を馳せたりして「我は翔左衛門である」と馳せ回り、数多の敵を討ち取って、翌日の卯の刻まで持ちこたえた。
その振る舞いは勝ったように見えたが、これもついに敗走した。
墨俣を守っていた河内判官は、前夜の戌の刻に敗走した。
京方の敗北京に報ぜられる
承久三年六月八日の明け方、糟屋久季・筑後太郎左衛門有長が、それぞれ傷を負いながら後鳥羽院のもとに参上して「坂東武者の軍勢を知らずに攻め上っている間、六日、墨俣河原で合戦をしたが、皆敗走していった」と申したのは、頼りないことであった。
後鳥羽院は騒いで中院・新院や六条宮・冷泉宮を引き連れて二位法印尊長の押小路河原の泉に入らせた。
公卿・殿上人は若者から老人まで皆武装してお供した。まったく、矢を射たこともないだろうに。
さて、酉の刻になって東坂本へ向かった。
わずかな人数で千騎もいないのは残念なことだ。
このことは、都の騒ぎでしかない。どのようなご計略があってのことであろうか、また都に帰った時は人心がやや落ち着いてきたのか、宇治・勢多の両所の橋を合戦場と定めた。公卿・殿上人も武芸の道の心得のある者は皆合戦に向かわせた。
杭瀬川での山田次郎の奮戦
さて、山田殿は激しい戦いで多くの敵を討ち取ったのだが、木曽川の上流にも下流にも人影が見当たらなかったので、心細く思われた。
「重定はこれにて討死しようと思っていたが、自分一人になって討死してどうするのだ。杭瀬川こそ山道・海道の合わさる地点だから、そこへ向かおう」と言って、三百余騎を引き連れて行った。
杭瀬川にいると、児玉党が千騎にて攻め寄せてきた。児玉党が「そこにいる武士は何者だ。敵か味方か」と言ったので、安東忠家は「あれは墨俣にて死力を尽くして戦った山田次郎と見た。本当にそうであるならば、生け捕りにせよ」と申した。
児玉党が押し寄せてきて、戦った。
山田殿は「皆の者、聞け。私を誰だと思うか。美濃と尾張の境に経基王の末孫、山田次郎重定である」と言って散り散りに切って出て、激しく戦ったところ、児玉党の軍勢百余騎は即座に討ち取られた。山田殿の方も、四十八騎が討ち取られた。
児玉党は、山田殿にあまりに激しく攻められて退却したので、山田殿は「敵が退却したらこちらも退き、敵が馬を馳せて進撃してきたらこちらも進撃せよ。敵に応じて駆け引きせよ。命を惜しまず励め、皆の者」と命じて、手の者を揃えた。
「一番には諸輪左近将監、二番には小波田右馬允、三番には大加太郎、四番には国夫太郎、五番には山口源多、六番には弥源氏兵衛、七番には刑部房、八番には水尾左近将監、九番には榎殿、十番には小五郎兵衛が駆けよ」と申された。
児玉与一は、三百余騎の軍勢にて押し寄せた。山田殿はこれを見て、「諸輪左近将監、行け」と言われた。
左近将監は攻撃する様子で小金山へ入っていった。
小波田右馬允は十九騎にて駆け出して戦った。向かう敵三十五騎を討ち取り、自分の軍勢は十五騎が討死し、四騎は勢いがなくなり山田殿のもとへ戻った。
北山左衛門は、三百余騎の軍勢にて押し寄せた。大加太郎が駆け出て戦った。敵の首を武具ごと取り、山田殿のもとへ参上した。
敗将達の最期
翔・山田二郎重貞は、六月十四日の夜中に高陽院殿に参上して、胤義が「我が君、早くも合戦に負けてしまいました。門を開けてください。御所に祗候して敵を待ち受け、手際よく戦い、我が君のお目にかけて討死します」と奏上した。
院宣には「お前たちが御所に立て籠もったならば、鎌倉の武者どもが取り囲んで朕を攻めるのは不本意であるから、今は早くどこかへ退け」と弱々しく仰せられたので、胤義はこれを承って翔・重定らに向かって「残念に思う我が君のお心である。このような君主のお見方に引き入れられ申して、鎌倉に対して謀反した胤義こそ、情けないことだ。どこへ逃げよう。ここで自害しようと思ったが、兄の駿河守が淀路より上って来たところに駆け向かって、人の手にかかるよりは最期に対面して思うことを一言言おう。兄の手にかかって命を捨てよう」と言って、三人とも武装して大宮を下り、東寺に引きこもって敵を待っていると、新田四郎が駆け出て来た。
翔左衛門が向かっていき「皆の者、聞け。私を誰だと思うか。京より西、摂津国十四郡の中に渡辺党千騎の西面の武士愛王左衛門翔である」と名乗りあって戦ったが、十余騎は討ち取られて、自分の軍勢も皆敗走したので、翔左衛門も大江山へ敗走した。
山柄行景が打って出た。山田殿が駆け出て申したのは「私を誰だと思うか。尾張国住人山田小二郎重貞ぞ」と名乗って、手際よく戦った。
敵十五騎を討ち取り、自分の軍勢も多く討たれたので、嵯峨般若寺山へ敗走した。
その次に、黄紫紺の旗を差した十五騎が流れ出るように現れた。
胤義は「これこそ駿河守の旗だ」と言って駆けて向かっていった。
「あれは、駿河殿でしょうか。もしそうならば、私が誰かわかりますか。平九郎判官胤義です。鎌倉にて世を渡っていくべきであったのに、あなたを恨めしく思って都に上り、後鳥羽院に召されて謀反を起こしました。あなたを頼んで、此度は相談の手紙を一通鎌倉へ下しました。胤義は、思えば残念な事です。現に、あなたは権大夫の者として和田義盛を裏切り伯父を失った人を、今はただ、人間らしいと思って、情けなく感じて自害しようと思っていましたが、あなたの前に見参しました」と言って散り散りに駆けると、義村は「馬鹿者と渡り合っても無駄だ」と思って四塚へ帰っていった。
胤義は数人の敵を討ち取って「胤義こそ武芸のご加護は尽きてしまったが、帝の前に参上し、合戦に勝ち、朝敵を討ち取って親の追善供養も誰がするのだろう」と思いながら、大宮を上り一条まで、西へ逃げていった。
西獄にて敵の首級を掛け、木島にたどり着いた。
木島にて、十五日辰の刻に胤義父子は自害した。
「ああ、立派な武士であったのに」と惜しまぬ者はいなかった。
泰時入京し、義時に指示を仰ぐ
さて、六月十五日巳の刻には、時房が六波羅に到着した。
同十七日午の刻に、北条朝時も六波羅に到着した。その時、時房は戦勝報告を注進する書状を急いで鎌倉に遣わした。
「東国から都へ向かった者たちは、水に流された者や討死した者を合わせて、一万三千六百二十人が死にました。泰時と同じ日に都へ到着し、恩賞を得ようと申す人々は一千八百人になります。それぞれ所領を付けていただきとうございます。また、治天の君には誰を付けて参上させましょうか。後鳥羽院はどこへ入奉りましょう。六条宮や冷泉宮はどこへ移らせましょう。公卿や殿上人はどうしましょうか。よくよくお考えになってください」と申された。
義時は書状を見て「これを御覧なさい、皆の者。今、義時は何の気がかりなこともない。私の果報は、王の果報にも勝るだろう。私は前世の行いが今ひとつ足らず、身分賤しい身と報いてこの世に生まれたのだ」と申された。
義時の指示
鎌倉からの返事には「院は持明院の守貞親王に定めよ。御即位には同院の茂仁親王を付けて参らせよ。さて、後鳥羽院はいずこも同じ国王の土地であるといっても、遥かに離れた隠岐国へお流し申し上げよ。六条宮や冷泉宮は適当に判断してお流し申し上げよ。公卿や殿上人は坂東国へ下し奉れ。その他の者に情けをかけてはならぬ、悉く死罪にせよ。そうであれば、まず、都の混乱に乗じての乱暴な行為を禁止せよ。所々では藤原家実・藤原道家・藤原殖子・六条院・道助法親王・藤原公継・藤原頼実・藤原公経、これらの方々に対して決して乱暴を働いてはならない。時房・朝時は早く敗戦処理をして鎌倉に戻れ。都が荒廃するから、朝時は北陸道七ヶ国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)を警護せよ」と書かれていた。
後鳥羽院の出家
さて、七月二日、後鳥羽院は高陽院殿を出て押小路にある尊長の邸宅へ向かった。
同四日、四辻殿へ向かった。後鳥羽院以外の方々は、皆それぞれの家に帰った。
同六日、四辻殿から千葉胤綱とともに鳥羽離宮へ向かった。
昔からのお供には、藤原実氏・藤原信成・藤原能茂がいた。
同十日は、北条時氏が鳥羽離宮へ参上した。
武装したまま正殿へ参上し、弓の上部の弭にて御前の御簾をかき上げ「あなた様は配流されることになりました。早くおいでになってください」と責め立てるような声の様子は、閻魔大王の使者のようであった。
返事はなかった。
時氏が重ねて申したのは、「どのようにお言葉をお下しになったのでしょうか。まだ謀反の衆を引きこもらせていらっしゃいますか。早くおいでになってください」と責め申したので、今度は返事があった。
「今、朕はこのような状況でどうやって謀反人を引きこもらせているのか。ただ、朕が都を出て、宮中を去ることの悲しさよ。とりわけ、行願寺の別当の子能茂は幼少の頃からの付き合いだったので、いじらしく思う。今一度姿を見せよ」と仰せ下された。
その時、時氏は涙を流して時房に「能茂は昔、前世において後鳥羽院とどのようなお約束をし申し上げたのでしょうか。『能茂の姿を今一度見せよ』との院宣を下されまして、今はこのことを考えるばかりです。早く能茂を院のお側に参上させなさるべきであると思われます」と手紙を奉ると、時房は「時氏の手紙を見よ、皆の者。今年十九歳になる。これ程思いやりの心があったのだ。しみじみとしたものよ」と言って、「能茂、出家せよ」と出家させることで助命した。
後鳥羽院は能茂をご覧になり、「出家したのか。朕もいま剃髪しよう」と仁和寺の一室で出家し、それを見た人や聞いた人は、身分の高い者も低い者も、武勇の優れた武士に至るまで、涙を流して袖を絞らない者はいなかった。
さて、御髻を七条院へ授けた。女院は御髻を見るなり、夢心地で声を上げて泣いていたのは気の毒なことであった。
変わり果てたお姿をご自身で見たいとお思いになったのだろうか、院は藤原信実を呼んでご肖像をお書かせになる。
それを見て、鏡に映った姿ではないが、残念で、衰えた姿であった。今、後鳥羽院は院政をお執りになることはできないだろうから、早朝に仲恭天皇も九条殿にお越しになった。
後堀河天皇をご即位させた。
神璽・宝剣も京方が敗北した恨めしさに放置されていたのを、持明院殿にお迎え、お引取り申し上げる有様、神器が渡御する大路の様子は言葉にし難いものであった。
藤原家実へ摂政・関白を任ぜられたのは、めでたいことであった。
定めのない世の習いとは言いながらも、このようなことになるとは、露ほども思われなかっただろう。
後鳥羽院隠岐へ流される
さて、七月十三日には、院の身柄を伊東祐時に渡し、進行方向と逆にかく輿に乗せて、西の御方・大夫殿・宮中に仕える下級の女官が参上した。
進行方向と逆に輿に乗せるのは、罪人を送る時の作法。
また、どこでもお亡くなりになった時のためにというので、終焉に立ち会うための僧を一人お供に付かせた。
「今一度、広瀬殿を見たい」と仰せ下されたが、見せずして、水無瀬殿を雲のようにご覧になり、明石に着いた。そこから播磨国へ向かい、また海老名兵衛が身柄を引き受けて、途中まで送った。途中から伯耆国金持兵衛が身柄を引き受けた。十四日ほどで出雲国の大浜浦に着いた。順風を待って隠岐国に着いた。
道すがらご病気になったので、ご心中はどのようなものだったのだろう。医師仲成が、出家してお供した。気の毒なことだ、都ではこのような波風の音も聞こえず、気の毒に思って心細く袖をしぼり、
都より 吹くる風も なきものを 沖うつ波ぞ 常に問ける
(都から吹いてくる風もないのに、沖に立ち打ち寄せる波の音はいつも聞こえてくるよ。)
能茂は、
すず鴨の 身とも我こそ 成ぬらめ 波の上にて 世をすごす哉
(この身はきっと鈴鴨に生まれ変わったのだろう。波の上に漂ってこの世を送るよ。)
御母七条院へこの歌を送ると、女院の返歌には、
神風や 今一度は 吹かへせ みもすそ河の 流たへずは
(神代の昔吹いたという神風がもう一度吹いて、あなたを都に吹き帰してほしいものです。)
土御門院土佐へ流される
十月十日、土御門院を土佐国幡多へ配流した。
お送りする御車を寄せたのは源定通で、お供には女房四人、殿上人には少将源雅具・侍従源俊平が同行した。
心も言葉も及ばないことであった。この君のご子孫が繁栄されるご様子を拝見するにつけても、天照大神・八幡大菩薩も痛ましく思っていただろう。
順徳院佐渡へ流される
順徳院を佐渡国へ配流することになった。二十日に到着した。夜中に岡崎殿へ入れた。お供には女房二人、男には花山院の少将藤原宣経・兵衛佐藤原範経が同行した。
宣経が病のため都に帰ったので、配所への御幸の露払いをすべき人もいない。秋になるのが遅いかと、佐渡の辺りを都の方へ鳴いて過ぎてゆく初雁を羨ましく思って、少々に「今の御門に申し上げよ」と言う。
逢坂と 聞くも恨めし 中々に 道知らずとて かへりきねこん
(初雁は逢坂の関のあなた、都の方に飛んで行くと聞くにつけても恨めしい。行かずにかえって道がわからないと言って帰って来てほしい。)
兵衛佐もまた病のため、都に帰った。また佐渡に戻ってこいと順徳院はお約束なさったけれども、亡くなって戻れなくなったので、今更世を憂いても仕方がないと思った。
さて、たどり着いた所は草深い粗末な家で、風も防ぎきれないほどなので、都のことを忘れることができない。御母女院・中宮などへも使者を遣わした。さてまた、藤原道家へこのような手紙を書いた。
順徳院と道家との贈答長歌
大空を巡る月や日は曇らないから、私の清廉な心はいくらなんでもはっきりするだろうと、それを頼みにしつつ、雁が鳴くように泣く泣く花の都を離れた。
秋風が吹く頃には帰れるだろうと約束したが、この越後路に生えている葛の葉は秋風に翻るけれども、いつ都に帰れるのか、その期限ははっきりしない。
まして儚い命は道の草葉の露と消えてしまいそうなのに、はるばる遠くまで来て、何を頼って今日まで生き永らえ、荒磯海の砂地に生える松の根のように泣く音も弱く、袖の上は涙で乾く間もない。
寝ても寝られぬまま空を仰いで夜中に月を眺めると、過ぎし日禁中で見た時のことも忘れられず、眠気を感じている暇がないが、さながら夢のような心地で、胸を焦がす憂苦の思いの火から立ち上る夕煙は虚空に充ち満ちていることであろう。それにしても、故郷の人のことでさえあれこれと偲んでいる私の配所の軒に生えた忍ぶ草を風が吹き結び、浪が寄せる呉竹のこのような憂くつらい世の中に転生輪廻してきたのも前世の因縁なのであろうと悟らないわけではないが、人心の常だから心の慰めようもない。これは明石浦の秋も同じだから、四方の紅葉は色とりどりだが、私が身を寄せる木陰もなく、やがて時雨が降り、散ってしまい、霜の降りる前に朽ち果ててしまうだろう。
わが憂き名はそれでも止まず、紅葉が彩る山川の水の泡が消えないように、死なないものの、生き永らえて、どのような世の中をなおも期待したらよいのであろうか。たとえ生き永らえた末に都に戻れたとしても、この世は憂くつらいことの多い都であるよ。
物思いは積り、日に日に悩みも深くなったので、都から医師が参上した。
この手紙を修明門院や東一条院に見せて、「この御筆跡はそうではないだろうか」と戸惑いつつも、道家の返事には、
我が君にお別れしてから月日は隔たり、空の雲……すっかり局外に置かれて、我が君にお逢いできるのはいつともわかりません。摂政を解任された私は日陰の身で愁えに結ばれた心を抱きつつ、朝に夕にわが君にお仕えしてきたその昔を偲び、目に見えない遠くの佐渡の方を思いやり、そこが都からはるか彼方と思うと心安らぐ折もありません。涙だけは過ぎてゆく日同様止まることなく流れ、すっかり沈んでしまったにつけ、飛鳥川の淵瀬が変わるように、昨日は我が世の春だったのにいつの間に今日の憂き世に遭ったのだろうかと思われます。
近江の鳥籠の山路にあると聞いている不知哉川ではありませんが、さあ訳もなく綾席を敷いて、わが君をしきりにお偲び申し上げますが、人の訪れも絶え下草もすっかりすがれ、初時雨の降る冬となりました。空の様子も荒々しい愛発山を越えて行く道には淡雪が降って寒い夜、汀の千鳥がわびしげに鳴く声も悲しい。
私も袖の上に涙をこぼしています。海人の住む里のしるべとなる藻塩焚く夕煙ではありませんが、都から佐渡までは雲煙波濤を隔てています。
かつて禁中で見た有明の月を仰ぎ見たわが君にまがえつつ、私の心の闇は晴れる間もありません。初霜が置いて色移ろう白菊の色を憂き世の色かと驚くと、寝ないでもわが君にお逢いできるという夢を見ますが、それが現実のこととならないので、迷っているこの頃です。
つらい世と厭うもののやはり生き永らえて憂さつらさに堪えて春の訪れを待つべきでしょうか。
六条宮・冷泉宮配流される
二十四日、六条宮を但馬国朝倉に配流することになった。
この宮は、宣陽門院の御子で格別大事に養育し申し上げなさったのに、ただ、女房・殿上人を三、四人お供させたのは、嘆かわしいことだ。
二十五日、冷泉宮を備前国小島へ配流することになった。
あちこちに別れておられたのが戦乱で一旦は一所にお集まりになっているのは、前世の因果と思われるのは気の毒なことだ。
公卿達の断罪
また、公卿・殿上人は関東へ下向させた。
藤原光親の身柄は、武田信光が下向した。
藤原宗行の身柄は、小笠原長清が預かって下向した。
藤原忠信の身柄は、安達景盛が預かって下向した。
源有雅の身柄は、伊東祐時が預かって下向した。
藤原範茂の身柄は、北条朝時が預かって下向した。
藤原能継の身柄は、久下三郎が預かって丹波芦田に配流した。
その後、人の讒言によって程なく首を斬られた。
宗行は、遠江国菊川の宿所にて斬られた。
宿所に立ち入り、このように書き付けた。
昔中国南陽県の菊水では、下流でその水を汲んで飲むことにより寿命を延ばしたというが、今我が国東海道の菊川では、その西岸のほとりで私は命を終えようとしている。
光親を、駿河国浮島ヶ原にて斬った。
お経を唱えて、またこのように言った。
今日まで過ごしてきたこの憂き身をその名も浮島ヶ原に来て、ここに命は露と消えてしまうのだ。
範茂を、狩川にて水中に沈めて断罪した。
範茂が朝時を呼んで「刃の先にかかって死んだ者は絶えず闘争が行われる世界に落とされるのだから、範茂を伏し漬けにせよ」と仰せられたので、大籠を組んで参らせると、御台所へ手紙を書いて、
深く遥かな千尋の水底へ入る時、飽きもしないのに別れて来たわが妻が恋しい。
有雅も、同様に斬られた。
忠信は、実朝の御台所の縁故者であったので、命だけは懇請して助けてもらい、浜名の橋から帰った。
今は心も穏やかになり出家しているが、またどのようなことがあったのか、後に越後国へ配流された。
刑部僧正を、陸奥国へ配流した。ついには往生したそうだ。
武士達斬られる
以上の人々より、身分の劣る人々も、次々に断罪された。
小山朝政に仰せ付けて、音羽山から与左衛門を召し出し、梟首した。
中原季時に仰せ付けて、北山から斎藤親頼を召し出し、梟首した。
伊東祐時に仰せ付けて、八幡山から内蔵頭を召し出し、梟首した。
佐々木信綱に仰せ付けて、近江国から佐々木広綱を召し出し、梟首した。
後藤基綱に仰せ付けて、桂里より後藤基清を召し出し、親を梟首するのは嘆かわしいことだった。
平左衛門に仰せ付けて、河内国から藤原秀康・秀澄兄弟を召し出し、梟首した。
嵯峨野左衛門に仰せ付けて、般若寺山より山田二郎が自害した首を召し出した。
熊野別当・吉野執行に至るまで、一人も情けをかけず斬り終わった。
侍従助命される
さて、この人々の子供をそれぞれ順番に召し出し、同様に梟首した。
中でも特に気の毒だったのは、甲斐宰相中小子息藤原範継と山城守勢多賀児である。
侍従は十六歳になる。六波羅の大床に召し出して、泰時が見て申したのは、「これは、噂にお聞きした宰相中将殿のご子息ではないか。見目麗しさよ。容姿や風格の愛おしさよ。我が子の武蔵太郎を宇治・勢多・槙島にてどれほど思い出しただろうか。そうであれば侍従殿を生かしたとしても、泰時に神仏のご加護がある限りは、特別のことはないだろう。侍従殿を斬ったとしても、ご加護が尽きるものならば、安穏で過ごせるはずはない。そうであれば、早く侍従殿に暇を与えよ。帰らせよ」と申された。
これを聞いた人々は、「この時点においては、おかしなことをするなあ」と讃えた。
侍従殿は神仏のご加護によって、今に至るまで健在でいらっしゃる。
勢多伽、叔父に斬られる
山城守の子息勢多伽は、仁和寺の道助法親王お気に入りの稚児であったのを泰時が聞いて、御室に多くの武士を参らせて「勢多伽の身柄を渡せ」と強く要求し申し上げる。
御室は、「ただ一人の子供なので、どうか私に免じて許してくれ」と懇願なさったけれども受け入れられず、御室は「勢多伽一人のために命乞いしても許してくれないとは、悔しいものだ。勢多伽の母は高雄にいると聞く。告げよ」と仰せられたので、母は女房一人を召し連れて、御室の御所へ参上した。
この御所には女人が入ることはできないのだが、それも時と場合によるので、御所の西の台へ召した。勢多伽を呼び出して、涙をこらえきれず、
「我が子のように、幼い頃から大事に育ててきたのです。天然痘が流行した時に、夫の広綱に先立たれてあまりの悲しみに分別を失った上、また敵を持った悲しさよ。
六波羅に召し出され、子供に憂き目を見せるのも同じことです。ここで子供を失って、自害してください。目の前で憂き目を見たくない」と身も焦がれるほど激しく泣いた。
他の人々ももらい泣きしてひどく涙で袖を濡らす。
そうであっても御室がお止めになったので、それもしなかった。
「今はどう思っても甲斐ないでしょう。早く六波羅に出てください」と御室は仰せられた。
車を召し寄せ乗せると、日頃から互いに顔見知っていた残りの稚児たちも車の長い柄に我も我もと取り付きて悲しんだが、どうしようもなかった。
お供には大蔵卿法印・土橋威儀師の二人が付いた。
御室はかわいそうなことだった。「六波羅にて言うことは、『規定の範囲があるものだから、個人的には助命しようと考えても、決まりがあるから、せめて亡骸をお返し申し上げよ。今一度ご覧になって供養しよう』と言え」と仰せられた。
勢多伽が六波羅に出ると、母は勢多伽をかえって見るまいとは思うものの、そうしてもいられなかった。
泰時は勢多伽を召し出して「これは噂に聞いた山城守の子息か。容姿・風格もすばらしく美しい。御室が惜しむのも道理であろう」と言われると、二人の供僧は「『規定の範囲があるものですから、個人的には助命しようと考えても、決まりがあるから、せめて亡骸をお返し申し上げましょう。今一度ご覧になって供養しましょう』と御室に言えと言われました」と涙ながらに申されたので、泰時が居住まいを正して申したのは、「ご丁寧な御室のお言葉を再三蒙った上は、早々と勢多伽を許そう。また、泰時の門に佇んでいるのは誰か尋ねると、御室だという。このようなことには馴れていないので、どうして広綱の妻ともあろう女性が、徒歩裸足でこの泰時の門にお立ちになるべきだろうかと気の毒に思ったので、助命しよう」と申された。
母もこれを聞き、二人の僧に「泰時様にいよいよ軍神のご加護がおありであるようにお祈り申し上げます」と手を合わせて喜び、車に乗って帰った。
清水の東の橋詰に差し掛かると、勢多伽の叔父佐佐木信綱に遭遇し、泰時に「勢多伽を助命するならば、信綱は御前にて自害します」と申したので、泰時はひどくあきれて驚きになられて、「鎌倉より私に従って千五百里の道を凌ぎ来て、戦場に出て命を捨てて戦ったが、幸運にも生きているというのに、どうして勢多伽のために自害をするのか。そこまでのことであれば召し返せ」と言って、勢多伽を召返された。
ある人は「武蔵守が仰せられたのはまっとうなことだ。四郎左衛門の申状はあまりにも無慈悲である」と首をかしげて申した。
勢多伽の母はこれを聞き、これまでだと思った。
「今生では夢幻でなかれば相見ることはできないだろう」」と思い、車より下りて流れる涙で道も見えなかったが、泣く泣く宿所に帰った。
勢多伽を召し返し、六郎左衛門に身柄を預けた。御室からも使者がが忙しくやって来た。日頃からの付き合いである稚児たちも、我も我もとやってきた。勢多伽は「各々を帰らせてください。御所を今一度見ようと思う心の悲しさに、中々今は叶わぬものです」と袖を顔に押し当てて泣いた。
泰時は一族と従者・郎等を召し寄せて、「この中で、誰が勢多伽の首を討つか」と仰せられたが、「自分が斬る」という者はいなかった。
「敵ならば、信綱に預けよ」と言った。
信綱は勢多伽の身柄を預かり、六条河原にてこれを斬る。
信綱は「信綱を恨むな。この子の父山城守にくやしくもつらく当たられたので、憎らしい同士は川を越える際にも憎み合うものなのだ」と言った。
母はなお最期の有様を見ようと、泣き悲しんだ。勢多伽は西に向かい、「南無西方極楽教主阿弥陀仏、本誓悲願過ち給わず、必ず後生助け給え」と言い終わらぬ内に、早くも首が落ちた。
母は亡骸に取り付き、声を上げて泣きわめいた。見た人も聞いた人も、身分の高い人も低い人も、強者もそうでないものも、皆ともに涙を流した。
作者の感想
そもそも、昔の源頼義は陸奥の貞任・宗任を討とうとして十二年に渡って戦った。今回の後鳥羽院と義時との合戦はわずか三ヶ月である。義時は天下を鎮めて栄華に誇った。中国にも我が国日本にも、このような試しはない。
京方の残党のその後
その後、尊長法印の行方は知らない。年月を経て、謀反を起こそうと密かに上洛したが、六波羅に聞きつけられて菅十郎左衛門の手にかかり、召し出されて斬られた。
大内惟信も、出家して比叡山に住んでいたが、ついに六波羅に聞きつけられて、召し出されて西国に配流された。
後高倉院政始まる
後鳥羽院が院政を執っていた世も、今は変わり果てたので、めでたいことも多かった。
除目が行われ、美濃・丹波・丹後の三ヶ国は院政を執る守貞親王へ知行国として差し上げた。
藤原実雅は讃岐国を賜り、藤原基保は内蔵頭になった。
承久三年八月十六日には、持明院宮も太上天皇になり、院政を思うままにお執りになった。
末の宮であるため、出家の身で院号を蒙ったのはいずれにしてもめでたいことだ。
二十三日、尊号を蒙ってからの御幸始で、大臣殿となった。
持明院殿は蓬やしのぶ草が思いのままに茂っていたのに、今は美しい庭で、松の緑もさまざまな色があった。このように繁栄させるべき因縁があって、世の中を乱すまいと思った。大体において、この院の時代を知らしめる事は難しくない。高倉院の第二の宮であれば、安徳天皇の代を受け取っていただろうに、帝位に就かず太上天皇として院政の主となったのは意外なことだ。また、除目が行われて、宰相に家宣・具実、蔵人頭に藤原伊平・藤原資経、国司も二十二、三ヶ国まで任命した。
さて、九月九日の夜、大炊殿が火災に遭った。順徳院の旧跡でさえも燃えてなくなってしまうのは、悲しいことだ。
院政が始まって間もない頃に、やがて高陽院殿へ移った。
この火災で、身分の高い人の家々も多く焼失した。藤原公経邸、藤原家実邸、西洞院邸、すべて身分の高い人の家々が数え切れないほど焼失した。
公経の栄達と大饗
さて、十月十日、右大将は内大臣になった。
節会の儀式はめでたいものであった。
すぐに、任官のお礼を申し上げた。
九条道家の邸宅で饗宴が開かれた。
穏座にて、管弦の御遊があった。
拍子 冷泉三位高仲卿
笛 修理大夫公頼朝臣
笙 六条三位家平卿
琵琶 右馬頭光俊朝臣
筝 持明院右兵衛佐家定
和琴
篳篥
各々、手を尽くした興は少なくなかった。
こうして、霜月にもなると、五節の時期になった。二十二日の夜から始まる。
公卿には藤原実氏・藤原家宣、国には藤原師経、長門は藤原国通である。
これらの人々が舞姫をお出しになったのは、本当にめでたいことだ。
後堀河天皇の即位
十一月一日は御即位の日である。
早朝に神祇官がお越しになった。
大路の景色、太政官の様子は誠に世の始まりのようでめでたいものであった。
准母に、やがて邦子内親王もお越しになった。
今日からは皇后の宮と言ってめでたさも哀れさも、尽きることのないこの世のありさまは、だいたいこのようなことであった。