鎌倉時代

慈光寺本『承久記』現代語訳(前編)

『承久記』上

仏教の話〜日本の天皇の話

人の世に、衆生のためになろうとして仏が現れるのは、始まりも終わりもなく、限りがない。
特に申すならば、過去に千の仏、現在に千の仏、未来に千の仏、三世に三千の仏が世に現れるであろう。
過去の劫を荘厳劫、現在の劫を賢劫、未来の劫を星宿劫と名付けよう。
三世ともに二十の増劫・減劫があるだろう。
過去、二十の増劫・減劫の間に千の仏が現れた。
現在、二十の増劫・減劫の間にもまた千の仏、未来もまた然り。

増劫と減劫

減劫は人間の寿命が100年ごとに1歳ずつ減って8万4千歳から10歳に至るまでの間。その逆が増劫。

けれども、釈迦が生まれたのは何れの頃かというと、現在賢劫の中の第九減劫に初めて仏が現れ、拘留孫仏と名付けられた。
これは人間の寿命が四万歳の時である。
拘那含牟尼仏が現れたのは人間の寿命が三万歳の時で、迦葉仏が現れたのは二万歳の時である。
この時、釈迦は菩薩の最高位に位置し、兜率天の内院に生まれ百歳で人の世に現れた。
十九歳で出家し、三十歳で悟りを開いた。
八十歳で入滅の時が来て、クシナガラ城外を流れる川の西岸に仏徳の象徴たる光が黄金の棺に納まった。
二千年余りの時が夢のように過ぎていったが、今では教法が栄えて俗人でも出家者でも勉強すれば過去・未来を悟るようになった。

そもそも、人間の住む世界に十六の大国、五百の中国、十千の小国、数え切れないほどの粟粒を散らしたような小国があるといえども、異なる王朝のことはそっとしておこう。
仏法・王法が始まって栄えている国を訪ねると、天竺・震旦・鬼界・高麗・景旦国、我が国でも最初の劫から現在に至るまで、仏法を疎かにしたことはなかった。
天竺の最初の王は、民主王といった。それから釈迦の父浄飯王の代まで八万六千二百四十二王に渡る。
我が国にも、天神が七代、地神が五代いる。
最初の天神は、国常立尊という。そこから伊弉諾・伊弉冉まで七代を過ぎた。
最初の地神は天照大神といって、現在伊勢神宮に祀られている。そこから葺不合尊まで五代を過ぎた。
合わせて十二の神の世があった。そこから、人界の王が百代までいる。

日本の天皇

最初の天皇は、神武天皇という。葺不合尊の四男である。
そこから去る承久三年までに八十五人の帝がいて、この間に十二度の兵乱があった。

初めの兵乱は神武天皇の三男綏靖すいぜい天皇の時代、震旦国から我が国を滅ぼそうとして十万八千騎の軍勢と戦い、戦に負けて帰っていった。
神武天皇から数えて九代目の帝は、開化天皇という。兄の位を取って、世を治めた。
十四代目の帝は、仲哀天皇という。その后は、神功皇后という。
帝が崩御された後、世を納めた。女帝の始まりである。
勇猛な心を持ち、仲哀天皇が異国との戦で崩御されたので、鬼界・高麗・契旦の三韓を討ち取って我が国を意のままに扱いたいと思い、十万八千余騎の軍勢を率いて筑紫の博多へ下向し、船を準備した。
折しも、ご懐妊となった。十ヶ月にもなり、御子が生まれようとしていたので、腹の中の子供に「あなたが生まれた後、果報めでたく帝となるならば、今ではなく戦が終わってから生まれなさい」と語りかけた。
その間、出産の時は延びた。
辛巳歳十月二日、新羅・高麗・百済の三韓を倒し、同年十一月二十八日、筑紫の博多に帰って御子が生まれたが、七十歳になるまでは神功皇后もご健在であった。
世を治めること七十年、百歳で崩御され、皇子は七十歳で初めて世を治める事四十三年、応神天皇という。今の八幡大菩薩である。

三十二代目の帝は用明天皇という。
この帝の次男聖徳太子と物部守屋は仏法の信奉を巡って争い、守屋が討たれた。
こうして、聖徳太子は難波に天王寺を建立し、仏法のはじまりの地とした。

三十八代目の帝は斉明天皇という。
春宮を失い、后の位を奪い取って世を治めた。

四十二代目の帝は、文武天皇という。
邪悪な心を持ち、王胤たちを失って、大宝という年号を定めた。
その後、宝字年中に嫡子聖武天皇との合戦があった。

七十三代目の帝は、鳥羽天皇という。
嫡子崇徳院を引きずり下ろし、妻美福門院の子である近衛院を即位させた。
しかし、近衛院は十七歳で崩御された。
近衛院は鳥羽院にとって愛息子でいらっしゃったので、崇徳院にとっては御弟であるが致し方ない。
かくなる上は、位を崇徳院に返還して重祚となるか、嫡孫重仁親王を即位させるか考えているところに、思いのほか弟四ノ宮後白河院が即位なさった。
崇徳院は不本意ながらも、鳥羽法皇の取り計らいであるから仕方なく耐えていたところ、程なく法皇も崩御なさったので、やがて四十九日の間に謀反を起こし、後白河院との合戦になった。
これを保元の乱という。
今、都の乱れのはじまりである。
ついに上皇は敗れ、讃岐国へ配流された。

源平の合戦

八十代目の帝である高倉院は、後白河院の第三皇子である。
平清盛の娘徳子を嫁に迎えた。後の建礼門院である。
お腹の中に、一人の子がいた。安徳天皇という。三歳にて即位した。

清盛が世を牛耳っていた頃源氏は手も足も出なかったが、そうであっても、清盛の運命もようやく尽きる頃になった。
嫡子重盛も亡くなり、清盛の悪行が頂点に達する頃、源氏の院宣により源頼朝が関東へ上り、木曽義仲も北国から攻め上り、程なく平家は没落する。

ついに元暦元年正月、頼朝の弟源範頼義経讃岐屋島に進軍して、平家を攻め落とした。
二月下旬には、平家は悉く壇ノ浦にて入水した。
大将軍平宗盛父子三人、その他数多を生け捕りにした。
宗盛父子を始めとして皆処刑され、程なく源氏の天下となった。
その後、頼朝殿は鎌倉を本拠として鎌倉殿と呼ばれた。

綏靖天皇から安徳天皇に至るまで、十二度の兵乱があった。

頼朝・頼家・実朝の死

頼朝は度々上洛し、武芸の徳を施し、類なき勲功があり、正二位に昇進し、右近衛大将となった。
西には九州と壱岐・対馬、東には平泉・津軽・夷が島まで打ちなびかせ、その威勢を天下に轟かせ、栄耀を四海に施しになった。

そうではあったが、建久九年十二月下旬、相模川で橋供養があった時聴聞に参詣して、帰る途中で水難に遭い病を患って、半月病床に臥し心神も疲れ果て、お命も尽きるだろう思えた。
政子が病床の頼朝に語っていうには、「半月も目を覚まさず、睦まじい夫婦の契りを結んで長年暮らしてきたが、今私は死に臨んでいます」。
嫡子源頼家を呼び出して言うには、「頼朝の運命はすでに尽きた。亡くなった時には、千万(実朝の幼名)をいたわりなさい。八ヶ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)の武将たちの讒言を受け入れてはならない。畠山(重忠)を頼って日本を鎮護せよ」と遺言を残すのも、しみじみとしたものだ。

頼家はまだ有名無実の者だったので、父の遺言に従わず、梶原景時を後見としたが、御家人たちの反感を買った。
十六歳の時、左衛門督となり、六年に渡り世を治めた。
けれども、忠孝を果たさず栄耀を誇り、世の中をしっかりと治めなかったので、母の政子や叔父の北条義時の助言も聞き入れなかった。
ついには元久元年七月二十八日、伊豆国修善寺の浴室で討ち取られた。

実際に頼家が討たれたのは、元久元年七月十八日である。

その弟千万は兄よりは幸運に恵まれていたのだろうか、十三歳で元服し、実朝と名乗った。
昇進が止まることはなく、四位、三位、左近中将を経て程なく右大臣となった。
徳を四海に施し、栄光を七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)に輝かした。
しかし、去る建保七年正月二十日、右大臣の拝賀のため鶴岡八幡宮で拝賀から帰る途中で頼家の息子公卿に誅せられた。
三界の果報は風前の灯で、一門の運命は春の夢のようなものであった。
日陰を待たない朝顔、水に宿った草葉の露、蜉蝣の体も同じようなものだ。

義時の野望

ことに、義時が思うには「朝廷を守っていた源氏は潰えた。今は自分を差し置いて誰が天下を支配するべきだろうか」。
同年夏頃、相模守北条時房を上洛させ、天皇に将軍たるべき人物を頂きたいと申請した。
当時の世の中を鎮めようとして、右大将藤原公経卿の外孫、藤原道家の三男が寅年寅日寅の刻に生まれたので、幼名を三寅と名付けた若君(藤原頼経)を、建保七年六月十八日、鎌倉へ向かわせた。
諷諫ふうかんには伊予中将藤原実雅、後見には義時と定められた。
十八日から二十日まで、正月三が日の儀式を始めて遊覧した。七社に参詣して鎌倉に戻った。

後鳥羽院の性格と行動

ことに、後鳥羽上皇に動きがあった。
源氏は天下を乱した平家を滅ぼしたので、勲功として守護地頭の補任を許可した。
義時が成し遂げたこともなく、天下を意のままに執り行い勅定に背くのはけしからぬことではあるが、その思いは募っていった。
伏物、越内、水練、早業、相撲、笠懸のみならず、朝から晩まで武芸に興じ、昼夜に兵具を整えて兵乱の準備をしていた。
その心は怒りっぽく、少しでも意にそぐわない者はむやみやたらに罰せられた。
廷臣・公卿の宿所や山荘を見ては、気に入ったところを御所と呼んだ。
都の中だけでも六ヶ所あり、片田舎にも数多ある。
四方から白拍子を召し集め、順番を決めて舞わせ、十二堂の上、立派な敷物に上らせて踏み汚すのは、王法・王威を傾けているようで嘆かわしいことだ。
公卿・殿上人の所領を優先して神田・講田を没収し横領した。
古老神官・寺僧などは神田・講田十ヶ所を五所を没収され、不満が募っていった。
後鳥羽院がたちまち兵乱を起こし、ついには配流されたのも嘆かわしいことだ。

発端―長江庄問題

承久の乱の発端は、佐目牛西洞院に住む亀菊という侍女のせいだという。
彼女は帝の寵愛が深く、父を刑部丞にした。俸禄をやろうと思い、摂津国長江庄三百余町を私一代の間は亀菊に与えると院宣を下した。
刑部丞は御下文をこれ見よがしにひけらかして長江庄に馳下り、領主としての事務を執行しようとしたが、鎌倉幕府によって補任された地頭が意義を申し立てた。
「故右大将家(頼朝)より大夫殿が賜ったのであれば院宣というべきところを、大夫殿の御書判のある文書で譲歩し申し上げよとのご命令がない限りは、決して差し上げますまい」といって、刑部丞を非難した。
よって、このことを院に愁訴申し上げたので、叡慮は簡単ではないと思って藤原能茂を召し、「長江庄に行き、地頭を追い出せ」と命じたので、能茂は馳下って地頭を追い出そうとしたが、一向に応じない。

能茂は帰洛してこのことを院に奏上すると、「鎌倉幕府に連なる末端の者どもでさえこのように言っている。まして義時が院宣を軽んじるのはもっともだろう」と重ねて院宣を下した。
「よその領地であれば百でも千でも領有するならばしても構わないが、摂津国長江庄からは退去せよ」と書き下した。

義時は院宣を開いて「どうして、十善の君はこのような宣旨を下したのだ。余所においては百所でも千所でも召し上げてよいが、長江庄だけは故右大将より義時がご恩を蒙ったところなのだから、たとえなすことなく坐して殺されたとしても、差し上げますまい」と言って、院宣を三度まで拒否した。

公卿会議・卿二品の発言

院はこのことを聞いて、いよいよけしからぬことだと思った。
公卿の会議が開かれ、藤原基通もとみち藤原道家藤原公継藤原忠信藤原光親みつちか源有雅藤原宗行藤原範茂藤原信能のぶよし刑部僧正長厳二位法印尊などが召集された。

「義時が再三院宣に従わなかったのはけしからぬことだ。どうすべきか。よく考えて意見を申せ」
基通が言うには、「昔、藤原利仁将軍は二十五歳で東国に下り鬼を倒して、私に勝てる将軍はいないと言って新羅国を攻めようと言って調伏し、国家を鎮護し怨敵を降伏させて将軍墓に入りました。その後は、都の武士で知る者はいません。ただよく義時を説得なさいませ」と。

ことに、藤原兼子が御簾の中から言ったのは、「大極殿造営に際して山陽道には安芸・周防、山陰道には但馬・丹後、北陸道には越後・加賀、六ヶ国が造営費を負担することと決められたが、按察光親・秀康に命じて四ヶ国は国務を行えと命じたが、越後・加賀の両国は坂東の地頭で思うように行かなかった。
そうであれば、木を伐るには根本を断てば、長く栄えることはない。義時を討ち取って、天下を思うがままに統治なさいませ」と。

秀康が畏まって奏上するには、「駿河守三浦義村の弟、三浦胤義がこの頃上洛しています。胤義にこのことを申し合わせて、義時を討ち取るのは容易いことでしょう」と。

秀康、胤義を語らう

能登守秀康は、高陽院かやのいんの御倉町の北辺にある宿所にいた。
三浦胤義を招き寄せ、酒宴を始めて、「今日は私と秀康殿で、心静かに酒を飲もう」と言ってくつろぎ、「やあ、判官殿、三浦・鎌倉を振り捨て上洛し、十善の君に宮仕えしてください。あなたはきっと心中に思っていることがおありだろうと推量いたします。後鳥羽院はですね、お心のやはりたいした君主でいらっしゃいます。あなたは鎌倉側に付くか、十善の君に従うか、考えてみてください」と言った。

これを聞いた胤義は返答するには、「素晴らしいことですな、能登殿。胤義が先祖伝来の地である三浦・鎌倉を捨てて上洛し、後鳥羽院に宮仕えするのは、心に思うところがあります。胤義の妻を誰思っておいででしょうか。鎌倉一とときめいた一法執行の娘です。故左衛門督殿の北の方ですが、子供が一人生まれました。督殿は遠江守時政に討ち取られてしまいました。子供は時政の子義時に害せられました。胤義が契りを結んだ後、日夜悲しみの涙にくれているのがかわいそうでした。
『男子の身であれば、山奥に隠居して念仏を唱え頼家や若君の後生を弔うべきところを、女の身のくやしさよ』と涙を流しているのを見ても、哀れに思いました。
三千世界の中で、どれだけ多くの黄金を積んだとしても、命に替わるものはありません。
深くて断ち切れない宿縁に会ったならば、惜しむべき命も惜しくはありません。そうであれば胤義が上洛して後鳥羽院に召され、謀反を起こして鎌倉に敵対して妻と自分の心を慰めようと思っているところに、このように院宣を蒙ったのは面目もないことです。胤義の兄駿河守義村の下へ一通の手紙を送ったならば、義時を討ち取るのは容易いことでしょう。その手紙に『胤義は上洛して後鳥羽院に召され、謀反を起こし、鎌倉に向かって矢を放ち、今日から鎌倉に戻ることはないでしょう。そうであれば昔より八ヶ国の武将・高家は、親子揃って鎌倉に忠誠を誓うことを忘れない者なので、権大夫は多数の軍勢を率いて上洛し、内裏を幾重にも取り囲んで謀反の輩を攻めるでしょう。駿河殿は三浦に九歳・七歳・五歳になる三人の子供がいながら、権大夫の前で首を切られました。
このようなことになったのだから、あなたは権大夫殿に何の分け隔てもないように振る舞って、諸国の武士が上洛してもあなたは上洛せず、三浦の人々と共に権大夫を討ち取ってください。討ち取ったならば、胤義も三人の子供に先立たれましたその代わりに、あなたと胤義で天下を治めましょう』と、手紙を送ったならば、義時を討ち取るのは容易いでしょう。このようなことは先延ばしにしてはいけません。急いで合戦の軍議を開きましょう」と。

秀康がこのことを院に奏上すると、急ぎ軍議を開くよう勅命が下った。

京方、合戦の準備

さて、勅命の趣旨は「来る四月二十八日城南寺にて仏事を行う。警護のために甲冑を着て参るべし」ということだった。
藤原光親・源有雅・藤原宗行・藤原信能・藤原範茂が直に勅定を蒙った。
刑部僧正長厳、二位法印尊長もいた。

書状に名前があったのは、能登守秀康、石見前司、若狭前司、伊勢前司、安房守、下野守、下総守、隠岐守、山城守、駿河守大夫判官、後藤大夫判官、江大夫判官、三浦判官、河内判官、筑後判官、弥太郎判官、間野次郎左衛門尉、六郎右衛門尉、刑部左衛門尉、平内左衛門尉、医王左衛門尉、有石左衛門尉、斎藤左衛門尉、薩摩左衛門尉、安達左衛門尉、熊替左衛門尉、主馬左衛門尉、宮崎左衛門尉、藤太左衛門尉、筑後入道父子六騎、中務の入道父子二騎である。

諸国から招集された武士は、丹波国からは日置刑部丞・館六郎・城次郎・蘆田太郎・栗村左衛門尉である。
丹後国からは田野兵衛尉。但馬国からは朝倉八郎。播磨国からは草田右馬允。美濃国からは夜比兵衛尉・六郎左衛門・蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門尉・高桑・開田・懸桟・上田・打見・寺本。尾張国からは山田小次郎。三河国からは駿河入道・右馬助・真平滋左衛門尉。摂津国からは関左衛門尉・渡辺翔左衛門尉。紀伊国からは田辺法印・田井兵衛尉。大和国からは宇多左衛門尉。伊勢国からは加藤左衛門尉。伊予国からは河野四郎入道。近江国からは佐々木党・少輔入道親広をはじめとして一千余騎。
承久三年四月二十八日、高陽院殿へ参上した。

合戦に関する卜占と賛否両論

後鳥羽院土御門院順徳院雅成親王頼仁親王が集まった。
その日から諸国の兵を分散させ、高陽院殿の四面の門を警護させた。
院には陰陽師七人を召して合戦の吉凶を占わせた。
安倍氏の氏長者で陰陽頭の安倍泰忠と雅楽頭安倍泰基が申すには、「この合戦は、現在は良い結果ではありません。今は思いとどまり年号を替えて、十月上旬に行うならば成就して平安になるでしょう」と。
院が思い悩んでいると、卿二位殿がまた申すには、「陰陽師、神の御号を借りて申せ。後鳥羽院に義時が勝てるわけがなかろう。このようなことは、程なく世の中に知られるだろう。まして一千余騎の軍勢ならば隠そうとしても隠しきれないだろう。義時がこのことを知ったら、いよいよ事は重大になる。ただ早く思い立つべきだ」と。
そうであったので秀康を召して、まず義時の縁者で検非違使藤原光季を討つべきだと宣旨を下した。

その頃、藤原基通・藤原頼実は国政の重鎮であったが、内々に申したのは、「嘆かわしいことだ。後鳥羽院は悪手を打ってしまった。義時は故頼朝卿の時から度々合戦に出ているので、合戦の道においては智恵がある。勝てないだろう」と兼ねてからわかっていたので、それぞれ朝廷の評議にもその後は関係しなかった。

京方、合戦の会議

さて、秀康は院宣を蒙り、三浦胤義を呼び寄せ、軍議を始めた。
「光季を討てとの院宣を蒙ったなら、いつ討つべきか。また、あなたは光季より幼少の頃から共に育ち、何を考えているのかわかるだろう。どうだろうか」と申すと、これを聞いて「五月十五日に討ちましょう。光季は徒歩での戦いや騎馬戦も問題なく、選り抜きの強者で、刀剣をとっては類なく、さすがの男です。見境なしに攻め寄せて討とうとしたら、容易くは討てないでしょう。後鳥羽院がお召しになって高陽院殿の前庭で取り囲んで討ちましょう。召しても参上しないならば、運に任せて討ちましょう」と相議した。

広綱と光季

そんなことを話し合っているうちに、十四日になった。
佐々木広綱と藤原光季は相舅であったので、広綱はこのことを聞きつけて光季に知らせようと思い、彼を呼び寄せて酒宴を開き、打ち解けた頃に申したのは、「判官殿、今日は心静かに遊んでください」と、くつろいだ座になってすばらしい美女を召し出し、酌を取らせて、それを肴に今一度と酒を勧めた。
光季は満足して申すには、「この度、都に数多の武士が集まっていると聞いている。どういうわけかわからない。夢の中で宣旨を持った御使が三人来て、光季は張り立てていた弓を取って柄を七に切ると思うと、世の中がつまらなく思われます。今日の交遊はいい思い出になるでしょう」と言った。

広綱はこれを聞き、武士は勝敗によって命が左右される身の上であるから知らせようと思ったが、光季が討たれた次の日には、後鳥羽院に知られて「広綱は光季によしみを通じていた」と言って首を切ろうとするに決まっている。
そうであったので知らないふりをしようと思い光季に申したのは、「後鳥羽院は何を考えているのだろうか。都で騒ぎを起こす者がいたのだろう。この世の中の習いであれば、他人事ではない。もしもの事があった時は、お頼み申す。また飲もう」とだけ言った。

そのうちに日が暮れたので光季は家に帰り、夜に白拍子春日金王を呼んで夜通し宴会を開いた。

光季側、応戦の準備

十五日の朝になったので、秀康は院宣によって光季を三度まで召した。
光季は怪しいと思ってたやすく参ろうともせず、乳母子の光高を呼んで「御所が私を召した時に合わせるように、都が騒がしくなったとみえる。諸国の武士も大勢上洛したようだから、内裏・仙洞に参上して様子を見てこい」と言って遣わしたので、光高が高陽院殿に馬を馳せて向かうと、三条大路と東洞院大路との交叉する辺りに討手である宣旨の使い一千余騎に遭遇した。光高はこれを見て、「あれは何の武士なのだ」と問うと、京の町中を歩いていた無頼な若者たちは「あれこそ、伊賀判官(光季)を討つ宣旨の使いよ」と言ったので、光高はこれを聞いて、夢心地でたいそう騒々しく走り帰って、光季を客間の開き戸に呼び寄せ、「あなたは、驚いたことに勅勘をお受けになったのでしたよ。討手の使いがすでに一千余騎、すぐ近くまで来ています。たとて宣旨・院宣であっても、矢を放ってください」と申した。

光季はこれを聞いても少しも騒がず、光高に言ったのは、「光季を討とうと思っても、攻め寄せてもそう簡単には討たれまい。討手が来ない間に遊女たちを逃し、誰を残そう」と言って後見の政所太郎を呼び出し、「遊女共に引き出物を取らせよ」と言った。
政所太郎は中に入ってさまざまな物を取り出し、飽くまで引き出物を取らせた。
光季が心を鎮めて言うには、「光季が死んだ後の供養にでもせよ」と涙をこらえて盃を二つ取り、別れの盃を差し出した。
その後、遊女たちを逃した。

政所太郎が「光季殿、たとえ宣旨でも、一矢報いて、死んではなりません。ただ今、討手を引き受けて合戦することのできる者はどれほどいるだろうか」と問うと、「光高・大津右馬允・薩摩右近・仁江田三郎父子三騎・伊加羅武者父子三騎・大摩太郎・与三次郎・方切源太・園平次・弥二郎・山村三郎・河内太郎・小山小大夫次郎・池野部太郎・世座七郎・柳原・大居又次郎・熊王某まで、八十五騎はおります」と申したので、これらの一族と従者・郎党ら全員と会議を開き、「こういうわけであるが、光季はこの勢を従えて、近づいてくる敵陣を駆け抜け、鎌倉に落ち延びようと思うのだが、誰を残そうと思ったけれども、義時は光季が生きていても宣旨の御使を見逃し、鎌倉へ落ち延びたならば、八ヶ国の武将・高家の武芸の誉れを傷付けるのだろうから、鎌倉へも行くわけには行かぬ。ここで最後の一騎となっても、合戦にて討死するつもりだ。
情けをかける人は、光季の最後のお供として死手の山路を行きなさい。ただし、名誉も命も惜しまない者は、合戦が乱れる前にどこかへ落ち延びよ。恨みはない」と言った。

平時には御前にてんてこ舞いしご恩を蒙らんとだけ振る舞っていた人々は、これを聞いて大津右馬允・薩摩右近を始めとして次第に落ち延びていったので、二十九騎ばかりが残った。
それでも落ちていこうとする様子が見えたので、光高は走り回り土門・小門の錠をして回って申すには、「皆さん、聞いてください。主君が世におわします時はご恩を蒙らんときりきり舞いしていた面々が次第に落ち延びていき、わずかに残る皆さんも落ち延びようと思うならば、天にでも上り地も破って落ち延びてください。この上、なおも落ち延びる支度をする者がいたならば、今近づいている敵からは逃げられないだろう。館の中で同士討ちが始まって討死するだろう」と言った。
このように言われて二十九騎は静まった。

政所太郎はこれを見て、蝶や菊の形の裾金物をびっしりと打った大鎧を取り出し、光季に差し出した。
光季がこれを見て言ったのは、「光季が武具に身を固めて軍をしたならば、勝つことができるのか。我らは無勢であり、攻め寄せてくる敵は多勢である。身を固めずに多勢に立ち向かい、一矢報いて死んでこそ、名を後代に残そう」と言って腰刀を抜き、鎧の高紐・草摺・屈継・障子の板・弦走・栴檀の板・錦の入った脇立をみな切り破って言うには、「光季は最期の時までこれらを身に着けていようと思ったけれども、討死して敵の手に渡るのは惜しいので、切ったのだ」と言って、泥の中に投げ入れた。

光高はこれを見て、光季は心を決めたのだと思って申したのは、「残った軍勢は二十九騎です。光季殿・寿王殿の両人を加えて三十一騎になります。この軍勢にてただ今攻め寄せて来る敵陣に割り込み、高陽院殿の前庭に引きこもり、四方の門を内側から防衛して討手と死力を尽くして戦い負けるならば、御簾の隙をくぐって御殿に参り、天皇の近くまで行って自害しましょう」と申した。

光季はこれを聞いて、「光高・政所太郎や、そうしよう。残った者どもは、門を開けたら皆落ち延びよ。ただここにて、一騎になるまで戦って討死せよ。矢数が尽きてしまったならば、打物を取って戦いなさい。それも叶わない者は館に火を放ち、人の手にかからず自害する支度をせよ」と言った。

光季のこの日の合戦の装束は、寄懸の目結の小袖に、白地の帷、大口袴で、白鞘巻を差し、十六本の矢を差した矢筒、三本の矢を差した矢筒を二つ取り寄せて、妻戸に矢を束ねて立て置き、滋藤の弓三張を張りたて、敵が押し寄せて来るのを待ち構えていた。
光季が言うには、「寿王、早く武具を身に着けよ」と言ったので、十四歳になる寿王が軍装束を身に着けた。
小連銭の小袖に、白地の帷、黄色の大口袴、萌黄糸威の腹巻、錦革の小手を差して、七寸五分の腹巻通しを差し、十六本の矢を差した染羽の矢筒をかき立て、重藤の弓の本はずを外し、紅の扇を開き持ち、内柱を木楯にして敵を待ち構えた。

一千余騎の討手が東京極大路の側まで押し寄せてきた。
門に差し掛かると、寄り手の幡が門越しにたなびいて見えた。
光季は門を開けさせた。光高・熊王丸が門を開けると、討ち入る人々は一陣に三浦胤義、二陣に草田右馬允、三陣六郎左衛門、四陣刑部左衛門、五陣佐々木広綱をはじめとして、武将と兵を合わせて三十余騎程が討ち入った。

言葉戦

これを見た光季は紅の扇を持って、左手の袂を打ち払い、前庭に歩み寄って、胤義の鼻から弓一張の距離まで近づいて申したのは、「あれは胤義ではないか。光季、この度は都にいたけれども、天皇のために罪過もない者がどうして勅勘を受けねばならないのか」と。
胤義が返事をして言うには、「その事であるが、判官殿。あなたと胤義は幼い頃から共に育ったのでいい加減には思わないが、時世の向くままに宣旨に召されて、あなたの討手として攻め寄せた」と。
即座に光季が言ったのは、「この計略、光季はかねてより知っていた。あなたと能登守殿の二人で権大夫を討ち取り、天下を意のままにしようと思って権大夫を討とうとする門出に、無勢の光季をまず討とうと思ったのであろう。武士であったならば、合戦に命運が左右される者を。鎌倉に付いている八ヶ国の武士・高家は昔から武芸の上での主従の契約を忘れない者なのだから、権大夫は大軍を率いて上洛し、謀反人の首を切るだろうに、どうしてこのようなことを思い立ったのだ」と言った。

草田右馬允はこれを聞き、「やあ、平判官殿、これ程敵に時間を与えては、どうやって討つのだ」と言いかけて、胤義は染羽の中差を抜き出し、飽くまで矢を放った。
光季の左手の袂を射通して、後ろの妻戸の立て木に刺さった。光季がこれを見て言ったのは、「あなたの最初の矢に討たれるだろうと思っていたのに、いまだ神仏の御加護があるようだ。あなたの御加護は尽きたのだろう。伊賀判官光季、生まれて四十八歳になる。手並みの程をご覧ぜよ、平判官殿」と言って、白羽の矢を引き放つと、胤義の弓の取柄の上の一束を射削り、二陣で控えていた草田右馬允の頚骨を射抜いたので、こらえきれず落ちた。

胤義がこれを見て思うには、「官軍の門出に大将軍胤義が一番に射落とされたといわれたら、不名誉なことだ」と思って門の外に引き返した。
六郎左衛門が押し寄せて戦ったが、敗走した。
広綱が弓矢を番えて進軍して申したのは、「昨日までは互いに遊んでいた間柄であったけれども、時世に従い、宣旨を蒙ってあなたを討ち取りに来た。光綱は広綱には烏帽子子であると同時に聟であるよ。お互いの手並みの程を見せるのは今日なのだ」というと、「あなたはこの光季の相手にもならない敵だ。そこをどきなさい。あなたが光綱と戦をしたいならば、しなさい」と言って割って入り、「寿王、早く前に出て舅の山城守の前に見参せよ」と言った。
寿王は、父の命に従って十六本の矢を差している染羽の矢筒を背負い、前庭に歩み出た。
「あれは山城殿でいらっしゃるか。光綱をば誰だと思っている。伊賀判官の次男、判官次郎光綱とは私のことだ。生まれてこの方十四歳になる。元服の時に賜った矢を返し奉る」と、飽くまで矢を引き放つと、山城守の鎧の袖の中に刺さった。

山城守はこれを見て門外に引き返し、「これを見給え、皆様。十四になる判官次郎が弓を射る力の強く烈しいことよ」と鎧に刺さった矢を折ってそのままにしておいた。
間野二郎左衛門はこれを聞いて、「武士が無常心を起こしてはならない。それならばこの宗景が先を懸けよう」と言って、葦毛に銭形の斑紋のある馬に乗り、門の南側に構えた。
伊賀判官はこれを見て、「門の南側に甲も着けずに緋威の鎧に半頭を着けているだけの者は、間野二郎左衛門か。その人でいらっしゃるならば、日頃の言葉からは似ても似つかない。もっと近くへ来い。見参しよう」と言った。

間野二郎左衛門は「おかしなことだ、判官殿。他に人もいるだろうに宗景にいう面目よ。さらば参ろう」と刀を抜いて近付いた。
判官は、間野二郎左衛門に弓の弦を切られて出居の中へ入った。
治部次郎も前に出て戦ったが、左手の腹を切られて縁より下へ退いた。
仁江田三郎父子三騎も戦ったが、二郎左衛門の手にかかって討ち取られた。
伊加羅武者は内股を切られて、前庭に転び落ちた。
間野二郎左衛門が「恥を知れ」と首を取ろうとしてうつむいたところを、判官が出居の中から射た矢が間野二郎左衛門の烏帽子を締めた鉢巻の結び目に刺さった。
正気を失って、早くも息絶えた。
その間に、鏡左衛門・田野辺十郎が近付いてきた。
鏡左衛門は敗走し、田野辺十郎は討ち取られた。

両軍ともに多くの死者を出した。
御方は三十五騎。判官も負傷し、もうだめだと思って出居の中へ入った。
政所太郎を召し寄せて「敵に火を付けさせるな。お前が火を放て」と命じた。
正殿に火を放つと煙が天高く昇って雲になるほど烈しく燃え上がった。
光季は寿王を呼び寄せて、「光季はこれまでた。自害せよ」と言ったので、火の中へ飛び入り三度まで戻ってきた。
光季はこれを見て、「寿王よ。自害できないのならばこっちへ来い。遺言を授ける」と言うと、寿王は近付いていった。
光季は「去年の十一月、順徳院に石清水八幡宮への御幸があった時、淀の渡り橋を警護して後鳥羽院の前に参上し、『賢い目つきの若者だな』と褒められたので光季も嬉しく思い、今度の司召の助目にはお前の任官を希望しようと思っていたところにこのようなことになってしまったのは、寂しいことだ。」と。
寿王は「自害ではなく、父上の御手にかけてください」と申したので、光季は「命を惜しんで『鎌倉へ逃げます』と言うと思っていたのに」と刀を抜いて刺そうとしたが、涙で刀を立てる場所が見えなかった。
そうでありながら、三刀ばかり刺して燃え盛る炎の中に飛び込み、念仏を唱えた。
「南無帰命頂礼、八幡大菩薩、賀茂明神・春日明神、私の志を哀れみお聞き届けください。光季は、都に残って帝に忠節を尽くした罪なき者にもかかわらず、宣旨を蒙って命を天皇に捧げることとなった。名前だけでも後代に残しましょう」といって、また、鎌倉の方を三度伏拝み、「私亡き後の敵を討ってください、大夫殿」と言って政所太郎の手を取り違えて寿王の上にまろびかかり、炎の底に沈んでいった。

秀康、院に報告する

その頃、能登守が御所に参上して合戦の経過を申し上げると、後鳥羽院も合戦の様子を尋ねた。
秀康が奏上して申したのは、「合戦の様子は言葉に出来ないほど激しゅうございました。一千余騎の討手と光季の三十一騎の軍勢とが、未の刻から申の刻まで戦って、我が軍は三十五騎が討たれました。負傷した者は数え切れないほどです。光季側は恥ある郎等数名が討たれ、光季父子が自害しました」と。
後鳥羽院は「哀れ、光季を朝廷側に付かせて生かしておき、義時追討軍の大将軍をさせたかった」と言った。

一方、西園寺公経と子息実氏が拘束された。関東に内通している疑いがあったからである。朝ご恩を賜り、夕べに死を賜るのは、さながら唐の人のようである。

光季・胤義・院の三者の使いが鎌倉に下る

さて、光季の使者が十五日戌の刻に鎌倉へ向かった。
胤義も帰宅し、以前秀康に放った言葉から考えは少しも変わらず、手紙を詳細に書いて、同日戌の刻に兄駿河守のもとへ送った。
また、後鳥羽院は「秀康、これを承れ。武田信光小笠原長清小山朝政宇都宮頼綱中間五郎足利義氏(この間脱文の可能性あり)、また北条時房三浦義村に味方に付くよう説得する文面の手紙を遣わせ」と宣旨を下した。
秀康は宣旨を蒙り、藤原光親に手紙を書き下し、家来の押松を遣わした。

押松は十六日寅の刻に宣旨を持って下った。
行く時こそ急いでいたが、帰る時は武士・高家から引き出物をもらって帰ろう思っていたので、宮仕えの役得ここにありと思った。
鎌倉には大方二十日程で着くだろうと十六日の朝早くに京を出発し、十九日申の刻に鎌倉に到着した。

光季の使者も、同日酉の刻に到着した。光季の下人が政子のいるところに参上して急を知らせたので、「このように若い時から悲しい思いをしてきた者はまさかおるまい。鎌倉中に知らせよ」と仰せられた。
案の定、鎌倉中の騒ぎとなった。
このことを聞いて政子のもとへ武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・中間五郎・足利義氏らが参上した。

いずれも、後鳥羽院が味方に付けようとしていた武士たちである。 これらの武士と鎌倉幕府の絆がこれほど強固だったことについて、後鳥羽院の認識が甘かったことが露呈されている。

政子、武士達を説得する

政子は「皆の者、よく聞け。私は、このように若い時から悲しい思いをする者がいてはいけないと思う。最初は娘の大姫に先立たれ、その次は大将殿(頼朝)に先立たれ、その後は頼家に先立たれ、程なくして実朝にも先立たれた。四度の悲しみはすでに過ぎ去った。今義時が討たれたら、五度目の悲しみとなるだろう。女人五障とはまさにこのことだ。皆は上洛して警護を務め、雨が降っても日が照っても紫宸殿の前庭を守り、三年間家庭を思いやり、妻子を恋しいと思っていたので、大臣殿(実朝)は次第に申しとどめた。そうであれば、皆が朝廷に付き鎌倉を攻め、大将殿・大臣殿の墓を馬の蹄に蹴らせようとするならば、ご恩を蒙っている皆に武芸の加護があるだろうか。このように申す私のようなものが山奥に隠居して涙を流すのは不憫だとは思わないか、皆の者。私は若い時からきつい調子で物を言う者なのですよ。朝廷に付いて鎌倉を攻めるのか、鎌倉に付いて朝廷を攻めるのか、ありのままに仰せられよ」と言った。

女人五障

法華経・提婆達多品によれば、女性は梵天王・帝釈・魔王・転輪聖王・仏身になれないという話があった。

武田信光が進み出て申したのは、「昔より四十八人の武士・高家は源氏を末永く守護すると約束しているのですから、今さら誰が約束を反古にすると申しましょうか。四十八人の武士・高家は皆、二位殿(政子)の味方だと思ってください」と。
信光が申した言葉に、残りの人々も皆同意し、異議を唱える者はいなかった。
政子が喜んで重ねて言うには、「さらばだ、皆の者。権大夫の侍所で軍議を始めなさい」と仰せられた。
これを聞いて、皆義時のもとへ参上した。

義村、義時に就く。押松逮捕される

さて、胤義の使者も十九日酉の刻に三浦義村のもとに到着した。
弟が使者を見つけて「何事だ」と問うと、「手紙を持ってきました」と手紙を開いて言ったのは、「胤義の使者が三年都にいて言ったことだ。和田合戦には遥かに勝っている。このような事は二度とない」と言って、手紙を巻、胤義の使者に「都から下向した者はお前だけか」と問うと、使者は「院の使者押松が義時追討の宣旨を持って下向しましたが、鎌倉へ向かう途中ではぐれました」と申した。
義村は「関所の検問が厳しいので、返事は書かぬ。胤義の使者には、言ってよこしたことはわかったと伝えよ」と弟の使者を遣わした。

義村は手紙を持って義時の館へ参上し、「胤義の手紙をご覧になってください。和田義盛が謀反を起こした時、あなたに私が内通したという誹謗がありましたが、若い時から「互いに心変わりをしない」と約束をしていたので、このように申しました。院の使者押松はあなたを追討する宣旨を持って下向しましたが、鎌倉へ向かう途中ではぐれたというので、鎌倉より東の武士が院宣を披露されたならば、あなたと私に敵対する者は多いでしょう。その前に鎌倉中を探して押松を捕らえましょう」と申した。
「そうしよう」と言って、閻魔大王のような使者六人を鎌倉の出入口である六方向に分けて押松を探した。壱岐入道の家から押松を探し出し、ほとんど大地に足も付けさせず宙に吊るさんばかりで、獄卒が地獄の罪人を引き立てるようにして参上した。

武将達、義時に忠誠を誓う

義時は押松が持っていた院宣を奪い取って武士たちに見せた。
馬に乗る用意をして、大鎧を持たせて、義時のもとに参上する武士は数え切れないほどであった。

義時が申すには、「諸君がこの義時の首を斬ろうというならば、今ここで討ち取り、上洛して後鳥羽院に見せよ」と。
七条次郎兵衛が即座に申したのは、「大夫殿、お聞きになってください。昔より四十八人の武士は源氏を末永くお守りしようと約束いたしましたので、大夫殿こそが将軍です」と。
「では、四十八人の武士が皆そのように思っているならば、宣旨の返事はどうするか。各々よく考えよ」と申した。
関東武士の面々は並んで座していて、意見する者はいなかった。

時に、駿河国淡河中務兼定が申したのは、「臣下から天子の下問にお答えすることであれば、考えがございます」と。
「どうやって」と人々が問うと、「『後鳥羽院は多くの貢物を年に何度か献上されてご満足でございましょう。この上、何の不足があってこのような宣旨を下されたのでしょうか。二位の尼(政子)が山奥で隠居し涙を流すのは不憫だと思い、武士をお召しですので、山道・海道・北陸道の三路から軍勢を進めましょう。西国の武士達を合戦させて、合戦の様子を御簾の隙間からご覧になってください」』というのはどうでしょうか、皆様」と申した。

武田六郎が申したのは、「おかしなことを言うな、中務殿。誰も皆このように考えていたのだ。ご返事の宛名は誰だ」と。
請文の宛名は院庁の事務官と定めて、宣旨の返事を書いて押松に持たせた。
義時が申したのは、「押松に軍勢の程度を見せて上洛させたい。すぐに上洛させたならば、駿河国の軍勢は都の者にはわからないだろう。押松を逃げない程度に、死なない程度に拘束せよ」と。

武田六郎は「もっともな事です」と押松の身柄を右馬入道に預けた。牢屋に入れて足枷や手枷をはめて閉じ込めた。

鎌倉方、軍の会議

義時は軍議を始めた。
海道の駿河国の関所を湯山小子郎に任せた。山道の甲斐国の関所を三坂三郎に任せた。北陸道の志保山・黒坂を山城太郎に任せた。
「怪しげな者を入れるな、皆々。故右大将殿の時は先陣を畠山重忠が承っていたが、その人はもういない。今度の先陣は誰が務めるか。海道の先陣は時房が務める。これに従うのは、安達景盛・毛利季光・石戸入道・本間忠家・伊東祐時・加持井・丹内・野路八郎・河原五郎・強田左近・大河殿・大見実景・宇佐美祐政・内田五郎・久下三郎・北条時盛をはじめとして、その軍勢は二万騎になる。
二陣は、北条泰時が務める。これに従うのは、関政綱・新井田殿・森五郎・小山朝政・小山朝長・三善康知・宇都宮頼綱・中間五郎・藤内左衛門・安東忠家・高橋与一・印田右近・同刑部・安保実光・大森弥二郎兄弟・保威左衛門・蜂川殿・佐貫秀綱・伊達入道・同平次・金子平次・伊佐行政・固共六郎・丹党・小玉党・井野田党・金子党・棤二郎・有田党・弥二郎兵衛・三浦泰村・北条時氏をはじめとして、その軍勢は二万騎になる。
三陣は、足利義氏が務める。四陣は、佐野左衛門政景・二田四郎が務める。
五陣は、山柄行景・千葉介胤綱をはじめとして、海道七万騎に上るだろう。
山道の大将軍は、武田信光と小笠原長清が務める。これに従うのは、南部朝光・秋山長信・三坂三郎・二宮康頼・智戸六郎・武田信長をはじめとし五万騎に上るだろう。北陸道の大将軍は、北条朝時をはじめとして七万騎に上るだろう。山道・海道・北陸道の三路から十九万騎にて上洛しよう。私は鎌倉にいながら、死力を尽くして戦うべき場所を知っている。
北陸道は、礪波となみ山・宮崎・志保山・黒坂である。山道は、大井戸・板橋・莚田むしろだ・杭瀬川である。海道は、大御子・一瀬・大豆戸・食渡・高桑・墨俣が、戦うのによい場所よ。これらの場所で討ち勝つならば、馬の腹帯を強く締めて敵は焦っても味方は焦らずに、追手を進めて手際よく戦え、皆々。海道から攻める者は、美濃国不破の関所を通過し、北陸道から攻める者は越前国を通過して、その後ひとつの軍勢にまとまり宇治・勢田を攻め落として上洛し、五条大路に火を放ち、謀反の衆を討ち取り、後鳥羽院に届けよ。武蔵・相模の軍勢が少なければ、飛脚で知らせよ。北条重時に一陣を打たせて、義時も十万騎にて上洛し、手際よく戦い、後鳥羽院のご覧に入れよう。敗北するならば、下向して足柄・清見の関所に塹壕を掘って相模国の合戦場を誘って戦おう。それでも負けるならば、鎌倉中に火を放ち、天下を燃やし尽くし、陸奥に落ち延びて、多くの巻染めの八丈絹、夷が秘蔵する羽を一生の間領有してなんとかやっていけるだろう。皆の者は海道の先陣、相模守へ急げ。私が吉日を選ぼう。五月二十一日を合戦の日としよう」と。

二十一日になると、海道から攻める者は若宮大路に集合し、上差を抜いて若宮三所に奉り、由比ヶ浜から腰越山を通過して、足柄山へ向かった。

鎌倉勢発向、押松追い返される

義時は合戦の様子を見せようと思って押松を牢屋から出し、前庭に引き連れて申すには、「上洛して、後鳥羽院に申し上げる趣旨はだな、『こんなにたくさんの染物巻八丈、金銀、夷の秘蔵の羽、貢馬をいただいて、面目ありません。この上に何の不足があってか、義時のご機嫌を損じたのでございましょうか。武士を召集して山道・海道・北陸道の三路から十九万騎の活きのいい武士を上洛させます。西国の武士と合戦させて御簾の隙間からご覧になっています。軍勢が足りなければ、自分のように足の早い者を下向させ、義時も十万騎を率いて馳せ上り、手際よく戦って後鳥羽院のご覧に入れようと申しております』と申せ。押松に旅路の食糧をやれ」と言って、乾燥した飯を三升与え、門外へ追い出されて大波・腰越・懐島山をあたかも死出の山路を越えるように下向し、相模川に下り至ると水を浴び、力をつけて思うには、「この干飯は、ここで一気に食べて静かに上ろう」と思って、三升あった干飯を一度に平らげた。
「行く時は急いでも、帰りは急がずに武士から引き出物をもらったといえば面目も足りるだろうと思っていたが、そうはいかず、牢屋に閉じ込められて拷問を受け、人の声がしたと思えば今度は押松の首を斬ると言うことの恐ろしさよ。であれば押松は、あと十年は災難に見舞われないだろう」と、「今度は急がずとも帰ろう」と思いつつ、鎌倉を出て五日酉の刻には都に戻り、高陽院殿の前庭に到着した。

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