鎌倉時代

【承久の乱】戦いの結果〜上皇、公家たちのその後〜

承久三年(1221)7月1日、乱の首謀者で公卿以下の人々を処刑せよとの宣下があった。
北条泰時は、速やかに彼らを連行して関東に下向するよう命じた。

死罪

乱の首謀者で公卿以上の身分の者は皆、洛中で死罪するよう命じられていた。

藤原基清⇒さらし首

頼朝の恩を受けて数ヶ所の庄園を賜った関東の武士であったが、ご恩を忘れて遺塵を払おうとした。
承久三年(1221)7月2日、命によって息子の基綱に斬られた。

平有範⇒さらし首

頼朝の恩を受けて数ヶ所の庄園を賜った関東の武士であったが、ご恩を忘れて遺塵を払おうとした。
承久三年(1221)7月2日、さらし首にされた。

佐々木広綱⇒さらし首

頼朝の恩を受けて数ヶ所の庄園を賜った関東の武士であったが、ご恩を忘れて遺塵を払おうとした。
承久三年(1221)7月2日、さらし首にされた。

大江能範⇒さらし首

頼朝の恩を受けて数ヶ所の庄園を賜った関東の武士であったが、ご恩を忘れて遺塵を払おうとした。
承久三年(1221)7月2日、さらし首にされた。

一条信能⇒斬首

承久三年(1221)7月5日、一条信能は遠山景朝に連れられて美濃国に到着。
美濃国遠山庄で首を刎ねられた。
これは、泰時が洛外での処刑を提案したことによる。

藤原光親⇒さらし首

藤原光親は6月に出家して西親という法名を賜った。
光親の身柄は武田信光が預かっていたが、駿河国の車返の辺りで遭った鎌倉の使者に誅殺するようにつたえられたので、加古坂で光親をさらし首にした。46歳であった。

翌日、藤原宗行が駿河国浮島原を通り過ぎると、荷物を背負って一人泣いている人夫に出会った。
人夫は光親の下僕で、主君の遺骨を拾って京に帰ると言った。
宗行は死罪を逃れられないことはわかっていたが、まだ助かる希望があるのではないかと思っていたところに同罪の光親がこのようになってしまったので、魂が消えるような思いであった。
黄瀬川で休息した際に、傍らに書き付けた。

今日過ぐる身を浮島の原にても 終の道をば聞きさだめつる

そしてその翌日、宗行はとうとう白刃を逃れられなかった。

後日、藤原光親が後鳥羽上皇を諌める申状数十通が仙洞で発見された時、泰時はたいそう後悔したという。

藤原光親

後鳥羽上皇の寵臣。承久の乱では戦々恐々としながらも上皇を正しい判断に導こうとしたが、上皇の怒りに触れて進退が窮まり、追討の宣旨を書き下した。

藤原範茂⇒入水

承久三年(1221)7月18日、藤原範茂の身柄は北条朝時が預かった。
五体が揃っていなければ来世に差し障りがあると考えた範茂は、足柄山の麓で早河の底に入水した。

源有雅⇒誅殺

承久三年(1221)7月29日、源有雅は小笠原長清に連れられて甲斐国に到着。
有雅は「少々縁があるので、命を救ってくれるよう二品禅尼(雅子)に申し上げた。返事が来るまでは死罪を待ってほしい」と懇願したが、長清はこれを許さず、稲積庄小瀬村で誅殺させた。
しかし、しばらくして政子の書状が届き、そこには処刑を赦すようにと書かれていたのであった……。

島流し

後鳥羽上皇⇒隠岐島へ

承久三年(1221)7月13日、後鳥羽上皇は隠岐島へ流された。
同年7月27日、出雲国大浜湊に到着し、船に乗った。
同行した武士はほとんどが京に帰ったので、藤原殖子と藤原重子に和歌を贈った。

垂乳根の 消えやらで待つ 露の身を 風より先にいかでとはまし

知るらめや憂きめをみをの浦千鳥 島々しほる袖の景色を

同年8月5日、上皇はついに隠岐国阿摩郡苅田郷に到着した。
月日や方角もわからないほどの場所で、都を離れる悲しみと恨みとで思い悩まれるばかりであったという。

順徳天皇⇒佐渡国へ

承久三年(1221)7月20日、順徳天皇が佐渡国へ流された。
一条能氏・藤原範経・源康光らと女房2人が同行した。
この内、能氏は病気のため道中で京に帰った。範経も重病となり、越後国の寺泊浦に留まった。

雅成親王⇒但馬国へ

承久三年(1221)7月24日、雅成親王が但馬国(兵庫県豊岡市高屋)へ配流された。
時房と泰時が法橋昌明に親王を守護するよう命じた。

法橋昌明

延暦寺の僧だが鎌倉幕府に仕え、源行家を捕らえるなどの功績がある。
承久の乱では幕府側に味方し、多数の庄園を賜った。但馬国を本拠地としている。

頼仁親王⇒備前国へ

承久三年(1221)7月25日、頼仁親王が備前国豊岡庄児島(岡山県玉名市・倉敷市付近)に配流された。
泰時は佐々木信実の息子たちに親王の守護を命じた。
藤原信成・藤原光俊らが向かった。

刑部長巌⇒陸奥国へ

承久三年(1221)8月22日、藤原定高が太政官で配流の官符に請印。
同年9月10日、刑部長巌は陸奥国に配流となった。

賀茂禰宜大夫祐綱⇒甲斐国へ

承久三年(1221)8月22日、藤原定高が太政官で配流の官符に請印。
同年9月10日、賀茂禰宜かものねぎ大夫祐綱は甲斐国へ配流となった。

賀茂神主能久⇒鎮西へ

承久三年(1221)8月22日、藤原定高が太政官で配流の官符に請印。
同年9月10日、賀茂神主能久は鎮西へ配流となった。

お咎めなし

坊門忠信

承久三年(1221)8月1日、坊門忠信はこの戦いの大将軍だったため、千葉胤綱が身柄を預かり、遠江国舞沢から帰京した。
忠信の妹西八条禅尼は実朝の妻室であったため、政子との旧縁により赦された。

源光行

源光行は関東から数ヶ所の恩賞を賜りながら、朝廷側に立って東国武士の名を書き連ねた文書を差し出し、宣旨の副文を書いた罪があったので、義時は光行を誅殺するよう命じた。

光行の嫡男である源親行はこのことを聞いて死罪を免じてほしいと泣いて訴えたが、赦されなかった。
親行は一条実雅にも依頼したので、実雅もこれを伝えた。
すると誅殺してはならないとの書状が届いたので、親行が書状を持って金洗沢に急行して父の命を救った。
光行の身柄は小山朝政の元に引き渡された。

孝行な息子

光行は父・光季が平家に味方したことで頼朝に咎められた時、下向して訴えたところ赦された。
光行もまた、孝行な息子に助けられたのである。

日吉社の禰宜祝部成茂

承久三年(1221)閏10月29日、日吉社の禰宜祝部成茂は朝廷に味方した疑いがあったので鎌倉に呼び出されたが、赦されて帰京した。
成茂は伊賀光宗を通してお礼の手紙を義時に送った。
そこには、自らの恩赦を喜び、武士の世が末永く続くことを祈る旨が書かれていたという。

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