承久の乱は鎌倉幕府と朝廷による合戦で、鎌倉幕府が勝利した。
この合戦を機に、政治の主導権は朝廷の貴族社会から幕府の武家社会に移り変わっていった。
『吾妻鏡』によると後鳥羽が北条義時追討の宣旨を発給したのは、後鳥羽が愛人の所領の地頭職を解任するよう要求したが、義時が拒否したのが原因だといわれている。
後鳥羽院との確執
地頭の撤廃を求められる
『吾妻鏡』承元元年3月9日条・承元三年5月19日条によると、後鳥羽院は寵姫亀菊の所領である摂津国長江荘・倉橋荘の地頭罷免を命じる院宣と宣旨を発給したが。
しかし、義時は「幕下将軍(源頼朝)のときに勲功の恩賞を受けて地頭に任命されたものは、特に過失があるわけでもないのに解任することはできない」として命令を拒否した。
鎌倉幕府が弱体化している今こそ倒幕の好機が訪れたと判断した後鳥羽院は軍事力の増強に務め、倒幕に向けて着々と準備を進めた。
上皇たちの倒幕計画
順徳天皇の譲位
承久三年(1221)、各地の神社や寺社で大規模な祈祷が行われた。
同年4月には順徳天皇も幼い皇子に譲位して上皇となり、倒幕運動に専念するようになった。
摂政には、幕府の次期将軍として鎌倉に下向していた三寅の父である九条道家が就任した。
比叡山延暦寺の僧徒を味方につけようとした後鳥羽は、順徳の同母弟尊快法親王を天台座主に任じた。
承久の乱
北条義時追討の宣旨が発給される
承久三年(1221)5月14日、後鳥羽は鳥羽離宮内の城南寺で流鏑馬を行うと称して諸国から兵を招集した。
北面・西面の武士をはじめ、各地から1700騎余りの武士たちが集まった。
親幕派貴族の筆頭と噂されていた西園寺公経・実氏父子は捕らえられ、拘禁された。
また、当時の京都における幕府代表である京都守護のうち、義時の義理の兄弟でもあり、ただ一人後鳥羽の命令を拒んだ伊賀光季に軍勢を差し向けて討ち取った。
なお、もうひとりの京都守護である源親広は朝廷側に付いていた。
こうして5月15日、北条義時追討の宣旨が発給された。
その内容は「自分の思うままに天下の政務を執り権勢を振るうさまは、まるで天皇の権威を忘れたかのようであり、これは謀反というべきだ」として、全国の武士に義時追討を命じたものだった。
挙兵後二日で京都を制圧した朝廷軍の士気は大いに上がり、上皇の御前会議では「朝敵となった義時に従うものは千人にも満たないでしょう」という楽観的な意見も出るほどであった。
後鳥羽から三浦義村への大きな期待
後鳥羽たちは義時追討の宣旨とともに、関東の有力豪族たちへ「宣旨に従えば恩賞を好きなだけくれてやる」という添状を使者に届けさせた。
特に三浦義村の弟胤義はすでに朝廷に付いていたので、後鳥羽の義村への期待は大きかった。
しかし、伊賀光季と西園寺家からの報せを受けていた幕府は、朝廷からの使者が鎌倉に辿り着く前にこれを捕らえた。
胤義から密書を受け取った義村も幕府に駆けつけた。
なぜ幕府ではなく義時個人の追討を命じたのか
後鳥羽は義時追討の宣旨を発給することによって、幕府が義時派と反義時派に分裂して内乱の末に自滅することを狙ったのだ。
北条政子の大演説
朝廷の権威は幕府の上に重くのしかかり、重大な局面を迎えていた。
京都に駐在していたほとんどの御家人は朝廷に味方したという。
5月19日、義時追討の宣旨と朝廷軍挙兵の報せが鎌倉に届いた。
政子と義時らは対策会議を開いて御家人を集めた。
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背景 承久三年(1221)5月15日午の刻(正午頃)、伊賀光季が誅殺され、藤原光親に勅して北条義時追討の宣旨が五畿七道に下された。さらに5月16日寅の刻(午前4時頃)、義時追討の宣旨を託された押松(藤 ...
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北条泰時らが京都へ出陣
幕府で会議が開かれ、宣旨への対策について話し合った。
当初は箱根・足柄の関所を守りながら防戦するべきとの意見がほとんどだったが、大江広元の「東国武士が心をひとつにしなければ、関所を守るだけではかえって敗北してしまうでしょう。運を天に任せて速やかに京都へ出陣すべきです」という進言により、京都を攻めることに決まった。
政子が武蔵国の軍勢が来るのを待って上洛せよと命じたので、東国15ヵ国それぞれの一族に手紙を出して命令を伝えた。
式部丞(北条朝時)は北国に向かわせる。このことを速やかに一家の人々に伝えて出陣せよ。
5月21日、朝廷に敵対することについて異議が出されたので、合戦について再び協議が行われた。
大江広元が大将軍(北条泰時)だけでも出陣すれば、東国武士たちはみな従うだろうと進言したので、義時は感心して泰時を出陣させた。
上洛を決めてから日数が経過していたので、とうとうまた異議が出されました。
武蔵国の軍勢を待ってただ日時を重ねていたのでは、武蔵国の者たちも次第に考えを変えてしまうでしょう。
今夜中に武州(北条泰時)だけでも鞭を揚げて急行されるならば、東国武士たちはみな雲が龍になびくように従うでしょう。
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後鳥羽が義時追討の宣旨を撤回
泰時の後を追った軍勢は東海道・東山道・北陸道の三道に分かれて次々と出発し、道中で次々に軍勢が加勢したので進撃していくにつれて鎌倉軍は膨れ上がっていった。
最終的には19万騎の大軍となって京都に雪崩れ込み、ついに制圧したのであった。
京都が制圧された当日、後鳥羽は義時追討の宣旨を「謀臣が勝手にやったことだ」として撤回した。
こうして、承久の乱は幕府の勝利、朝廷の敗北に終わった。
朝廷方の敗因
一枚岩ではなかった朝廷
承久の乱に参加した中心人物は、後鳥羽の母七条院の関係者(坊門忠信)と順得天皇の母修明門院の関係者(高倉範茂、源有雅)だった。
しかし、大臣以上の公卿は参加しなかった。
京都守護も務めた親幕派の貴族である一条能保の子供のうち尊長・信能・能継・能氏らは朝廷方に加わった。
だが、義時の娘と結婚して鎌倉にいた実雅や、頼氏は加わらなかった。
二人の京都守護のうち大江親弘は朝廷方に加わったが、義時の妻の兄である伊賀光季は拒否したので、後鳥羽によって追討された。
後鳥羽の近臣だった西園寺公経も子の実氏とともに幽閉されている。
朝廷のすべての人間が一致団結して幕府を倒そうとしたわけではなかったのである。
合戦後の処置
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参考資料
- 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
- 平 雅行 (編)「公武権力の変容と仏教界 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻)」清文堂出版、2014年
- 細川 重男「執権 北条氏と鎌倉幕府」講談社、2019年
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