平安時代

平安時代の天皇の人物像がわかるエピソード集

醍醐天皇

説話

聖帝の例えとして名前を挙げられる

村上天皇とともに日本の聖帝として挙げられている。(『大鏡』)

御袴着の式の屏風に和歌を書かせる

醍醐天皇が子供の御袴着の式に用いる屏風を作らせて、その色紙形に和歌を書き入れるために歌人たちに和歌を差し出すように命じた。
歌人たちがみな歌を詠んで奉ったのを小野道風に書き入れさせた。ところが、屏風の春の帖の、桜の咲いている山路に女の牛車が描かれているところにちょうど色紙形があった。そこへ入れる和歌がなかったので、醍醐天皇はしばらく考えた末、藤原伊衡に「すぐに伊勢御息所のところへ行き、和歌を詠むように伝えよ」と命じた。使者として伊衡を遣わしたのは、容姿・人柄ともに優れていたからである。戻ってきた伊衡から御息所の文を受け取って見ると、道風にも見劣りしないほどに美しい筆跡だった。(『今昔物語集』巻24第31話)

村上天皇 or 朱雀天皇の御五十日の餅の儀において、藤原伊衡の和歌に対して返歌を詠む

村上天皇または朱雀天皇の御五十日の餅の儀式が行われたとき、藤原伊衡の中将が和歌を詠み、醍醐天皇が自ら返歌を詠んだ。醍醐天皇は政治だけでなく和歌にも秀でていた。(『大鏡』)

御五十日の餅

皇子が誕生してから五十日目にお祝いとして出される餅。

臨時奉幣の日に暴風を止める

臨時奉幣の日、醍醐天皇が紫宸殿に出御すると風が吹いていた。笏をとって沓を履き、神を拝そうとするといよいよ風が強くなり、ほとんどの屏風が倒れた。だが、天皇が「なんと見苦しい風だ。神を拝し奉ろうという時にどうしてこのような風が吹くのだろうか」と言うと、風はすぐに止んだ。(『古事談』)

地獄から蘇生した源公忠の報告によって改元する

源公忠が突然息絶えて、三日後に生き返った。公忠は家の者に「参内する」と言ったが、家人は冗談だと思った。しかし、何度もしつこく言うので、人に支えられて参内した。醍醐天皇は驚き、慌てて公忠に会った。公忠が奏して曰く「息絶えた後、気がつくとあの世におりました。門前に一人、冥官と思しき者がいて、一丈余りの紫袍を着ておりました。その者は金色の文挟に書状を捧げて『延喜の聖主(醍醐天皇)の行いは心中穏やかでない』と訴えた。堂上には朱紫の衣を纏った者が三十人余りいて、その中の第二座の者が笑って『延喜の主はすこぶる荒涼なお方だ。改元でもすべきか』と言っていました。それから、夢でも見ていたかのよう目が覚めました」ということだった。このことによって、ただちに延長と改元された。(『古事談』)

小野篁は冥界の第二冥官といわれている。(『江談抄』)

生前の悪行によって地獄で罰を受ける

天慶三年(940)、道賢上人は世の中の災難を救うために金峯山の奥深くに入り、無言で断食をしたまま修行を行ったが、喉の渇きによって絶命した。道賢の霊魂は太政天菅原道真に出逢い、日蔵と改名させられる。
それから日蔵は地獄で責め苦を受ける醍醐天皇とその廷臣に遭遇した。醍醐天皇は生前犯した数々の大罪によって、鉄窟苦所で苦しんでいるのであった。

道賢上人、地獄で責め苦を受ける醍醐天皇に遭遇する

『道賢上人冥途記』は道賢上人が修行中に倒れ、日本への復讐を企む菅原道真や地獄で罰を受ける醍醐天皇に遭遇し、再び現世に戻ってくる説話。『扶桑略記』にも同様の記述がある。 『扶桑略記』の記述は『道賢上人冥 ...

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朱雀天皇

できごと時期年齢
誕生延長元年(923)7月24日
立太子延長三年(925)10月21日3歳
即位延長八年(930)9月22日8歳
元服承平七年(937)1月4日15歳
退位天慶九年(946)4月13日24歳
出家天暦六年(952)3月14日29歳
天暦六年(952)8月15日29歳

説話

政治とは琴を扱うようなものだと語る

藤原忠平が朱雀天皇の御前に参上したとき「世間では、帝は大変寛大なお方だと言われております」と申し上げた。すると、天皇は「亡きおとど(藤原基経)に言われた、と先代(醍醐天皇)が仰っていたのは『世の政は琴を扱うようなものだ』と。太い糸をきつく張りすぎれば、細い糸は切れてしまう。私が厳しくすれば世の中はどうなってしまうのだろう」と言った。(『古事談』)

村上天皇

説話

聖帝の例えとして名前を挙げられる

醍醐天皇とともに日本の聖帝として挙げられている。(『大鏡』)

菅原文時と漢詩比べ

村上天皇は漢詩を嗜んでおり、ある時「宮の鶯暁に囀る」という題で詩を作った。その詩は「露濃緩語園花底 月落高歌御柳陰」とあった。天皇は菅原文時を召してこの詩を詠み、文時ももまた同じ題で詩を作った。その詩は「西楼月落花間曲 中殿燈残竹裏声」とあった。天皇は文時の詩を称賛して、自分の詩について遠慮なく評価するように言った。文時は自分より天皇の詩の方が優れていると言った。すると、天皇は「文時がはっきり言わないなら、今後文時の申すことは奏上するな」と言った。文時は天皇よりも自分の詩の方が一段上だと答えて逃げ去った。天皇は感心して褒め讃えたという。(『今昔物語集』巻24第26話)

藤原師尹の娘芳子を寵愛する

藤原師尹の娘藤原芳子は容貌が麗しく綺麗な長い黒髪で、その上目尻が少し下がった愛らしい顔だった。村上天皇は芳子をたいそう寵愛して「生きての世 死にてののちの 後の世も 羽を交わせる 鳥となりなん」という和歌を詠んだ。それに対し、芳子は「秋になる 言の葉だにも 変はらずは 我もかはせる 枝となりなん」と返した。
ある時、芳子が『古今集』を暗記していると聞いた天皇は、本当かどうか試してみようと思って『古今集』を隠した。そして、芳子に次々と和歌の上の句だけを言葉にして下の句を問うたが、芳子は一つも言い間違えなかった。
また、天皇は笙の琴を得意としており、芳子にも丁寧に教えていたので、いよいよ寵愛は深くなった。
しかし、皇后安子は芳子にひどく嫉妬しており、安子が亡くなった際に天皇は芳子を寵愛したことを後悔して申し訳なくなり、芳子への寵愛は減ったと噂された。(『大鏡』)

村上天皇の中宮・藤原安子

藤原師輔の娘安子を寵愛する

村上天皇の后安子は少々意地悪で嫉妬深い性格であった。天皇が安子の部屋を訪ねた夜のこと、格子を叩いても開かなかったので、殿上童に開いている所を探させた。細殿の出入り口だけがほんの少しだけ開いていたので、童が事情を話したところ、笑い声が聞こえた。天皇はいつものことだと帰っていった。
ある時、安子は女御藤原芳子への嫉妬が抑えきれなくなって、中仕切りの壁に穴を開けて中を覗くと、芳子のとても愛らしい容貌が見えた。いよいよ妬ましく思った安子は、女房に土器の欠片を投げつけさせた。しかし、ちょうどそこに天皇が居合わせていたので、安子の兄弟の伊尹・兼通・兼家の仕業だと思い、三人は勅勘を受けて謹慎処分となった。安子はひどく立腹し、女房を介して天皇に自分の部屋に来るように言ったが、天皇は来なかった。すると、安子は何度も使いを行かせて催促した。仕方なく天皇が安子の部屋へ向かうと、安子は兄弟たちの勅勘を解くよう要求してきた。天皇は三人の勅勘を解き、帰参させた。(『大鏡』)

安子の寛容な一面

村上天皇には安子のほかに芳子という女御を寵愛していた。芳子はとても見目麗しい美貌であったので、安子の嫉妬心はおさまらなかった。しかし、男女間の問題以外には思いやりのある一面もあった。安子は殿上人から下々の女官に至るまで、どのような時も気にかけて面倒を見ていた。兄を親のように頼り、弟を我が子のように可愛がる情の深い人であった。そうであったから、安子が亡くなったとき、人々はみな悲しんだ。天皇が政について安子に相談した際、安子は人々が悲しむようなことは止め、喜ばしいことは勧めたという。(『大鏡』)

皇后安子の死を悼む

村上天皇の皇后安子は、第十皇女選子を出産した際に亡くなった。天皇はひどく嘆き悲しんだという。(『大鏡』)

冷泉天皇

説話

紫宸殿において即位の儀を行う

冷泉天皇の即位は内裏の紫宸殿において行われた。もうし大極殿で行われたら、きっと見苦しいことになっただろう。藤原実頼公の高名はまさにこのことだ。(『古事談』)

円融天皇

説話

大堰川逍遥を行う

寛和二年(986)10月、大堰川逍遥のとき、円融院は船に乗って戸無瀬に着いた。管弦・漢詩・和歌の船をそれぞれ用意した。藤原公任が三船に乗ったのはこのときである。
また、摂政藤原兼家は管弦の船を召し、大蔵卿源時中が参議を命じられたと言った。「主上(一条天皇)の御前でなく、法皇(円融院)の仰せで参議を命ずるのはいかがなものか」と多くの人々が首をかしげたという。(『古事談』)

円融法皇の崩御に際して藤原朝光・藤原行成が和歌を詠む

円融法皇が崩御なさったとき、紫野で御葬送があったが、先年この地で子の日行幸をしたことなどを思い出して人々が嘆き悲しんでいたところへ藤原朝光が「紫の 雲のかけても 思ひきや 春の霞になして 見むとは」と詠んだ。
また、藤原行成は「遅れじと 常のみゆきに 急ぎしに 煙にそはぬ 旅のかなしさ」と詠んだ。(『今昔物語集』巻24第40話)

花山天皇

説話集

即位の日に御帳を上げ下げする役の内侍と寝る

花山天皇が即位する日、高御座の帳を上げ下げする役として馬内侍が参上した。天皇は彼女を高御座の中に引き入れ、たちまち交わった。(『大鏡』)

殿上人の冠を取る

花山天皇はしばしば殿上人の冠を取り上げることがあった。ある時、藤原惟成も冠を取られ、関白藤原頼忠が参内したときに冠を着けないでいた。頼忠がどうしたのかと尋ねると、惟成は「帝に召されたので」と答えた。頼忠が見苦しいと奏上したので、それ以降、天皇が惟成の冠を取ることはなかった。(『古事談』)

賀茂祭で闘乱が起こる

藤原道長が賀茂祭見物のために桟敷の席に座っていると、突然花山院一行との闘乱が起こった。花山院はなかなか下手人を差し出さないので、道長は検非違使の下僕に命じて院御所の花山院の築地堀を登らせた。花山院はこれを恐れて、下手人を差し出した。(『古事談』)

長徳三年(997)4月16日、花山院の手の者が藤原公任・斉信の車を襲撃した。(『小右記』)

花山院の出家

このとき、安倍晴明は出家に向かう途中の花山天皇を目撃し、式神一人を参内させることにした。

花山院の出家
寛和の変(花山天皇の退位・出家)~出家の途中で安倍晴明の家の前を通りかかる

寛和かんなの変とは、寛和二年(986)6月23日に起こった花山天皇の退位・出家事件である。『古事談』では、寵愛していた弘徽殿の女御の死を悲しんでいたところへ藤原道兼が出家を勧めてきたとされている。しか ...

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一条天皇

説話

藤原兼家に抱っこされる

一条天皇が幼い頃、夏の公事の日、公卿たちが紫宸殿の北にある仁寿殿との露台を往来し、紫宸殿の北の戸を開いて涼しい風を入れていた。当時摂政だった藤原兼家は天皇を抱き上げて、紫宸殿の脇戸から差し出した。公卿たちはかしこまり、公卿たちはみなかしこまった。密かに「このようなやり方はあんまりだ」と囁きあった。(『古事談』)

寒い夜に敢えて直衣を脱ぐ

寒い夜の日、一条天皇は敢えて寝具として掛ける衣をよけて寝ていた。上東門院(藤原彰子)が「なぜそのようになさるのですか」と尋ねると、天皇は「民がみな寒がっているのに、私一人だけがこのように暖かくして寝るのはよくない」と答えた。(醍醐天皇の言葉という説もある)(『古事談』)

亡き皇后定子を恋しく想い、嘆き悲しむ

また、一条天皇の在位中、皇后藤原定子が亡くなった後、御座所の帳の紐に手紙が結び付けられていた。ある人がこれを見つけて、天皇のご覧に入れた。そこには「よもすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき」「知る人も なき別れ路に いまはとて 心細くも 急ぎたつかな」という和歌が書き記されていた。天皇はこれを見てこの上なく定子を恋しく想い、悲しんだという。(『今昔物語集』巻24話第41話)

後一条天皇

説話

一条天皇の没後になでしこの花を摘む

一条天皇が崩御なさった後、まだ幼かった後一条天皇はなでしこの花を無心に摘んでいた。母后の藤原彰子はそれを見て「見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ なでしこの花」と詠んだ。これを聞いた人々はみな涙を流した。(『今昔物語集』巻24第41話)

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