平安時代

平安貴族(藤原氏)がどんな人だったか分かるエピソード集

平安時代の貴族(藤原氏)の人物像がわかるエピソードを古記録(『小右記』『権記』『御堂関白記』など)、説話集(『今昔物語集』『大鏡』など)に分類しています。五十音順で表示しています。

藤原兼家

説話

藤原実資には礼儀正しく振る舞う

一条天皇の御代、藤原兼家は職の御曹司に住んでいた。参内するときは、烏帽子に襟首の紐を解いた状態で玄輝門から入り、飛香舎の宮で改めて冠を着け、清涼殿に参上した。このようにして参内するとき、門の辺りで当時蔵人頭だった藤原実資と出くわした。深く頭を下げたが、跪かれなかった。兼家は襟元を正して返礼された。(『古事談』)

兼家の娘が庚申の夜に亡くなる

藤原兼家の娘は、庚申の日の夜に脇息にもたれかかったまま息を引き取ったので、その一門では女房の庚申待ちをしなくなった。(『古事談』『富家語』)

藤原公任

説話

東三条殿の立后について失言を放つ

天元五年(982)3月11日癸卯、公任の妹遵子が中宮に冊立されて初めて入内するとき、藤原兼家の東三条殿の前を通りかかった。兼家と詮子は遵子に后を追い越されて苦々しく思っていた。公任は東三条殿の門の前で馬を止め「この東三条殿の女御は、一体いつになったら后にお立ちになるのでしょうな」と中を覗き込むようにして言った。兼家たちは心中穏やかでなかったが、詮子には懐仁親王(後の一条天皇)がいたので我慢した。その後、一条天皇が即位すると詮子が皇太后に冊立された。入内する途中で、詮子の女房は公任に「子を産まない妹君はどちらにいらっしゃいますか」と問うてきた。公任は先年の失言を反省しており、このように酷いことを言われるのももっともだと答えた。(『大鏡』)

三船の才

藤原道長が大堰川で舟遊びを催したとき、漢詩の船・音楽の船・和歌の船と三つに分けてそれぞれの道に優れている人を乗せた。公任は和歌の船にのって「小倉山 嵐の風の 寒ければ みぢの錦 着ぬ人ぞなき」という和歌を詠んだ。後日、公任は「漢詩の船に乗っていれば、もっと名声が上がっただろうに。道長公がどの船に乗るのだと聞いてきたとき得意にならずにいられなかった」と述懐した。(『大鏡』)

屏風の色紙形に書く和歌を詠んで感動される

一条天皇の御代、藤原彰子が初めて参内したとき、屏風を新調して歌人たちに色紙形へ書き入れるための和歌を奉るように命じた。藤原公任は四月の藤の花が美しく咲いた家を描いた屏風の一帖を担当することになった。当日、他の人々はみな和歌を持参してきたが、公任はなかなか参内してこなかった。道長が使いを出して何度も催促したが、和歌を書く役を務める藤原行成が早くから参内しており、いつでも屏風に書ける準備をしていたので、道長はそわそわして落ち着かなかった。皆が期待しているところへ公任が参上し、道長になぜ遅かったのか問われると、よい歌が詠めないのだと答えた。しかし、道長にしつこく催促されたので、公任は懐から陸奥紙に書き記した和歌を取り出して道長に渡した。道長が御前で和歌を開くと、藤原頼通や藤原教通をはじめとして大勢の上達部・殿上人が集まってきた。そこには「紫の 雲とぞ見ゆる 藤の花 いかなる宿の しるしなるらむ」とあった。その場にいた人々はみな「素晴らしい歌だ」と感動した。公任もそれを聞いて安心したと道長に話した。公任は何事にも優れていたが、中でも和歌を詠むことにおいては常に自讃していたという。(『今昔物語集』巻24第33話)

藤原彰子の入内:長保元年(999)11月1日入内。

いろいろな和歌を詠む

藤原公任が春頃に白河の家にいたとき、然るべき殿上人が四、五人ほど訪ねてきた。彼らは「花がたいへん美しく咲いているので、見に参りました」と言ったので、酒などを勧めて遊んでいたとき、公任は「春来てぞ 人もとひける 山里は 花こそ宿の あるじなりけれ」という和歌を詠んだ。殿上人たちは感動したが、公任の和歌と比べられるような歌を詠めるものはいなかった。
また、公任は父の藤原頼忠が亡くなった年の九月半ばのある夜、月がとても明るいので、夜が更けていく頃に空を眺めていると侍の詰所の方から「ほんとうに明るい月だなあ」と言う声が聞こえた。公任は「いにしへを 恋ふる涙に くらされて 朧にみゆる 秋の夜の月」と詠んだ。
また、九月頃に月が雲に隠れているのを見て、公任は「澄むとても 幾夜も過ぎじ 世の中に 曇りがちなる 秋の夜の月」と詠んだ。
また、公任が宰相中将だった頃、然るべき上達部・殿上人を大勢連れて大堰川へ遊びに行き、紅葉が川の井関に留まっているのを見て「落ち積もる 紅葉を見れば 大堰川 井関に秋は とまるなりけり」と詠んだ。
また、公任の娘は藤原教通の北の方であったが、雪の降った朝、公任は「降る雪は 年とともにぞ 積もりける いづれか高く なりまさるらむ」という和歌を送った。
また、公任が世の中を恨んで家にこもっていたとき、八重菊を見て「押し並べて 咲く白菊は 八重八重の 花の霜とぞ 見え渡りける」と詠んだ。
また、出家する人が大勢いた頃、公任は「思ひ知る 人もありける 世の中に いつをいつとて 過ごすなるらむ」と詠んだ。
また、藤原頼通が大饗を催した時、屏風に山里へ紅葉を見に訪れている人が描かれていたのを見て、公任は「山里の紅葉見にとか思ふらむ 散り果ててこそ 訪ふべかりけれ」と詠んだ。(『今昔物語集』巻24話第34話)

藤原頼忠の没年:永延三年(989)6月26日。

藤原伊尹

藤原実方

説話

和歌の名手として知られる

一条天皇の御代、藤原実方は思いがけず陸奥守に任ぜられてその国に下ることになった。実方は無二の親友でともに宮中に仕えていた源宣方に「やすらはで 思ひ立ちにし 東路に ありけるものを はばかりの関」という和歌を送った。
また、道信中将という人も実方とはこの上ない親友であった。九月頃に紅葉を見に行く約束をしていたのだが、道信は思いがけず亡くなってしまった。実方はこの上もなく悲しみ、泣く泣く独り言に「見むと言ひし 人は儚く 消えにしを ひとり露けき 秋の花かな」と詠んだ。
また、実方は可愛がっていた幼子に先立たれてしまった頃、ある夜の夢にその子が現れた。驚いてはっと目が覚めた後、実方は「うたたねの この世の夢の 儚きに さめぬやがての 命ともがな」と泣く泣く詠んだ。
実方は和歌の名手であったが、陸奥国に下って三年目に亡くなったという。(『今昔物語集』巻24第37話)

藤原実方の没年:長徳四年(998)12月13日。

賀茂臨時祭の試楽で冠に呉竹の枝を挿す

一条天皇の御代、賀茂臨時祭の試楽が行われたとき、藤原実方中将は遅刻してきたので冠に挿す花を受け取ることができなかった。後から舞に加わるとき、実方は竹台に歩み寄って呉竹の枝を折り、花の代わりに冠に挿した。人々はみな実方を見て優美だと感嘆した。このことがあってから、試楽のときに頭に挿すのは花ではなく呉竹を用いるようになった。(『古事談』)

藤原実方が中将だった時期:正暦二年(991)~正暦六年(995)。

藤原実資

説話

藤原実頼の名前が由来

藤原実資の名前「実資」は、藤原実頼が自身の名前から「実」の字をとって「実資」と名付けたという。(『大鏡』)

豪華な邸宅

実資の寝殿の東南には立派な御堂が建てられており、廻廊はすべて供奉僧の部屋にあてられた。御堂への道には四季折々の花や紅葉を植えて趣深い造りにしており、池を渡っていくこともできる。御堂には金色の仏像がたくさん置かれており、常に御供米三十石が供えられている。給湯所には大きな二つの釜が置かれ、煙が立ち上らない日はない。毎日、七、八人の大工たちが実資の邸宅を綺麗に手入れしている。手斧の音がする場所は、奈良の東大寺と実資の邸宅だけだという。(『大鏡』)

相撲の抜出の際に御剣を持っていた左大臣雅信に指摘する

一条天皇の御代、永延年間の頃、相撲の抜出の日、天皇が還御されるときに左大臣雅信が御剣を持ち、右大臣為光が璽筥を持った。そこへ、前頭中将藤原実資が「正月の内宴や臨時の儀式で(天皇が)輿に乗られるとき、大臣の大将が御剣をお持ちして付き従った例はある。だが、大将を兼ねていない大臣が御剣をお持ちした例はないのではないか」と指摘した。しかし、摂政藤原兼家はこれでいいのだという様子であった。(『古事談』)

養子を摂津守にする

後一条天皇の御代、小野宮右府藤原実資が除目の執筆を務めたとき、関白藤原頼通に「村上天皇の御代であった天暦の生まれである旧臣実資が、摂津国の欠員に立候補いたします。村上天皇から後一条天皇まで七代に渡ってお仕えしたことを深く考慮していただきたく存じます」と申し上げた。天皇からお許しをいただくと、実資は「国司には猶子資頼をあてます」と言って、すぐに名前を書き入れた。(『古事談』)

藤原実頼

説話

大饗で贈られた立派な細長

藤原実頼が大饗を催したとき、藤原師輔が主賓として出席した。
その時の贈り物として受け取った女性の装束に添えられていた、きぬたで打った紅色の細長を心ない従者が受け取り損ねて遣水に落としてしまった。従者が慌てて細長を取り上げて振ると、水が散って乾いた。しかし、濡れた方の袖を見ると、濡れなかった方の袖と見比べてもまったく同じようにきぬたで打った跡が残っていた。これを見た人は、打物を褒めたたえた。(『今昔物語集』巻24第3話)

藤原敦忠とともに桜を鑑賞する

藤原実頼が左大臣だった三月中旬の頃、実頼は政務のために参内して陣座にいた。そこへ上達部が二、三人ほど来て座った。
紫宸殿の御前の桜の木が枝も庭を覆うほどに美しく咲き乱れて、花びらが庭一面に積もっていた。その花びらが風に吹かれてまるで水面の波のように見えるのを、実頼が「なんと美しい桜であろうか。土御門の中納言(藤原敦忠)が参内してくればよいのに、この景色を見せたいものだ」と言うと、遥か向こうから上達部の先払いの声が聞こえた。実頼が官人に誰が参るのか問うと、ちょうど敦忠が参るのだという。実頼が喜んでいると、すぐに敦忠がやって来た。敦忠は実頼から和歌を薦められて「主殿の 伴造 心あらば この春ばかり 朝ぎよめすな」という和歌を詠んだ。実頼はたいそう和歌を褒め讃えて、返歌が見劣りしたら長く汚名を残すことになると言って旧い歌を詠んだ。(『今昔物語集』巻24第32話)

娘の死を悲しむ

朱雀院の女御は藤原実頼の娘だったが、はかなく亡くなってしまった。
この女御を慕っていた助という女御がいたが、常陸守の妻になってその任国に下ってしまった。ある時、女御に見せようと思って、美しい貝殻を拾い集めて一箱に納めて京に上った。ところが、女御が亡くなったと知って泣き悲しんだ。
しかしながら、どうしようもなくて、その貝一箱を「御誦経のお布施にしてください」と言って実頼に渡した。
貝の中には、助が詠んだ「拾ひおきし 君も渚の うつせ貝 いまはいづれの 浦によらまし」という和歌が入っていた。実頼は涙に咽びながら「玉くしげ うらみうつせる うつせ貝 君がかたみと 拾ふばかりぞ」と返歌をした。この話を聞いて涙を流さない人はいなかったという。(『今昔物語集』巻24第42話)

藤原斉信

説話

道長の妻倫子の屏風に書き入れる漢詩を選定する

藤原道長の妻倫子の屏風の色紙形に書き入れる漢詩を、その道に優れている博士たちに命じて詩を作らせた。藤原斉信は勅命を受けて漢詩を選定したが、文章博士藤原資業の漢詩が多数選ばれたのを藤原義忠は気に食わなかったのだろうか、藤原頼通に「資業の作った漢詩は極めて異様な詩でございます。よろしくない点がたくさんあります。しかし、資業は受領であることによって大納言(斉信)は賄賂を受け取って選んだのです」と申し上げた。このことを人づてに聞いた斉信は腹を立て「これらの詩はみな美しい句であるため、選定した理由について私情を挟んではいない」と申した。頼通は義忠を召して厳しく咎めたので、義忠は恐れをなして引きこもってしまった。翌年の三月になって、ようやく許された。義忠はある女房を通して頼通に和歌を奉った。「青柳の 色の糸にて 結びてし 恨みをとかで 春の暮れぬる」という歌だったが、特に返事はなかった。(『今昔物語集』巻24第29話)

藤原為時

説話

国司への申請書類の句が称賛されて越前守に任命される

一条天皇の御代、藤原為時は式部丞を務めた功績によって受領になりたいと願い出たが、除目の時に欠員のある国がなかったので任命されなかった。翌年、除目の修正が行われた日、為時は文章博士ではないものの極めて文才があったので、内侍を介して申文を天皇に奉った。その中に「苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼(苦学の寒夜、紅の涙が袖を濡らす。除目の朝、蒼天眼に在り)」という句があった。しかし、天皇はすでに眠りについていたので見ることはなかった。
当時関白だった藤原道長は除目の修正を行う際に為時のことを奏上したが、天皇は申文に目を通していなかったので、返答はなかった。道長が女房に事情を尋ねると、天皇は寝ていたので申文を御覧にならなかったということだった。道長は申文を探し出して天皇に見せた。申文の中にあった句の素晴らしさに感心した道長は、自分の乳母子であった藤原国盛が任ぜられるはずであった越前守を止めさせて、急にこの為時を越前守にした。(『今昔物語集』巻24第30話)

古事談

天皇は為時の申文を見ると食事も喉を通らず、御寝所で泣き臥していた。天皇の様子を知った道長は国盛に越前守を辞退する旨の書状を書かせ、為時を越前守にした。国盛は傷心のあまり病を患い、亡くなった。

『日本紀略』長徳二年(996)1月28日条に「越前守国盛を止めさせて淡路守為時を越前守に任じた」とある。

藤原済時

説話

気難しい性格

済時は父師尹よりも気難しい性格で見栄っ張りだという評判だった。済時の妹芳子が村上天皇に琴を教えられていたとき、済時も御前に伺候していたのだが、いつの間にか自分も琴の名手になったと思っていたが、実際には少ししか弾けなかったので、もったいぶった人だと非難された。
また、人からの進物は寝殿の前庭に並べて、夜になると贄殿の中にしまった。これは、我が家には進物が絶えないことを見せつけるためだったという。(『大鏡』)

大饗において永平親王に接待させて大恥をかく

済時は甥の永平親王に大饗を開かせて、公卿たちの接待役を務めさせた。その日は朝廷の行事がある日だったので、参列した公卿たちは急いで退出しようとした。永平親王は引き止めようとするも言葉が出てこず、乱暴に人々の袖がちぎれるほど引っ張った。その場にいた人々はみな薄笑いしながら退出していった。済時は、心の病を抱えていた永平親王に接待役を務めさせたことを悔やんだ。(『大鏡』)

藤原道長

説話

人々が道長を恐れて物陰に隠れる

藤原伊周が出仕するとき、公卿たちは最敬礼した。また、藤原道長が出仕するときは、みな道長を恐れて物陰に隠れた。このような光景は、大納言藤原経任が元服前のときによくみられた。(『古事談』)

故一条院の書き残した字が書かれた手紙を破り捨てる

一条院が崩御された後、御手習の書き損じたものが御手箱に入っていたのを道長が見てみると「叢蘭欲茂秋風吹破 王事欲章讒臣乱国(草むらに生い茂る蘭が伸びようとすると、秋の風に吹かれて枯れてしまう。王道を貫こうとすれば、讒言する臣下が国を乱すのだ)」と書かれていた。自分のことだと思った道長は、紙を破り捨てた。(『古事談』)

敦儀親王を罵る

三条天皇の御代、藤原道長が参内して申請したことを天皇は認めなかったので、道長は怒って退出した。天皇は敦儀親王に道長を呼び戻しに向かわせたが、親王は小坂敷に立ったまま天皇の勅勘の旨を告げた。道長は戻ってきて「このような出来の悪い方々が小坂敷に立ったまま摂関を召すのか」と言った。藤原経任の説では、道長は戻ることなく親王たちを罵って退出したという。(『古事談』)

藤原師輔

説話

百鬼夜行に遭遇する

いつ頃のことかはわからないが、藤原師輔が夜更けに宮中から退出して二条大宮のあわわの辻の辺りまで来たところで、突然牛車の簾を上げて御車副に轅を下ろすように命じた。随身たちが何事かと思って車の側に寄ると、師輔は車の下簾を引き下ろし、笏を持ったままうつ伏せになっていた。その様子は、まるで高貴な人に対してかしこまっているかのようであった。そして、一心不乱に尊勝陀羅尼を読誦した。

半刻ほど経ってから、師輔は簾を上げて再び車を進ませた。しかし、随身たちには何があったのかさっぱりわからなかった。しばらく後になって親しい人々にだけ話したものの、奇妙な事件であったゆえに自然と世の中に広まっていったのだろう。(『大鏡』)

藤原元方の怨霊に祟られる

藤原元方の孫が皇太子だったころ、帝が庚申待ちをしていたところへ、元方が参上した。他にも、藤原師輔をはじめたくさんの人々が伺候して、双六を打っていた。その頃は冷泉院が胎児だった時期で、それでなくでも世の人々は如何なものかと思っていたところへ、師輔が「さあ、今宵の双六遊びをしよう」と言うやいなや、「身ごもられている子が男子ならば、ぞろ目の六が出てこい」と言ってさいころを振ったところ、六の目が出た。その場にいた人々はみな目を見合わせて、素晴らしいことだと持て囃した。師輔は自分でも我ながらすごいと思っていたところ、元方の顔色がたいそう悪くなって真っ青になってしまった。そうして、後に元方は霊となって師輔の前に現れ「あの双六遊びの夜、心が深く傷ついてしまったのだよ」と言った。(『大鏡』)

奇妙な夢を見たことを女房に話す

藤原師輔は、こうしたいと望んで叶わなかったことなどなかった。ただ、若い頃に「夢で、私は朱雀門の前で東西の大宮大路を跨いでおり、北を向いて宮城を抱きかかえて立っていた」と話した。それを聞いた女房は「それはまあ、さぞお股が痛かったでしょうね」と申した。後に師輔の曾孫にあたる藤原伊周が配流されたのは、この夢のせいであったという。とても縁起のよい夢でも、人に話してしまうとその吉凶が変わってしまうのだ。(『大鏡』)

父忠平に歌を贈るため、紀貫之の家を訪問する

ある年の元日、参賀の礼服として身につける魚袋が壊れていたので、師輔は父忠平に「魚袋を修繕させているので、宮中に参上するのが遅くなる」と申し上げたので、忠平は自分の魚袋を取り出して師輔に渡した。

師輔はお礼の歌を詠もうとしたが、紀貫之に代詠させるのがよいだろうと思い、貫之の家を訪ねた。その時、貫之が詠んだ歌は「吹く風に 氷溶けたる 池の魚 千代まで松の 影に隠れん」というものだった。貫之はこの歌を自分の歌集にも入れたという。(『大鏡』)

『紀貫之集』によると、天慶六年(943)1月1日庚辰の出来事である。

亡霊となって冷泉天皇を護る

冷泉天皇は物の怪に取り憑かれていたが、大嘗会の御禊のときだけは立派に行幸なさっていた。それは、亡き師輔の霊が天皇を守護していたからだという。しかし、元方の怨霊は前世の応報であったため追い払うことはできなかった(『大鏡』)

藤原師尹

説話

讒言によって源高明を左遷させたと噂される

源高明が左遷された安和の変は、師尹の讒言によって起きたと世間では噂されていた。師尹が左大臣に昇進してまもなく亡くなったのは高明の怨念によるものだという。(『大鏡』)

藤原保昌

説話

大盗賊袴垂に遭遇する

十月頃、大盗賊袴垂は衣服が必要になったので、少しばかり手に入れようと思ってありそうな場所を探し回った。人々が寝静まった真夜中頃、衣を何枚も着込んで笛を吹きながらぶらぶら歩いている人がいた。袴垂は「この我に着物をくれるために現れたようなものよ」と喜んで、走りかかって衣を剥ぎ取ろうと思ったが、不思議ともの恐ろしくなって、その人の後をつけていった。二、三町ほど歩いていくが、笛吹きはつけられていることに気づく様子もなく、静かに笛を吹きながら歩いていく。袴垂が駆け寄るも、笛吹きは少しも驚く様子もなく、笛を吹きながら後ろを振り返ったさまは、取りかかれそうにもなかったので急いでその場から走り去った。こうして、袴垂は何度か近づいたり遠のいたりしたが、笛吹きは少しも動じなかったので「稀有な者だ」と思って十余町ほどついていった。
そうはいっても、引き下がれない袴垂は刀を抜いて笛吹きに切りかかった。すると、笛を吹くのをやめて振り向きざまに「おまえは何者だ」と問うた。袴誰は心も肝も失せて死んでしまうのではないかというほどの衝撃を受けて思わずひざまずいてしまった。袴垂は「追い剥ぎです。名は袴垂と申します」と答えた。笛吹きは「そのような者が世にいるとは聞いていたぞ。共に参れ」と言って、再び笛を吹きながら歩いていった。
袴垂は笛吹きの様子を見て「並々ならぬ者だ」と恐れおののいて、鬼神に取り憑かれたようについていったが、笛吹きは大きな屋敷の門に入っていった。沓を履いたまま縁の上に上がったのを見て袴垂が「この家の主人だったのだ」と思っていると、笛吹きが出てきて、袴垂を呼び寄せた。綿が厚く入った衣を一着渡して「これからも、このようなものが必要な時は参って申せ。得体の知れぬ者に襲いかかってひどい目に遭うなよ」と言って、中に入っていった。
その後、この家は藤原保昌の屋敷だと知って、袴垂は恐ろしくなって生きた心地がしなかった。
その後、袴垂は捕まえられたとき「気味が悪く、恐ろしい人だった」と言った。(『今昔物語集』巻25第7話)

藤原行成

説話

円融法皇の崩御に際して和歌を詠む

円融法皇が崩御なさったとき、紫野で御葬送があったが、先年この地で子の日行幸をしたことなどを思い出して人々が嘆き悲しんでいたところへ、藤原朝光が和歌を詠んだ。
藤原行成は「遅れじと 常のみゆきに 急ぎしに 煙にそはぬ 旅のかなしさ」と詠んだ。(『今昔物語集』巻24第40話)

藤原義孝

藤原伊尹の子。

説話

没後に夢の中に現れて和歌を詠む

藤原義孝は容貌・人柄をはじめ、気立ても才能もすべて人より勝っていた。また、仏教への信仰も厚かったが、とても若くして亡くなったので、親しかった人々は嘆き悲しんだがどうすることもできなかった。
ところが、亡くなって十ヵ月ほど経ってから賀縁という僧の夢の中に義孝が現れた。義孝は心地よさそうに笛を吹いているように見えたが、実はただ口笛を吹いていただけだった。賀縁は「お母様があれほど寂しがっていらっしゃるのに、どうしてそのように気持ちよさそうにしているのですか」と尋ねた。義孝は「時雨には 千草の花ぞ 散りまがふ なにふるさとの 袖濡らすらむ」と詠んだ。賀縁は夢から覚めて涙を流した。
また、翌年の秋、義孝の妹の夢の中に義孝が現れた。義孝は「着て慣れし 衣の袖も 変わらぬに わかれし秋に なりにけるかな」と詠んだ。
妹は夢から覚めて、ひどく泣いた。
また、義孝がまだ病を患っていたとき、妹の女御は義孝が「お経を最後まで読みたいから、私が死んでもすぐには葬らないでくれ」と言っているうちに亡くなってしまったので、この言葉を忘れて亡骸を葬ってしまった。その夜、夢の中に少々が現れて「しかばかり 契りしものを わたり川 反るほどには 忘るべしやは」と詠んだ。
和歌を詠む人は、亡くなった後に詠んだ歌もこのように素晴らしいものなのだという。(『今昔物語集』巻24話第39話)

藤原頼忠

説話

賀茂詣において検非違使の随行と随身の配置を決める

昔は、大きな儀式のときだけ近衛司の番長が左右に一人ずつついていくだけで、寂しい行列であった。それを、頼忠は賀茂詣において検非違使を車の後ろにつかせ、馬に乗った随身を左右にそれぞれ二人ずつ、合わせて四人を配置しはじめた。(『大鏡』)

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