石橋山の戦いは、治承四年(1180)8月に相模国足柄下郡の石橋山で源頼朝率いる源氏方が平家方に敗れた戦い。
経過
大庭景親が出陣
治承四年(1180)8月23日寅の刻、頼朝は北条時政父子・安達盛長・工藤茂光・土肥実平以下の三百騎を率いて相模国石橋山に陣を構えた。
頼朝の旗の横上に以仁王の令旨が付けられ、中原惟茂がそれを持っていた。
同じく、相模国の住人である大庭景親・俣野景久・河村義秀・渋谷重国・糟屋盛久・海老名季貞・曽我助信・滝口経俊・毛利景行・長尾為宗・長尾定景・原景房・原義行・熊谷直実ら平家に仕える者たち三千余騎が石橋山の辺りに陣を構えていた。
両陣の間はひとつの谷で隔てられていた。
伊東祐親は三百余騎を率いて頼朝の陣の背後の山に陣を構えて、頼朝を襲おうとしていた。
三浦義澄をはじめとする武士たちは数人の兵を率いて三浦を出発し、夜になると丸子川の辺りに泊まった。
そして、郎従らに景親たちの家屋を焼失させた。
この時の煙が空半分を覆うほど立ち上り、これを見た景親は三浦の者たちの仕業だと知った。
景親は軍議を開き、三浦の者たちが頼朝の軍勢に加わる前に合戦を始めてしまおうということになった。
数千騎の軍勢が頼朝の陣に襲いかかった。
頼朝のために命を惜しまなかった武士たちが次々と命を失った。
頼朝が杉山の中に逃げていったので、景親は後を追って矢を放った。
そこに、飯田家義という者がいた。
彼は頼朝の軍に加わりたかったが、景親の軍勢が道に連なっていたために不本意ながらも景親の陣にいたのだった。
家義は頼朝を逃れさせるために自分の家来のうち6人を景親の軍と戦わせ、頼朝を逃した。
その間に頼朝は杉山に入った。(『吾妻鏡』同日条)
景親から逃れるために分散する
24日、頼朝は杉山の堀口付近で再び陣を構えた。
景親の軍勢が再び迫ってきたので、頼朝は後方の嶺に逃げた。
加藤景廉と大見実政が頼朝の後に残り、景親の行く手を阻んだ。
景廉の父加藤景員と実政の兄大見政光も残って防戦した。
その他加藤光員、佐々木高綱、天野遠景・光家、堀親家・助政らも防戦した。
頼朝もまた多くの兵を倒したが、矢が尽きたので景廉が頼朝の馬の轡を取って山深くに案内すると、そこへ景親の軍勢が迫ってきた。
高綱・遠景・景廉らが戻って防戦した。
北条時政・宗時・義時は景親の軍勢と戦って疲労困憊していたので、頼朝の後に付いていくことができなかった。
加藤景員・加藤光員・加藤景廉・工藤祐茂・堀親家・大見実政は時政と共に戦おうとしたが、時政は早く頼朝を探し出すように命じた。
景員たちが険しい道をよじ登ると、倒れた木の上に頼朝が立っていて、傍らには土肥実平が控えていた。
しかし、この人数で山に身を潜めるのは難しいので、やむを得ずそれぞれ分散し別行動を取ることになった。
この時、武士たちは悲しみの涙で目の前が見えないほどだったという。
飯田家義、頼朝の前に参上
一行が分散した後、家義が頼朝が合戦で落とした念珠を持って参上した。
日頃から肌身離さず持ち歩いていたものだったので、頼朝は再三に渡って感謝した。
家義はお供したいと申し出たが、土肥実平に諌められて泣きながら立ち去った。
工藤茂光、自害
北条時政と義時は箱根湯坂を通って甲斐国へ向かおうとしていた。
宗時は土肥山から桑原へ下り平井郷を通っていたところ、早河の辺りで伊東祐親の軍勢に囲まれ紀六久重に射取られた。
また、工藤茂光は歩けなくなり自害してしまった。
頼朝の陣から山谷を隔てた場所にあったのでどうすることもできず、頼朝の悲しみはとても深かったという。(『吾妻鏡』同日条)
梶原景時、頼朝を見逃す
景親は頼朝の後を追って峯や谷を探し回った。
梶原景時は頼朝の居場所を知っていたのだが、情に思うところがあって、この山に人が入った痕跡は見られないと嘘をついて傍らの峯に上っていった。
僧侶永実
8月24日の夜、時政は杉山にいる頼朝の陣に到着した。
箱根山の別当行実が弟の永実が時政のもとを訪れ、頼朝の動向を尋ねた。
時政が「まだ(大庭)景親の包囲から脱出できていない」と敗死を匂わせると、永実は「もし(頼朝が)亡くなっていたならば、あなたは生きていないでしょう」と言ったので、その洞察力に時政は大いに感心した。(『吾妻鏡』同年8月24日条)
そうして二人はともに頼朝の御前に参上した。
全員が飢えていたので、永実が持参した食事は千金に値したという。
実平の提案によって、合戦が落ち着いたら永実を箱根山別当に補任することになった。
頼朝は永実を連れて箱根山に到着した。
参考資料
- 関 幸彦「北条時政と北条政子―「鎌倉」の時代を担った父と娘」山川出版社、2009年
- 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年
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