寿永三年(1184)1月21日、平氏追討の方針を話し合うために院御所評定が開かれたが、三種の神器が平氏の手元にある以上、神器の返還を優先すべきだという主張も多かった。
評定の結果、26日に朝廷は頼朝へ平宗盛討伐の宣旨を発布、29日には頼朝へ義仲残党討伐命令が下され、公式に朝敵討伐を頼朝一人へ委ねることとなった。
頼朝の命を受けて源範頼・源義経は京を出発し、平氏が拠点を構える福原へ向かった。
平氏もまた、瀬戸内海地域における軍事的優位を背景に、2月4日清盛の三周忌を弔うため福原に入った。
三草山の戦い
範頼・義経の挟み撃ち作戦
寿永3年(1184)2月4日、平家は西海・山陰両道の兵数万騎を従え、一ノ谷に城郭を構え、兵士が続々と集まっていた。
5日酉の刻、源範頼・源義経が摂津国に到着した。
源氏側の戦術は東西からの挟み撃ちであり、範頼が西国街道から大手(福原の東方)、義経が東国街道から搦手(福原の西方)を攻めることになった。
7日卯の刻を合戦の時と決定し、範頼を大将軍として二万余騎が従った。
範頼・義経軍の動きを察知した平氏もまた、生田の森(福原の東の木戸口)に平知盛・平重衡を、西の木戸口にあたる一ノ谷に平忠度を向かわせ、平通盛に山の手を守らせて山からの攻撃に備えた。
『儒林拾要』(『雑筆要集』)
『儒林拾要』は鎌倉時代前期に成立した文例集である。
その内「追討使源朝臣」は六人の摂津国御家人(源留・遠藤為信・中原宗景・橘正盛・藤原友盛・源為重)宛に発した書状で、惣追補使の催促に基づき所定の期日に京の七条口へ集合するように命じたものであり、従わなかった場合は謀反人に加担する者として処罰するという内容であった。
一ノ谷合戦前夜に義経が発した軍事動員の史料とされ、一国ごとの御家人の軍事動員を担当する惣追補使という存在は、鎌倉幕府の守護制度の原形だと考えられている。
三草山の戦い
範頼は摂津国昆陽野に陣を敷き、義経もまた丹波路に進軍した。
平氏は平資盛・平有盛・平師盛・平清家・恵美次郎盛方をはじめとする七千余騎が摂津国三草山の西に布陣させ、迎撃体制を整えた。
義経もまた、三草山の東側に陣を構えた。両軍の距離はわずか三里ほどであった。
三草山は丹波国との国境に近く交通の要所であると同時に、険しいやまと深い谷に囲まれた軍事的要塞でもあった。 三草山を含む福田荘は平氏の荘園だったので、平氏が地の利を得るこの地が防衛拠点として選ばれた。
義経の夜襲
義経は田代信綱・土肥実平と評定を行い、夜明け前に平資盛を襲撃した。
義経の軍勢が放った火がたちまち周辺の山野・民家に燃え広がると、熟睡していた平氏の軍勢は大いに慌てて散り散りになった。
敗走する平氏の中で、資盛・有盛は高砂から海路で屋島へ渡り、師盛は福原の平氏本隊に戻った。
一ノ谷の戦い
鵯越の逆落とし
7日、雪が降った。
寅の刻、義経は勇士七十余騎を引き連れて鵯越(一ノ谷の後ろの山)に到着した。
武蔵国住人熊谷直実・平山季重らは卯の刻に一ノ谷の前の道を回って海側の道から平氏の館に襲いかかり、源氏の先陣であると大声で名乗りを上げた。
飛騨景綱・越中盛次・上総忠光・平景清らは二十三騎を率いて、木戸口を開いて合戦となった。
熊谷直家は負傷し、季重の郎従も討死した。
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範頼と足利・秩父・三浦・鎌倉の人々も襲来し、乱戦となった。
白旗と赤旗が交差し、山を轟かせ地を揺るがせるほどのものであった。
城郭は岩壁が高く険しく馬では通れないほどで、谷も深く人も通れなかった。
義経は三浦義連らを率いて鵯越を下って攻撃してきたので、平氏は慌てて敗走した。
平重衡は明石浦で梶原景時・庄家長らによって生け捕られた。
平通盛は湊河周辺で源俊綱に誅殺された。
平忠度・平経俊・平知章・平敦盛・平業盛・平盛俊らは、範頼・義経らの軍勢に討ち取られた。
平経正・平教経・平師盛は安田義定によって首を取られた。
合戦後の動向
2月8日、範頼・義経は摂津国から飛脚を京に遣わして、合戦の結果を報告した。
昨日、一ノ谷において合戦を遂げ、大将軍九人の首を取り、その他誅殺した者は千人余りに及びます。
9日、まずは平氏一族の首について奏聞するために、義経がわずかな軍勢を率いて入京した。
11日、藤原基通・藤原経宗・藤原兼実・藤原実定・藤原忠親らが勅問に預かり、意見は分かれたが、範頼よ義経の強い要望で大路を渡すこととなった。
平氏の一族は長い間朝廷に仕えていたので、穏便な処置をすべきではないか。 あるいは、範頼と義経が私的な恨みを晴らすために申し出ていることにも一理あるかもしれない。 そこで大路を渡すか否かという処置について、叡慮では決め難いので、よく皆で取り計らうように。
平氏一族の梟首
13日、義経の六条室町亭に平氏の首が集められた。
- 平通盛
- 平忠度
- 平忠正
- 平教経
- 平敦盛
- 平師盛
- 平知章
- 平経俊
- 平業盛
- 平盛俊
首はすべて八条河原で源仲頼らが受け取り、長刀と赤札が付けられて獄門の樹に掛けられた。
見物やってきた人々が市を成すごとく集まったという。
15日辰の刻、範頼・義経らの飛脚が鎌倉に到着し、合戦の記録を献上した。
平宗盛らは船で四国へ赴きました。平重衡は生け捕りました。
平通盛・平忠度・平経俊らの三人は範頼が討ち取りました。
平経正・平師盛・平教経らの三人は安田義定が討ち取りました。
平敦盛・平知章・平業盛・平盛俊らの四人は義経が討ち取りました。
この他、梟首された者は一千余人。総じて武蔵・相模・下野などの軍士は、それぞれ大功を挙げました。追って詳しく言上します。
平重衡への尋問
14日、藤原定長が平重衡を尋問するために八条堀河堂に向った。
土肥実平が重衡と車に相乗りして堂に赴き、定長に会った。
弘庇で尋問が行われ、重衡の口状は箇条書きにして報告された。
3月2日、土肥実平が西海に赴くこととなったため、重衡の身柄は義経の家に預けられることになった。
10日、頼朝の申出により、梶原景時が重衡を連れて関東に赴いた。
他国への影響
宋希璟の詩
李氏朝鮮の役人宋希璟は、応永二十七年(1420)に回礼使として来日し、一ノ谷を訪れた際に「源氏平氏昔日位を争い紀行詩文集『老松堂日本行録』に漢詩を残している。
参考資料
- 上杉 和彦「源平の争乱 (戦争の日本史6) 」吉川弘文館、2007年
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