一条天皇時代
寛和三年/永延元年(987)
1月7日 天皇の物忌について覆推を行う
寛和三年(987)1月7日庚午、早朝、(藤原実資は)院を退出した。(藤原)有国朝臣が来て言ったことには「今日は御物忌です。ところが、陰陽家が覆推して言ったことには『軽い』ということでした。そこで紫宸殿に出御されます」という。(『小右記』)
1月18日 陵王の舞に際して衣を下給しない
寛和三年(987)1月18日辛巳、陵王の舞が催されたが、藤原実資・陰陽師(詳細不明)・射手は衣を陵王に与えなかった。(『小右記』)
永延二年(988)
11月19日 賀茂臨時祭を延期すべきか占う
永延二年(988)11月19日壬寅、賀茂臨時祭が12月15日に行われる予定だったが、藤原高遠が臨時祭を延期すべきだという夢を見たので、慶滋保遠と安倍吉平が延期すべきか占った。来月に延期することになった。(『小右記』)
11月23日 一条天皇の錫紵について日時を勘申する
永延二年(988)11月23日丙午の朝、永平親王の薨奏につき、慶滋保遠が蔵人所にて錫紵を裁縫し着脱する吉時を勘申した。(『小右記』)
永祚元年(989)
2月13日 賀茂光栄が春日行幸の延期を提案する
永祚元年(989)2月13日甲子、早朝、(藤原実資は)摂政殿に参った。来月の春日行幸を行うのはよろしくないということについて(賀茂)光栄朝臣が勘文を進上した。藤原実資を以て左府に遣わされた。「定め申された旨は、一定ではない。しかし、陰陽家はよろしくないという旨の勘文を進上した。指せる時期はない。(欠字)の間を過ぎられるのは如何であろう」という。また、御卜があった。(『小右記』)
→3月13日甲午、一条天皇の物忌が重なったので、春日行幸を取りやめるよう宣旨が下った。(『小右記』同年3月14日条乙未)
3月15日 陰陽家が春日行幸について占う
永祚元年(989)3月15日丙申、摂政(藤原兼家)が命じられて言ったことには「春日行幸と御物忌が相次いで重なったことにより、停止すべきことについて院の仰せ事があった。そこで宣旨を下した。ところが、よくない夢想があった。また、怪異を示現するようなことがあった。やはり、行幸を行うべきであろうか。事の疑いがあったので、陰陽家に問うた。申したところは、これこれしかじかである。また問わせて、院に奏上させるように」という。(『小右記』)
4月5日 慶滋保遠が加給される
4月5日乙卯、叙位・除目の儀が行われ、慶滋保遠が加給された。理由は不明。(『小右記』)
5月7日 賀茂光栄と藤原陳泰が藤原実資の病について占う
5月7日丙戌の寅~卯の刻頃、藤原実資はひどく具合が悪くなったので、賀茂光栄と藤原陳泰が占ったところ祟りがあるということだった。(『小右記』)
5月28日 陰陽寮の日時勘文が奉られる
5月28日丁未、臨時諸社御幣使が定められた。陰陽寮の日時勘文が藤原忠輔を介して奉られた。(『小右記』)
6月24日 陰陽師たちが諸社御幣使を定めることになる
6月24日癸酉、諸社御幣使を定めるべきところ、陰陽師たちは藤原兼家の河臨禊を行うために辛崎に向かっていたため、吉日吉時を勘申できなかった。翌日定めることになった。(『小右記』)
6月25日 陰陽寮が賀茂下社の怪異について占う
6月25日甲戌、6月19日に賀茂下社の大樹が倒れ、樹の中からたくさんの星が飛び出して南方に去った怪異について、陰陽寮は神祇官とともに御卜を行った。慶滋保遠が占うよう命じられた。(『小右記』)
6月27日 県奉平が諸々の勘文を奉る
6月27日丙子、陰陽允県奉平が諸々の勘文を奉った。(『小右記』)
12月15日 陰陽寮が大原野社の怪異について軒廊御卜を行う
12月15日壬戌、大原野社が8日から10日まで大鼓を打つかの如く震動していた怪異について、陰陽寮は神祇官とともに藤原顕光によって軒廊に召され、御卜を行った。(『小右記』)
永祚二年/正暦元年(990)
7月7日 県奉平が藤原実資の娘のために招魂祭を行う
7月7日庚辰の夜、藤原実資の娘の病が重いため、実資は県奉平に招魂祭を行わせた。(『小右記』)
→しかし、7月11日甲申の申の刻頃、娘は亡くなった。(『小右記』)
正暦二年(991)
6月14日 安倍吉平が雩祭を行う
6月14日辛巳、陰陽博士安倍吉平がこの日から三日間に渡って雩祭を奉仕した。(『日本紀略』)
雩祭=神仏に降雨を祈願する。
正暦四年(993)
2月9日 藤原実資の子の遺骸の処分について占う
2月9日丁卯の辰の刻、藤原実資の女が出産したが、赤子は亡くなった。実資は県奉平を召して占わせた。奉平は「本来なら未の刻がよいが、女人の衰時に当たるので申の一刻に北西の方角へ棄てるのがよろしい」と申した。(『小右記』)
正暦五年(994)
この年は鎮西から来た疫病が流行し、四月から七月までに都では五位以上の死者が六十七人出ていた。
4月30日 陰陽寮が清涼殿に侵入した狐の怪異について吉凶を占う
正暦五年(994)4月30日辛亥の午の刻、狐が永安門から侵入して清涼殿に上がった。陰陽寮は吉凶を占った。
御薬のことはないが、兵革の兆しがあるということだった。(『日本紀略』『本朝世紀』)
5月2日 4月30日の狐の怪異について
正暦五年(994)5月2日癸丑、権大納言(藤原伊周)が神祇官と陰陽寮の官人を召して復問したことには「去る月三十日の勘申するところは神の祟りか、何の神の祟りであるか」という。それぞれ勘申した者は「石清水・伊勢・賀茂・松尾・祇園の祟りです」ということだ。(『本朝世紀』)
5月16日 海若祭が行われる
正暦五年(994)5月、海若祭及び名山祭が行われた。疫病を除くためである。(『本朝世紀』)
海若祭について、康保元年(964)8月21日に天文博士賀茂保憲が摂津国難波浦においてこの祭祀を修している。甲子の年だったので、甲子革令(陰陽道で、甲子の年は変事が多いと考えられていた)により海若祭を行った。(『革暦類』)
6月15日 天文奏
正暦五年(994)6月15日乙未、月蝕があった。天文奏があった。凶事が多くあるということだった。(『本朝世紀』)
長徳元年(995)
7月4日 中宮定子(藤原定子)の女房が陰陽寮の楼に登る
7月4日、中宮定子の女房が陰陽寮の楼に登った。(『小右記』『枕草子』「心もとなきもの」)
8月10日 高階成忠が「陰陽師」に藤原道長を呪詛させる
8月10日甲申、高階成忠は「陰陽師法師」(詳細不明)に右大臣藤原道長を呪詛させた。(『百錬抄』)
長徳三年(997)
3月21日 陰陽寮が葵御祭を奉仕する
3月21日、陰陽寮は葵御祭を奉仕した。(『信経記』)
10月19日 止雨の臨時奉幣使を派遣する日時を勘申する
10月19日、平惟仲は陰陽寮が勘申した止雨の臨時奉幣使を丹生・貴船に派遣する日時勘文(21日の巳二刻または未二刻、22日巳二刻あるいは未二刻)を奏上させた。(『権記』)
11月1日 御暦奏
11月1日、御暦奏が行われた。(『小記目録』)
長徳四年(998)
2月11日 賀茂光栄が12日朝参るよう命じられる
長徳四年(998)2月11日、藤原行成が惟宗允政に賀茂光栄は参っているか尋ねたところ、参っていないということだったので、12日の朝参るように命じた。(『権記』)
3月5日 臨時金剛般若御読経を行う日時を勘申する
3月5日、陰陽寮は臨時金剛般若御読経を行う吉日吉時を勘申した。(『権記』)
7月5日 疫神祭を行う日時を勘申する
7月5日、陰陽寮は疫神祭を行う吉日吉時を勘申した。(『権記』)
8月14日 県奉平が反閇を奉仕する
8月14日庚子、県奉平は反閇を奉仕した。(『権記』)
8月27日 賀茂光栄が大炊頭に任じられる
長徳四年(998)8月27日、今日、小除目があった。(中略)正五位下大炊権頭賀茂朝臣光栄を頭とした。〈堪えられるかどうか分からなかったけれども、暦道の長であることによって任じられた。〉(『権記』)
10月3日 安倍吉昌が天文密奏を行う
10月3日申の刻、天文博士安倍吉昌が9月26日に月が同宿したこと・同日申の刻の月蝕・10月1日未の刻の地震について、藤原行正を介して天文密奏を行った。(『権記』)
10月9日 賀茂光栄が一条天皇の錫紵の時刻を勘申する
長徳四年(998)10月9日、(前略)〈昨日、大外記(滋野)善言朝臣が明日薨奏を行うと申した。そこで右中弁に伝え、(賀茂)光栄朝臣を召し、御錫紵を供する刻限を勘申させた。また、明日、院(藤原詮子)の御衰日を避けるべきか否か問うた。光栄が申させて言ったことには「院の御衰日を避けてはなりません。本条によって、指せる理由はありません」という。そこで右中弁に事情を奏上させた。〉(『権記』同年10月10日条)
10月27日 賀茂光栄が藤原行成の結政所に行く日を勘申する
長徳四年(998)10月27日壬子、(賀茂)光栄朝臣を招き、結政に参る日を選ばせた。言ったことには「明後日〈甲寅〉が吉です」という。(『権記』)
11月1日 伊勢例幣使を派遣する日と丹生・貴船社に奉幣する日を勘申する
11月1日丙辰、陰陽寮の者(詳細不明)が伊勢例幣使派遣を行う吉日と、丹生・貴船社に奉幣を行う吉日を勘申した。(『権記』)
長保元年(999)
3月7日 陰陽寮が神祇官とともに富士山の噴火について吉凶を占う
3月7日庚申、陰陽寮は神祇官とともに富士山の噴火について吉凶を占った。兵革あるいは疫病があるとのことだった。(『本朝世紀』)
9月16日 賀茂光栄が藤原実資の病を占い、鬼気祭を行う
9月16日乙未、藤原実資は前日から体調が治らず、賀茂光栄に占わせたところ、求食鬼によるものだということだったので鬼気祭を行わせた。(『小右記』)
9月22日 県奉平が天文密奏を奏上させる
9月22日、天文博士県奉平が天文密奏を行わせた。(『権記』)
10月6日 県奉平が藤原実資から表衣を預かる
10月6日乙卯、県奉平は藤原実資から檜皮色の五重の表衣を預かった。(『小右記』)
10月25日 昌子内親王遷御に際し賀茂光栄が反閇を奉仕する
10月25日甲戌、昌子内親王の遷御に際して賀茂光栄は反閇を奉仕した。(『小右記』)
10月26日 陰陽寮が読経の吉日吉時を勘申する
10月26日、陰陽寮は読経を行う吉日吉時を勘申した。→29日巳の刻となった。(『権記』同年10月25日条)
11月5日 県奉平が藤原行成に祓を奉仕する
11月5日の朝、県奉平は藤原行成の祓を行った。(『権記』)
11月27日 県奉平が昌子内親王の還宮について勘申する
11月27日丙午、県奉平は昌子内親王の還宮の吉日を勘申した。12月5日に行うべきだということになった。(『小右記』)
11月29日 賀茂光栄が昌子内親王の還宮について勘申する
11月29日戊申、県奉平の勘申した12月5日は吉日だが、この日の朝、藤原実資は「その日に還宮を行ってはいけない」という夢のお告げがあった。そこで賀茂光栄が勘申したところ、12月7日がよいということになった。(『小右記』)
12月2日 惟宗正邦が昌子内親王の入棺・湯殿・御出を勘申する
12月2日辛亥の明け方、陰陽博士惟宗正邦が昌子内親王の入棺・湯殿・御出について勘申した。この日は重日にあたるので、勘文は提出しなかった。辰の刻に棺を作り始めて子の刻に湯を奉り入棺し、観音院に移すことになった。(『小右記』)
12月5日 陰陽寮が政始の吉日を勘申する
12月5日、陰陽寮は政始の吉日を勘申した。8日となった。(『権記』)
12月9日 県奉平が一条天皇の眼病を占う
12月9日戌午、県奉平が一条天皇の眼病について占ったところ、祟りがあるということだった。(『権記』)
長保二年(1000)
2月23日 安倍吉昌が天文密奏を奏上する
2月23日辛未の夕方、安倍吉昌は日蝕の天文密奏を奏上した。(『権記』)
3月1日 陰陽寮が中務省に日蝕の日は廃務だと伝える
3月1日戌寅、日蝕があった。藤原行成曰く日蝕の日は廃務のため結政所に参らなかった。陰陽寮が中務省に報告したが、中務省から太政官には伝わっていなかったので、源道方らは結政所に参った。(『権記』)
4月7日 県奉平が天文密奏を奏上する
4月7日甲寅、県奉平が天文密奏を奏上した。火事に気をつけなければならないということだった。(『権記』)
4月9日 県奉平が藤原行成の解除を行う
4月9日丙辰、県奉平は鴨川の河原にて藤原行成の解除を行った。(『権記』)
5月14日 賀茂光栄が東三条院殿上のことを停止する日を勘申する
5月14日庚寅、賀茂光栄は東三条院殿上のことを停止する日を勘申した。今日がその吉日となった。(『権記』)
7月9日 賀茂光栄が賀茂光国へ暦道を伝授するよう命じられる
長保二年(1000)7月9日甲申、勅によって(藤原行成は)大炊頭(賀茂)光栄を召した。前内蔵允(賀茂)光国に暦道を習伝させるように命じた。申して言ったことには「暦道は、光栄の子息に習い継がせるべきです。ただし、光国はもっとも採用されるべきです。陰陽助もしくは博士に欠員が生じたとき、任じられるべきでしょうか」という。(『権記』)
賀茂光国は、賀茂光栄の弟。
8月18日 陰陽寮・安倍晴明・賀茂光栄が内裏遷御に伺候することになる
長保二年(1000)8月18日壬戌、(前略)また、仰って言ったことには「来たる二十日に参入する。還宮の日時を勘申させるように。その日は、陰陽寮ならびに(安倍)晴明・(賀茂)光栄の朝臣を召して伺候させるように。主計允益光が申した長殿の預のこと〈昌光の替わりである。〉を仰せ下すように」という。(『権記』)
9月21日 陰陽寮が安鎮法と七十天供の吉日を勘申する
9月21日乙未、藤原行成は藤原説孝を介して陰陽寮に安鎮法と七十天供の吉日を勘申させた。安鎮法が9月29日、七十天供が10月1日となった。だが、29日は国忌のため占い直した。(『修法要抄』)
9月26日 秦正邦が暦道博士の任命を求める
9月26日庚子の朝、陰陽頭秦正邦が暦道博士を任命してほしいと要求した。本来、暦博士の任命は除目の際に行われるものだが、吉日がないため、すぐに任命した。(『権記』)
10月25日 安倍吉平が御修法の日時を勘申する
長保二年(1000)10月25日戊辰、(前略)また、(安倍)吉平の勘申した御修法の日時の勘文を奏上した。仰って言ったことには「来たる三十日、天台座主覚慶に熾盛光法を奉仕させよ」という。仰せ書を遣わした。(『権記』)
長保三年(1001)
1月16日 賀茂光栄が御修法の日を勘申する
長保三年(1001)1月16日戊子、仰せがあって、(賀茂)光栄朝臣を遣わし召し、御修法の日を勘申させた。〈二十一日が吉である。〉すぐに(藤原)実房に伝えて行わせた。(『権記』)
2月16日 陰陽寮が勘申した臨時仁王会の日時勘文が奏上される
2月16日戊午、陰陽寮が勘申した臨時仁王会の日時勘文が奏上された。(『権記』)
2月19日 賀茂光栄が勘申した仁王会の日時について話し合いが行われ、3月10日に定められる
2月19日辛酉、賀茂光栄は仁王会の吉日を2月28日庚午と勘申したが、その日は凶日といわれている日だったので、3月10日に行うことになった。(『権記』)
3月4日 安倍吉平が一条天皇が除服を行う日時を勘申する
長保三年(1001)3月4日丙子、(藤原行成は)右衛門督(藤原公任)が示し送られた供給宣旨を目録に載せた。蔵人永光に命じて陰陽寮助(安倍)吉平を召させた。参入した。(一条天皇が)御心喪を除かれる日を勘申させた。勘申して言ったことには「来たる十日壬午、時は寅の刻です」という。永光がすぐに奏上した。候宿した。(『権記』)
3月25日 陰陽寮の日時勘文が奏上される
3月25日丁酉、蔵人弁によって陰陽寮の日時勘文が奏上された。(『権記』)
5月19日 陰陽寮が神祇官の祈祷と諸社の祈祷を行う日時を勘申する
5月19日庚寅、陰陽寮は神祇官の祈祷と諸社の祈祷を行う吉日吉時を勘申した。神祇官の祈祷が5月21日、諸社の祈祷が5月24日になった。(『権記』)
8月2日 安倍吉平・県奉平が藤原行成室の産後の雑事について勘申する
長保三年(1001)8月2日辛丑、(安倍)吉平朝臣を招き、産後の雑事を問うた。(県)奉平宿禰の勘文と相並べて用いた。(『権記』)
11月1日 御暦奏
11月1日、御暦奏が行われた。(『小記目録』)
12月4日 陰陽寮か勘申した広瀬祭の日時勘文が奏上される
12月4日、陰陽寮が広瀬祭を行う吉日吉時(閏12月4日)の日時勘文が奏上された。(『権記』)
長保四年(1002)
3月9日 賀茂光栄が御祓を奉仕する
長保四年(1002)3月9日乙巳、一宮(敦康親王)が申の刻、河原に出られた。そこで、(藤原行成は)お供した。左大臣(藤原道長)が参られた。御車を東北門の陣の外に寄せてお出でになった。行成・頭中将(源経房)が同車してお供した。中御門の末において御祓を行った。(賀茂)光栄朝臣が奉仕した。終わって、禄を下給した。お帰りになった。左大臣が行成の車に乗り、出られた。次いで家に帰った。(『権記』)
長保五年(1003)
2月16日 県奉平が藤原行成の祓を行う
2月16日丙子の酉の刻、県奉平は藤原行成の服喪を明けさせるための祓を行った。(『権記』)
3月9日 賀茂光栄が敦康親王に上巳祓を奉仕する
3月9日乙巳、賀茂光栄が中御門大路の末において敦康親王に上巳祓を奉仕した。(『権記』)
8月29日 賀茂光栄が敦康親王に御祓を奉仕する
8月29日丙戌、敦康親王が病を患っていたので、賀茂光栄は御祓を奉仕した。(『権記』)
長保六年/寛弘元年(1004)
2月21日 県奉平が河臨祓を行う
2月21日乙亥、県奉平が藤原行成の命で河臨祓を行った。(『権記』)
7月24日 安倍吉平が藤原行成室の除服を勘申する
寛弘元年(1004)7月24日丙午、未の刻、(藤原行成の)女人が喪を明けることについて(安倍)吉平が勘申した。(『権記』)
8月14日 賀茂光栄が本命元辰祭を行う
8月14日丙寅、賀茂光栄は藤原道長に命じられて本命元辰祭を行った。(『御堂関白記』)
8月28日 県奉平が藤原行成とその妻に祓を行う
寛弘元年(1004)8月28日庚辰、県奉平が藤原行成とその妻のために祓を行った。(『権記』)
9月22日 賀茂光栄が敦康親王に御祓を奉仕する
9月22日癸卯の酉の刻、賀茂光栄が敦康親王に御祓を奉仕した。(『権記』)
閏9月15日 賀茂光栄が本命祭を行う
閏9月15日丙寅、賀茂光栄は藤原道長に命じられて本命祭を行った。(『御堂関白記』)
11月1日 御暦奏
11月1日辛亥、御暦奏が行われた。藤原斉信が上卿を務めた。(『権記』)
寛弘二年(1005)
1月4日 「陰陽師」が藤原頼通の病を占う
1月4日癸丑、陰陽師(詳細不明)が藤原頼通の病について占った。病は急に治らないので、慎まなければならないということだった。(『小右記』)
2月18日 県奉平が泰山府君祭を行う
寛弘二年(1005)2月18日丙申、戌の刻、(県)奉平宿禰に泰山府君祭を修させた。藤原実資は祭場に出て、礼に従った。去る十六日、日が入る時、その色は火のようであった。月が出るときも、その色は同様であった。驚きながら奉平宿禰に問い遣わした。言ったことには「雲陰が見えるところです」という。(『小右記』)
4月7日 県奉平が藤原行成の解除を行う
寛弘二年(1005)4月7日甲申、(藤原行成は)(県)奉平に解除を行わせた。(『権記』)
6月13日 陰陽寮が賀茂社における鵄の怪異について占う
6月13日己丑、陰陽寮は賀茂社における鵄の怪異について占った。東と南東の方角で戦いが起こるということだった。(『権記』)
7月21日 「陰陽師」が藤原道長の命で卜占を行う
7月21日丁卯、藤原道長が陰陽師(詳細不明)に卜占を行わせたところ、重い物忌ということだった。(『御堂関白記』)
8月13日 安倍吉平が反閇を奉仕する
寛弘二年(1005)8月13日己丑、左大殿(藤原道長)は東三条殿に渡られた。宮の上は鴨院に移った。
戌の刻、(安倍)吉平が反閇を奉仕した。褂一重を下給した。(『権記』)
9月16日 陰陽寮が東大寺における白鷺と狐の争いの怪異について占う
9月16日辛酉、東大寺が去る13日に白鷺と狐の争闘があったと報告してきた。陰陽寮が吉凶を占ったところ、疫病または火事があるということだった。(『日本紀略』『西宮記』)
10月29日 賀茂光栄らが八島にて御祓を行う/賀茂光栄が敦康親王に御祓を奉仕する
10月29日甲辰、賀茂光栄が中宮に、惟宗正邦が藤原道長に、秦文高が道長の女方のために御祓を行った。(『御堂関白記』)また、賀茂光栄が八島において敦康親王に御禊を奉仕した。(『権記』)
11月22日 陰陽寮が内裏で起こった火災の祟について勘申する
11月22日丙寅、陰陽寮は神祇官とともに11月15日に内裏で起こった火災の祟りについて勘申した。(『権記』)神祇官は本官に、陰陽寮は適当な場所に召された。(『小右記』)
11月29日 賀茂光栄が賀茂臨時祭の日時・紫宸殿出御の日時・官奏に伺候する日時・除目の日時を勘申する
11月29日癸酉、賀茂光栄は内裏に召されて賀茂臨時祭の吉日(12月6日)・紫宸殿出御の吉日(12月16日)・官奏に伺候する吉日(12月17日)・除目を行う吉日(12月23日)を勘申した。(『小右記』)
11月30日 県奉平が伊勢奉幣使発遣の日時を勘申する
寛弘二年(1005)11月30日甲戌、(前略)伊勢(大神宮)に奉幣する使者を発遣することを奏上した。
天文博士(県)奉平朝臣が日時を勘申した。「来月十日」という。使者は宰相中将(源経房)である。(『権記』)
12月21日 陰陽寮が内裏造営の日時を勘申する
12月21日乙未、陰陽寮は内裏造営の吉日吉時を勘申した。翌年の3月10日壬子となった。(『小右記』)
寛弘三年(1006)
2月3日 県奉平が地震奏を行う
寛弘三年(1006)2月3日丙子、謹奏する。
今月二日、乙亥、時刻は辰。地震があった。〈月は奎宿を行った。〉
謹んで天文録を調べると「地が動き震えるのは、民の憂いである」という。
『京房妖占』によると「地が春に動くのは、歳が盛んではないということだ」という。
『天地瑞祥志』によると「内経によれば『二月に地が動くのは、三十日以内に兵乱が起こるということだ』という。また、言ったことには『月が奎宿に行ったときに地が動くのは、刀兵が大いに起こり、国土を損害し、客が強く主が弱い』という。また、言ったことには『月が初旬に動くのは、商人を害するということだ』」という。
『内論』によると「月が奎宿に行ったときに地が動くのは、竜の動く所であり、雨が降らず、江河が枯渇し、その年の麦はよろしくない。天子に凶事があり、大臣は災いを被る」という。
『雑災異占』によると「地が動くのは女官に喪事がある。天下の民は多く飢え、買米が高騰する」という。
『東方朔占』によると「地が二月に動くのは、その国が盛んではない。長者を殺し、大きな喪事がある」という。
右、件の地震の異変について謹んで申し聞す。謹奏する。
寛弘三年二月三日 (県)奉平(『権記』)
7月11日 賀茂光栄が藤原道長の体調回復のための祭祀を行うことになる
7月11日辛亥、藤原道長は体調がよくなかったので、高階業遠に祭祀を行わせたが、業遠は翌日から忌日のため、賀茂光栄が修することになった。
光栄は翌々日から始めると申した。(『御堂関白記』)
7月15日 陰陽寮が客星について御卜を奉仕する
7月15日乙卯、陰陽寮は客星について御卜を奉仕した。(『権記』)
7月17日 賀茂光栄が敦明親王元服の日時を勘申する
7月17日丁巳、賀茂光栄は敦明親王元服の吉日を勘申した。
→20日となった。(『御堂関白記』)
9月1日 賀茂光栄が競馬を行う吉日を勘申する
9月1日庚子、賀茂光栄は競馬の吉日を勘申した。
→28日となった。(『御堂関白記』)
10月11日 一条天皇の御前に乱入した山鶏について占う
10月11日庚辰の辰の刻、一条天皇の御前に山鶏が乱入してきたので、陰陽師を召して占わせることになった。(『御堂関白記』)
11月27日 賀茂光栄が帰忌日を忌むべきか占う
11月27日丙寅、賀茂光栄は帰忌日を忌むべきが問われたところ、重く忌むべきだと答えた。(『御堂関白記』)
※月不詳 □月23日 県奉平が老人星の祭祀を奉仕する
寛弘三年(1006)?月23日、(県)奉平が老人星の御祭を奉仕し、御夢想があった。〈勅禄を賜った。〉(『小記目録』)
寛弘四年(1007)
1月14日 賀茂光栄が藤原道長の春日社参詣の日時を勘申する
1月14日壬子、賀茂光栄は藤原道長の春日社参詣の吉日を勘申した。
→3月3日となった。(『御堂関白記』)
3月16日 県奉平が解除を行う
寛弘四年(1007)3月16日癸丑、南大門の扉に修理を加えた。
暦を見ると「伏竜が門に在る」という。そこで(県)奉平を召し、解除を行わせた。(『御堂関白記』)
6月14日 賀茂光栄と県奉平が臨時御読経の日時を勘申する
6月14日戊申、賀茂光栄と県奉平は臨時御読経の吉日を勘申した。
→7月3日丁卯となった。(『権記』同年6月16日条)
6月15日 安倍吉昌が仁王会の日時を勘申する
6月15日己酉、安倍吉昌は仁王会の吉日を勘申した。
→7月14日か26日となった。(『権記』同年6月16日条)
6月16日 賀茂光栄・県奉平・安倍吉昌が臨時御読経の日の吉凶について問われる
6月16日庚戌、14日に賀茂光栄と県奉平が勘申した臨時御読経の日について、吉昌によると丁卯は忌みがあるため、改めて光栄・奉平・吉昌が召された。
光栄によると「丁卯の日は奉平が勘申したものですが、よく見ないで加署してしまいました。吉昌の言う通り忌むべきです。2日丙寅に行うべきです」ということだった。
しかし、藤原行成曰く丙寅の日もよろしくない日だったので、14日に定められた。(『権記』)
6月30日 賀茂光栄が藤原道長の六月祓を行う
6月30日甲子、賀茂光栄は鴨川において藤原道長に六月祓を奉仕した。(『御堂関白記』)
7月1日 県奉平が藤原道長に祓えを行う
寛弘四年(1007)7月1日乙丑、(藤原道長は)松前に出て解除を行った。川に臨んだとき、雷の大きな音がして雨が降ってきた。(県)奉平。(『御堂関白記』)
10月7日 安倍吉平が日時を勘申する
寛弘四年(1007)10月7日庚子、(藤原行成は)内裏に参った。帥宮(敦道親王)の御葬送があった。
今日は冷泉院の御衰日である。人々が言ったことには「院の御衰日を避けるように」という。「日を選んだのは(安倍)吉平朝臣である」という。(『権記』)
10月23日 賀茂光栄が敦康親王の御祓を行う
10月23日丙辰、賀茂光栄は鴨川において敦康親王に御祓を奉仕し、禄を賜った。(『権記』)
11月1日 陰陽寮が新暦を奏上する
11月1日甲子、陰陽寮は新暦を奏上した。(『権記』)
11月20日 賀茂光栄らが藤原行成の七瀬祓を行う
寛弘四年(1007)11月20日癸未、卯の刻、女児が誕生した。二刻ほど、胞衣が落ちなかった。そこで、へその緒を切った。種々の祈誓を立願した。午の刻頃、(安倍)吉平朝臣から示し送って言ったことには「このような時は、七瀬祓を行うと感応があります」という。すぐに(賀茂)光栄朝臣以下の七人のもとへ知らせを送った。申の刻に祓を行わせた。知らせを送った後、未の刻、無事に遂げた。(『権記』)
12月22日 安倍吉昌・県奉平が地震奏を持参する
寛弘四年(1007)12月22日甲寅、(藤原道長は)慈徳寺に参ろうと思ったが、物忌によって参らなかった。
天文博士(安倍)吉昌・(県)奉平が地震奏を持ってきた。「吉昌の奏文では、月は弓にあり、奉平の文では月は角になる」という。各々、月の運行について論じた。また「吉昌は十二月」という。「奉平は正月」という。「これは家々の説です」という。ところが、(賀茂)光栄を召して問うと「月は弓に渡ります」という。吉昌の申したことは理にかなっていた。(『御堂関白記』)
寛弘五年(1008)
3月24日 安倍吉平が招魂祭を行う
寛弘五年(1008)3月24日乙酉、この夕方より、(藤原行成は)法賢君に不動調伏法を修させた。伴僧は七口で、七日間に渡って行われる。また、京において叡義君に尊星王法を七日間修させて、ならびに(安倍)吉平朝臣に招魂祭を行わせた。ならびに女人の病のためである。また、この寺において今日から三日間、十口の僧に薬師経千巻を転読させた。去る冬の御産の際の願である。(『権記』)
7月9日 賀茂光栄・安倍吉平・県奉平が中宮藤原彰子の内裏御出の日時を勘申する
寛弘五年(1008)7月9日丁卯、(藤原行成は)左府(藤原道長)のもとに参った。内裏に参った。家に帰った。また、夕方、内裏に参った。「この夜、中宮(藤原彰子)が御出される」という。ところが今日は、大将軍が遊行している期間である。そこで、選び申した(賀茂)光栄・(安倍)吉平・(県)奉平を召して問われたところ、勘申したことを忘れてしまったと申した。そこで、改めて来たる十六日に御出されるということを勘申した。その後、退出した。(『権記』)
9月11日 賀茂光栄が中宮藤原彰子の御産に出席する
9月11日戊辰の午の刻、中宮藤原彰子が敦成親王を出産した。藤原道長は伺候していた陰陽師たちに禄を与えた。(『御堂関白記』)
藤原頼通曰く、このとき賀茂光栄は鬢も整えず、表衣や指貫もくたびれてぼろぼろで、つま先の袋が狭い簡略な浅沓を履いて中門から入り、縁側に伺候していた。光栄は懐から虱を取り出し、高欄の中程の木に当てて親指で潰していたという。(『中外抄』)
『御産部類記』:天が晴れた。上東門院において御産があった。〈寝殿の北の母屋の庇を御産所とした。〉
これより前、十日の夜明けより(出産の)御気色があった。そこで彼の日の寅の刻にいつもの御帳を撤収し、白木の帳を立てた。〈蝉翼の帳・薄物の紐があった。〉
(中略)午の刻、皇子が平安に降誕した。特に陰陽師〈大炊頭賀茂光栄朝臣・主計助安倍朝臣吉平・主税権助県宿禰奉平。禄を下給したのは四位に三疋、五位に二疋。〉を召した。哺乳ならびに雑事の日時を勘申させた。(『御産部類記』)
9月13日 県奉平が藤原行成の解除を行う
寛弘五年(1008)9月13日庚午の辰の刻、県奉平は鴨川の河原において藤原行成の服喪を明けるための祓を行った。(『権記』)
9月25日 陰陽師七人が藤原行成の七瀬祓を行う
9月25壬午、藤原行成に男児が産まれたが、胞衣が落ちなかったので、午の刻に行成は七人の陰陽師に七瀬祓を行わせた。(『権記』)
9月28日 賀茂光栄と安倍吉平が土御門第行幸の日時を勘申する
9月28日乙酉、賀茂光栄と安倍吉平は藤原道長に召されて、土御門第行幸の日時を勘申した。
→10月13日・16日・17日となった。13日に行幸が行われることになった。(『御堂関白記』)
『小右記』:左府(藤原道長)が内々に(賀茂)光栄・(県)奉平・(安倍)吉平を召して来月の行幸の日を問うた。「十六日が吉日だと申しました」という。
寛弘六年(1009)
3月6日 県奉平が初参の日を勘申する
寛弘六年(1009)3月6日辛酉、(県)奉平宿禰が初めて参る日を勘申した。〈来たる十四日、(時刻は)巳・午・未。〉(『権記』)
6月28日 惟宗文高が反閇を奉仕する
寛弘六年(1009)6月28日辛亥、内裏に参った。今日、一宮が七間屋に遷御された。亥時であった。その所、申の刻に七口の僧に仁王経を転読させた。亥時、遷御の間に殿上人が燭を手に持った。蔵人少将忠経が御釼を持った。内蔵頭が抱き奉った。件の屋の東遣戸の前の打橋に至り、御反閇があった。(惟宗)文高朝臣が奉仕した。大褂一領を下給した。(『権記』)
12月7日 陰陽寮が5日の雷鳴について御卜を奉仕する
寛弘六年(1009)12月7日丁亥、陰陽寮は5日に起こった雷鳴について御卜を奉仕した。巽(南東)と乾(北西)の方角に神の祟りがあり、疫病と争乱があり、朝廷では火事が起こるということだった。何の神による祟りか占うことになった。(『権記』)
寛弘七年(1010)
1月16日 賀茂光栄と安倍吉平が、藤原妍子の東宮参入の日時を勘申する
1月16日丙寅、賀茂光栄と安倍吉平は藤原道長に召されて、藤原妍子が東宮に参入する吉日吉時を勘申した。→2月20日になった。(『御堂関白記』)
2月20日 賀茂光栄が藤原妍子の東宮参入に際して反閇を行う
2月20日庚子の戌刻、賀茂光栄は藤原妍子の東宮参入に際して反閇を奉仕した。(『権記』)
閏2月2日 惟宗文高が御祓を奉仕する
閏2月2日壬子、陰陽頭惟宗文高は敦康親王の御祓を奉仕した。(『権記』)
6月19日 賀茂光栄が本命祭を行う
6月19日丙寅、仁統が本命供を行い、賀茂光栄が本命祭を行った。(『御堂関白記』)
6月30日 大中臣義昌が藤原行成と行成の娘の解除を行う
6月30日丁丑の酉の刻、暦博士大中臣義昌は鴨川の河原において藤原行成とその娘の服喪を明けさせるための祓を行った。(『権記』)
8月24日 安倍吉平と賀茂光栄が多武峯の怪異について占う
8月24日庚午、安倍吉平と賀茂光栄に9日に多武峰で起こった怪異について占わせた。吉平は慎むべきだと申したが、光栄は他の年の人が慎むべきだと申した。(『御堂関白記』)
8月26日 安倍吉平と賀茂光栄が24日の占いの結果について藤原道長に問われる
8月26日壬申、道長は吉平と光栄を召して占いの結果が同じではなかったことについて問うた。光栄の言うことは道理にかなっていたが、吉平は不当であったという。(『御堂関白記』)
寛弘八年(1011)
2月10日 陰陽寮が仁王会の日時を勘申する
2月10日甲寅、陰陽寮は仁王会を行う吉日吉時を勘申した。2月末になった。(『小右記』)
2月16日 賀茂光栄が藤原道長に七瀬祓を行う
2月16日庚申、賀茂光栄は鴨川にて藤原道長の解除を行った。光栄は禄を賜った。(『御堂関白記』)
2月19日 安倍吉昌が藤原道長の解除を行う
2月19日癸亥、安倍吉昌は鳴滝において藤原道長の解除を行った。吉昌は禄を賜った。(『御堂関白記』)
2月20日 大中臣実光が藤原道長の解除を行う
2月20日甲子、大中臣実光は耳敏河において藤原道長の解除を行った。実光は禄を賜った。(『御堂関白記』)
2月24日 賀茂光栄が藤原道長の解除を行う
2月24日戊辰、賀茂光栄は大井川において藤原道長の解除を行った。光栄は禄を賜った。(『御堂関白記』)
2月26日 安倍吉昌が藤原道長の解除を行う
2月26日庚午、安倍吉昌は般若寺の滝において藤原道長の解除を行った。吉昌は禄を賜った。(『御堂関白記』)
3月3日 賀茂光栄が藤原道長の触穢によって、金峯山詣に参るべきでないと伝える
3月3日丙子、前日2日に藤原道長の枇杷殿において犬の産穢と死穢があったので、賀茂光栄は留まるべきではないと言った。触穢にも関わらず参るのは、安倍吉平がよく思わなかったという。(『小右記』)
3月6日 藤原道長の祓の際に吹いた風が「陰陽師」の御麻を切る怪異が起こる
3月6日己卯、藤原道長が河原において祓を行っている最中に風が吹いて、陰陽師(詳細不明)の御麻を切った。それを見た人は不吉だと言った。(『小右記』)
3月12日 陰陽師たちが金峯山への使者派遣について占う
3月12日乙酉、仁和寺の僧都が病気のため金峯山に参詣できなくなったので、藤原道長は陰陽師たち(詳細不明)に金峯山へ使者を派遣することの是否について占わせた。
陰陽師たちは、使者を派遣するのは不吉だと申した。道長は使者派遣を取りやめた。(『御堂関白記』)
『小右記』では、賀茂光栄と安倍吉平になっている。
3月19日 安倍吉平が顛倒した垣の壁を塗ることについて述べる
寛弘八年(1011)3月19日壬辰、(前略)昨日顛倒した垣の壁を塗らせるか否かの事について、(安倍)吉平朝臣に問い遣わした。申し送って言ったことには「土用の間、誠に犯土しないといっても、公事を行ってはなりません。また、申の方角に当たるでしょうか。土用の後、大将軍が遊行している間に壁を塗られますように」という。(『小右記』)
5月9日 賀茂光栄・惟宗文高・安倍吉平が敦康親王の御在所の怪異について占う
寛弘八年(1011)5月9日壬午、文室為義が来て言ったことには「一昨日の子の刻、一宮(敦康親王)の御在所の天井の上に多くの瓦礫を投げる声が聞こえました。大変奇妙なことです。女房の仰せを承り、すぐに占方を書きました」という。大炊頭(賀茂光栄)のもとに問い遣わしたところ、(光栄が)占って言ったことには「五月七日、庚辰。時は子の刻〈怪異を目撃した日時。〉に加えます。勝先、亥に臨んで用と為す。将は天后。中は大吉・天空。終は伝送・騰蛇。御行年は寅の上。従魁・朱雀。卦遇は、傍茹・絶紀。これを推測すると、国家に慎みがあるのでしょうか。時期は、怪異が起こった日から三十日以内及び来たる六月・十月の節中ならびに丙・丁の日です。何を以てこう言うのかといいますと『四下剋上、法で言うと絶紀。その先人を亡くすと、必ず孤子がある。章で言うと「臣下は主君に仕え、子は父に仕える。今、皆、下の者が上の者を傷つけることを絶紀とする。臣下はその主君を害し、子はその父を害する。男は父を妨げ、女は母を妨げる」という。故に言ったことには、その先人を亡くすというのは、これを孤子という』といいます。その故です。その時期になったら慎んでいただき、合わせて攘災法を行われればその咎はないでしょう」という。端書に「この占文は他に見せないで下さい」という。怪異の正体はどのようなものなのか。早く奏上されるだけである。
陰陽頭(惟宗)文高がこれを推測すると「もし(一条天皇が)お聞きになれば、口舌のことを驚かれるでしょうか」という。
主計頭(安倍)吉平が占ったところ、卦遇は傍茹であった。これを推測すると「咎はありません。自然に起こったものではないでしょうか」という。今考えると、主上(一条天皇)のご病気は二十三日丙申に発病し、ついには崩御された。光栄の占いは、掌を指すかのようであった。神と称すべきである。〈これは、後日になって考えたことである。〉(『権記』)
6月7日 賀茂光栄と安倍吉平が一条天皇御譲位の日時を勘申する
寛弘八年(1011)6月7日己酉、(藤原行成は)内裏に参った。(賀茂)光栄朝臣・(安倍)吉平を召し、蔵人所において御譲位の日を勘申させて東宮に申された。〈頭弁を御使とした。〉
東宮から大夫(藤原懐平)を差し遣わして左大臣(藤原道長)に仰られた。「その日は、十三日乙卯」という。ある人が言ったことには「狼藉日は忌むべきであろうか」という。(『権記』)
6月8日 陰陽師たちが一条天皇譲位の日時を勘申する、「陰陽師」が内裏参入の日を勘申する
6月8日庚戌、陰陽師たちは藤原道長によって蔵人所に召され、一条天皇譲位の吉日吉時を勘申した。→13日午の刻になった。
また、「陰陽師」(詳細不明)が内裏参入の吉日を勘申した。→13日に東三条第に移り、7月10日に朱雀院へ移り、11日に内裏へ参入するのが良いということだった。大将軍と王相の方角を忌むためである。(『御堂関白記』)
活動年表一覧
天皇 | 時期 | リンク |
---|---|---|
継体天皇-嵯峨天皇 | 継体天皇七年(513)-弘仁十一年(820) | |
淳和天皇-醍醐天皇 | 天長三年(826)-延喜二十年(920) | |
醍醐天皇-朱雀天皇 | 延長元年(922)-天慶九年(946) | |
村上天皇 | 天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日 | |
冷泉天皇-花山天皇 | 康保四年(967)5月25日-寛和二年(986)6月23日 | |
一条天皇 | 寛和二年(986)6月23日-寛弘八年(1011)6月13日 | |
三条天皇 | 寛弘八年(1011)6月13日-長和五年(1016)1月29日 | |
後一条天皇①(長和~寛仁) | 長和五年(1016)-寛仁四年(1020) | |
後一条天皇②(治安) | 治安元年(1021)-治安三年(1023) | |
後一条天皇③(万寿~長元) | 万寿元年(1024)-長元五年(1032) |
安倍晴明の年表
参考【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説
『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...
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