陰陽道 平安時代

【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録:一条天皇(後編)

陰陽師たちの活動記録

一条天皇時代

寛弘二年(1005)

11月22日 陰陽寮が内裏で起こった火災の祟について勘申する

11月22日丙寅、陰陽寮は神祇官とともに11月15日に内裏で起こった火災の祟りについて勘申した。(『権記』)神祇官は本官に、陰陽寮は適当な場所に召された。(『小右記』)

11月29日 賀茂光栄が賀茂臨時祭の日時・紫宸殿出御の日時・官奏に伺候する日時・除目の日時を勘申する

11月29日癸酉、賀茂光栄は内裏に召されて賀茂臨時祭の吉日(12月6日)・紫宸殿出御の吉日(12月16日)・官奏に伺候する吉日(12月17日)・除目を行う吉日(12月23日)を勘申した。(『小右記』)

12月21日 陰陽寮が内裏造営の日時を勘申する

12月21日乙未、陰陽寮は内裏造営の吉日吉時を勘申した。翌年の3月10日壬子となった。(『小右記』)

寛弘三年(1006)

7月11日 賀茂光栄が藤原道長の体調回復のための祭祀を行うことになる

7月11日辛亥、藤原道長は体調がよくなかったので、高階業遠に祭祀を行わせたが、業遠は翌日から忌日のため、賀茂光栄が修することになった。
光栄は翌々日から始めると申した。(『御堂関白記』)

7月15日 陰陽寮が客星について御卜を奉仕する

7月15日乙卯、陰陽寮は客星について御卜を奉仕した。(『権記』)

7月17日 賀茂光栄が敦明親王元服の日時を勘申する

7月17日丁巳、賀茂光栄は敦明親王元服の吉日を勘申した。
→20日となった。(『御堂関白記』)

9月1日 賀茂光栄が競馬を行う吉日を勘申する

9月1日庚子、賀茂光栄は競馬の吉日を勘申した。
→28日となった。(『御堂関白記』)

10月11日 一条天皇の御前に乱入した山鶏について占う

10月11日庚辰の辰の刻、一条天皇の御前に山鶏が乱入してきたので、陰陽師を召して占わせることになった。(『御堂関白記』)

11月27日 賀茂光栄が帰忌日を忌むべきか占う

11月27日丙寅、賀茂光栄は帰忌日を忌むべきが問われたところ、重く忌むべきだと答えた。(『御堂関白記』)

寛弘四年(1007)

1月14日 賀茂光栄が藤原道長の春日社参詣の日時を勘申する

1月14日壬子、賀茂光栄は藤原道長の春日社参詣の吉日を勘申した。
→3月3日となった。(『御堂関白記』)

6月14日 賀茂光栄と県奉平が臨時御読経の日時を勘申する

6月14日戊申、賀茂光栄と県奉平は臨時御読経の吉日を勘申した。
→7月3日丁卯となった。(『権記』同年6月16日条)

6月15日 安倍吉昌が仁王会の日時を勘申する

6月15日己酉、安倍吉昌は仁王会の吉日を勘申した。
→7月14日か26日となった。(『権記』同年6月16日条)

6月16日 賀茂光栄・県奉平・安倍吉昌が臨時御読経の日の吉凶について問われる

6月16日庚戌、14日に賀茂光栄と県奉平が勘申した臨時御読経の日について、吉昌によると丁卯は忌みがあるため、改めて光栄・奉平・吉昌が召された。
光栄によると「丁卯の日は奉平が勘申したものですが、よく見ないで加署してしまいました。吉昌の言う通り忌むべきです。2日丙寅に行うべきです」ということだった。
しかし、藤原行成曰く丙寅の日もよろしくない日だったので、14日に定められた。(『権記』)

6月30日 賀茂光栄が藤原道長の六月祓を行う

6月30日甲子、賀茂光栄は鴨川において藤原道長に六月祓を奉仕した。(『御堂関白記』)

10月23日 賀茂光栄が敦康親王の御祓を行う

10月23日丙辰、賀茂光栄は鴨川において敦康親王に御祓を奉仕し、禄を賜った。(『権記』)

11月1日 陰陽寮が新暦を奏上する

11月1日甲子、陰陽寮は新暦を奏上した。(『権記』)

11月20日 賀茂光栄らが藤原行成の七瀬祓を行う

11月20日癸未の卯の刻、藤原行成に女児が産まれたが、二刻程胞衣えなが落ちなかったので行成はへその緒を切った。
午の刻になって、安倍吉平から七瀬祓を行ったほうがよいと伝えられたので、行成は賀茂光栄ら七人に書状を送り、申の刻に七瀬祓を行わせた。未の刻、後産があった。(『権記』)

寛弘五年(1008)

7月9日 賀茂光栄・安倍吉平・県奉平が中宮藤原彰子の内裏御出の日時を勘申する

7月9日丁卯、賀茂光栄・安倍吉平・県奉平は中宮藤原彰子御出の吉日を勘申した。
→7月16日となった。(『権記』)

9月11日 賀茂光栄が中宮藤原彰子の御産に出席する

9月11日戊辰の午の刻、中宮藤原彰子が敦成親王を出産した。藤原道長は伺候していた陰陽師たちに禄を与えた。(『御堂関白記』)
藤原頼通曰く、このとき賀茂光栄は鬢も整えず、表衣や指貫もくたびれてぼろぼろで、つま先の袋が狭い簡略な浅沓を履いて中門から入り、縁側に伺候していた。光栄は懐から虱を取り出し、高欄の中程の木に当てて親指で潰していたという。(『中外抄』)

9月13日 県奉平が藤原行成の解除を行う

9月13日庚午の辰の刻、県奉平は鴨川の河原において藤原行成の服喪を明けるための祓を行った。(『権記』)

9月25日 陰陽師七人が藤原行成の七瀬祓を行う

9月25壬午、藤原行成に男児が産まれたが、胞衣が落ちなかったので、午の刻に行成は七人の陰陽師に七瀬祓を行わせた。(『権記』)

9月28日 賀茂光栄と安倍吉平が土御門第行幸の日時を勘申する

9月28日乙酉、賀茂光栄と安倍吉平は藤原道長に召されて、土御門第行幸の日時を勘申した。
→10月13日・16日・17日となった。13日に行幸が行われることになった。(『御堂関白記』『小右記』)

寛弘六年(1009)

12月7日 陰陽寮が5日の雷鳴について御卜を奉仕する

12月7日丁亥、陰陽寮は5日に起こった雷鳴について御卜を奉仕した。巽(南東)と乾(北西)の方角に神の祟りがあり、疫病と争乱があり、朝廷では火事が起こるということだった。何の神による祟りか占うことになった。(『権記』)

寛弘七年(1010)

1月16日 賀茂光栄と安倍吉平が、藤原妍子の東宮参入の日時を勘申する

1月16日丙寅、賀茂光栄と安倍吉平は藤原道長に召されて、藤原妍子が東宮に参入する吉日吉時を勘申した。→2月20日になった。(『御堂関白記』)

2月20日 賀茂光栄が藤原妍子の東宮参入に際して反閇を行う

2月20日庚子の戌刻、賀茂光栄は藤原妍子の東宮参入に際して反閇を奉仕した。(『権記』)

閏2月2日 惟宗文高が御祓を奉仕する

閏2月2日壬子、陰陽頭惟宗文高は敦康親王の御祓を奉仕した。(『権記』)

6月19日 賀茂光栄が本命祭を行う

6月19日丙寅、仁統が本命供を行い、賀茂光栄が本命祭を行った。(『御堂関白記』)

6月30日 大中臣義昌が藤原行成と行成の娘の解除を行う

6月30日丁丑の酉の刻、暦博士大中臣義昌は鴨川の河原において藤原行成とその娘の服喪を明けさせるための祓を行った。(『権記』)

8月24日 安倍吉平と賀茂光栄が多武峯の怪異について占う

8月24日庚午、安倍吉平と賀茂光栄に9日に多武峰で起こった怪異について占わせた。吉平は慎むべきだと申したが、光栄は他の年の人が慎むべきだと申した。(『御堂関白記』)

8月26日 安倍吉平と賀茂光栄が24日の占いの結果について藤原道長に問われる

8月26日壬申、道長は吉平と光栄を召して占いの結果が同じではなかったことについて問うた。光栄の言うことは道理にかなっていたが、吉平は不当であったという。(『御堂関白記』)

寛弘八年(1011)

2月10日 陰陽寮が仁王会の日時を勘申する

2月10日甲寅、陰陽寮は仁王会を行う吉日吉時を勘申した。2月末になった。(『小右記』)

2月16日 賀茂光栄が藤原道長に七瀬祓を行う

2月16日庚申、賀茂光栄は鴨川にて藤原道長の解除を行った。光栄は禄を賜った。(『御堂関白記』)

2月19日 安倍吉昌が藤原道長の解除を行う

2月19日癸亥、安倍吉昌は鳴滝において藤原道長の解除を行った。吉昌は禄を賜った。(『御堂関白記』)

2月20日 大中臣実光が藤原道長の解除を行う

2月20日甲子、大中臣実光は耳敏河みみとがわにおいて藤原道長の解除を行った。実光は禄を賜った。(『御堂関白記』)

2月24日 賀茂光栄が藤原道長の解除を行う

2月24日戊辰、賀茂光栄は大井川において藤原道長の解除を行った。光栄は禄を賜った。(『御堂関白記』)

2月26日 安倍吉昌が藤原道長の解除を行う

2月26日庚午、安倍吉昌は般若寺の滝において藤原道長の解除を行った。吉昌は禄を賜った。(『御堂関白記』)

3月3日 賀茂光栄が藤原道長の触穢によって、金峯山詣に参るべきでないと伝える

3月3日丙子、前日2日に藤原道長の枇杷殿において犬の産穢と死穢があったので、賀茂光栄は留まるべきではないと言った。触穢にも関わらず参るのは、安倍吉平がよく思わなかったという。(『小右記』)

3月6日 藤原道長の祓の際に吹いた風が「陰陽師」の御麻を切る怪異が起こる

3月6日己卯、藤原道長が河原において祓を行っている最中に風が吹いて、陰陽師(詳細不明)の御麻を切った。それを見た人は不吉だと言った。(『小右記』)

3月12日 陰陽師たちが金峯山への使者派遣について占う

3月12日乙酉、仁和寺の僧都が病気のため金峯山に参詣できなくなったので、藤原道長は陰陽師たち(詳細不明)に金峯山へ使者を派遣することの是否について占わせた。
陰陽師たちは、使者を派遣するのは不吉だと申した。道長は使者派遣を取りやめた。(『御堂関白記』)

『小右記』では、賀茂光栄と安倍吉平になっている。

5月9日 賀茂光栄らが敦康親王の御在所の怪異について占う

5月9日壬午、7日庚辰の子の刻に敦康親王御在所の天井の上から瓦礫を投げる声が聞こえた。大炊頭賀茂光栄が占ったところ「三十日以内の丙・丁の日に一条天皇に不幸がある」ということだった。
陰陽頭惟宗文高が「天皇がこのことを知ったら驚くだろうか」というと、主計頭安倍吉平は「咎はない」と言った。
実際に、一条天皇は23日丙申に病を患い崩御されたので、藤原行成は光栄の占いは掌を指すようであり、神の域に達していると評した。(『権記』)

6月7日 賀茂光栄と安倍吉平が一条天皇御譲位の日時を勘申する

6月7日己酉、賀茂光栄と安倍吉平は蔵人所において一条天皇御譲位の吉日を勘申した。
→6月13日乙卯となった。(『権記』)

6月8日 陰陽師たちが一条天皇譲位の日時を勘申する、「陰陽師」が内裏参入の日を勘申する

6月8日庚戌、陰陽師たちは藤原道長によって蔵人所に召され、一条天皇譲位の吉日吉時を勘申した。→13日午の刻になった。
また、「陰陽師」(詳細不明)が内裏参入の吉日を勘申した。→13日に東三条第に移り、7月10日に朱雀院へ移り、11日に内裏へ参入するのが良いということだった。大将軍と王相の方角を忌むためである。(『御堂関白記』)

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