角色

北条時政

北条時政は、源頼朝を娘婿とし鎌倉幕府の成立に大きく貢献した人物として有名である。

伊豆国時代

伊豆国を拠点とする

北条氏の勢力

現在まで伝わる北条氏の家系図はいずれも時政以前のものが一致せず、不明な点が多い。
また、東国の有力武士団は何代か前から多くの有力な一族を各地に分散させているが、北条氏にはそうした形跡が少しも見られない。
何より、この当時すでに40歳を超えている時政が、何の官位も持っていない。

これらのことから考えて、北条氏が桓武平氏の血を引く伊豆の大豪族とは考えにくい。

だが、『史跡北条氏邸跡発掘調査報告書Ⅰ』によると、北条氏は狩野川水系の水運を利用した広い流通圏の領主であったこと、「手づくねからわけ」など京都の技術によって作られたと思われるものが出土していることから、頼朝に接近する前からある程度の勢力はあったとも推測される。

”ヌシ”という敬称

『吾妻鏡』では北条時政を「ここに上総介平直方朝臣五代の孫、北条四郎時政ぬしは、当国の豪傑なり」と「ヌシ」という敬称を付けてまで大々的に紹介している。

だが、時政は伊豆・駿河両国の守護(1185〜95)や遠江守(1200〜1205)には就任したが、伊豆守にはならなかった。

源氏との共同統治者

『吾妻鏡』で時政の祖先として平直方の名前を出したのは、彼が源氏との共同統治者だったからと考えられている。

『陸奥話記』

平直方の娘は源頼信の子頼義に嫁ぎ、源義家を産んだ。
義家が平氏と源氏の間に生まれた子であるため、同じ平氏であった時政を直方と同じ立場に位置づけようとしている。

『曽我物語』

時政が頼朝と政子の関係を危険視しつつも挙兵を決断させる心理状況について、頼義と直方の娘との話に言及している。

時政の立場

護良親王の令旨にある「伊豆国在庁時政子孫」や吉田定房の『吉口伝』などの諸史料に基づくと、時政は在庁官人と考えられる。

国府三島に近接した拠点をもっていた時政が国衙と無関係だったとは考えにくい。

時政の上洛

文治元年(1185)10月、源義経が後白河院から頼朝追討の宣旨を得て挙兵した。
義経や行家に半ば脅されるような形で発給したとはいえ、情勢は大きく変わった。

頼朝は朝廷を牽制するべく、政治折衝役として時政を代官として指名した。

上洛した時政には3つの役割が課せられていた。

時政の任務
  1. 京都の治安維持
  2. 平家一門の残党狩り
  3. 義経問題の処理

京都の治安維持

時政には義経の代役が求められていた。
京都守護の役割が義経から時政に変更となったことは、東国政権の朝廷に対する戦略面において大きな転換期となった。
公家にとってのピンチは、武家のチャンスなのだ。

兵糧米の停止

文治二年(1186)1月、時政は高野山領の各荘園へ兵糧米と地頭の停止を命じた。

平家一門の残党狩り

12月17日、頼朝の命令で時政は平宗盛の息子の童二人と平通盛の息子一人を探しだした。
また、遍照寺の奥、大覚寺の北の菖蒲沢で平維盛の嫡子(六代)を生け捕った。
輿に乗せて進んでいると、文覚上人が六代とは師弟関係だと主張し、時政に六代の助命を嘆願した。(『吾妻鏡』同年12月17日条)

24日、文覚上人の弟子が使者として鎌倉にやってきた。

故平維盛卿の嫡子六代公は門弟であるにもかかわらず梟首されようとしています。
平家の残党はすべて追討されました。
このような幼い子を許して何の問題がありましょうか。
とりわけ、(六代の)祖父の内府(平重盛)はあなたのために真心を尽くされました。
ひとつは重盛の功績に報いるため、もうひとつは文覚の面目を立てるため、(六代を文覚に)預けていただけないでしょうか。

結局、頼朝はしばらくの間六代の身柄を文覚に預ける旨の書状を時政に送ったという。(『吾妻鏡』同年12月24日条)

文治の勅許を得るために上洛

11月25日、時政は頼朝の代官として上洛した。

時政は頼朝の舅という立場だけでなく、朝廷の窓口的存在である吉田経房と交流があった。
かつて経房が伊豆守だった時代、時政が在庁官人を務めていた。
そのため時政は頼朝の代官として源義経・源行家と平家残党の追捕と洛中の警護、朝廷との交渉のため上洛した。

吉田経房

後白河をはじめ平清盛や源頼朝に重用され、頼朝が議奏を設けたときも経房がこれを務め、幕府と朝廷の架け橋となった。
彼が残した『吉記』は史料としても重要である。

こうして文治元年(1185)11月28日、源義経らの追捕を名目に朝廷から守護地頭の設置を認められた。

在京中の単独行動

『吾妻鏡』文治二年(1186)2月25日条によると、ある者が時政の命令と称して七条の細工からあぶみ(馬具の一つで、鞍の両脇から馬の脇腹に垂らして乗り手が足を踏みかけるもの)を無理やり取ろうとした。
鍛冶職人から訴えがあり蔵人が尋問を行ったため、時政は大いに驚きすぐに陳謝したという。

お尋ねのあった出家の鍛冶職人が訴えている鐙のことは、まったく命令を出しておりません。
もし下人の中から勝手に訴えることがあるのなら事情を時政に尋ねればいいものを、このような些細なことで院への訴訟にまで発展し、まことに道理にかなわないことだと感じつつ、極めて恐れ多く思っております。

時政が本当に関与していなかったのかどうかは定かではないが、時政の家来が狼藉を働いたのは事実である。
時政も第二の木曽義仲・源義経になる可能性をはらんでいた。

また、京都の群盗18人を検非違使庁に引き渡さずにそのまま処刑したこともあった。
鎌倉へは事後報告となり、13日に書状を送っている。

九条兼実のもとを訪ねる

頼朝は九条兼実を支持していたが、『玉葉』文治二年(1186)3月24日条によると、時政は鎌倉に帰る前に頼朝を介さずに兼実のもとを訪れている。

北条時政来たり。明暁関東に下向すと云々。季長朝臣を以て条々の事を仰せ聞く。
件の男また籍を進らせ季長朝臣に与ふ。その次第咲ふべしと云々。田舎の者尤も然るべし。
物の体太だ尋常なりと云々。又馬二疋を進らす。

『玉葉』文治二年(1186)3月24日条

時政は兼実に馬と籍を与えているが、馬の貢納は臣従の証ともされている。
また、「籍」は名簿のことではないかと考えられている。

時政、京都を去る

3月24日、頼朝は前摂政藤原基通の所領を九条兼実に付けることについて考えていた。
ところが、このことを知った基通が奏聞したので、藤原経房が詳しい事情を時政に伝えて早く鎌倉に戻るとの返事をした。

こうして、時政は鎌倉に帰ることになった。
京都での時政は公平を心がけ私心を忘れて務めてきたので、後白河院をはじめとした朝廷の人々は残念に思った。
そこで、時政自身は鎌倉に戻っても代わりの者を置くように朝廷は何度か命じたが、時政は「どうしても代わりになる人はおらず、ふさわしくない人を置いて問題が起こっては、かえって恐れ多いことです」と辞退した。
ただし、頼朝の命令で京都の守護は北条時定に命じた。(『吾妻鏡』文治二年〈1186〉3月24日条)

鎌倉へ帰還

4月13日、時政が鎌倉に到着した。
時政は京都や畿内で処理したことについて詳しい事情を報告した。
特に、謀反人たちが所有していた没官領の調査を行うべきだと申し上げたが、後白河院の許可は得られなかった。
次に、藤原基通が所領を九条兼実に引き渡すのは嫌だと言っていることについては、とりなしの言葉を加えた。
播磨国の守護人が国衙に対して妨害行為をしていることについては、国衙在庁の報告書と梶原景時の代官の文書を下したが、具体的な行動には移していない。
今南・石負と弓削杣の兵糧米催促については何度も院宣を下しているので、すぐに停止するとの返事が来た。
これらのことは前もって藤原経房を通して頼朝に伝えていたが、頼朝の命令に違うものはなかったという。(『吾妻鏡』文治二年〈1186〉4月13日条)

伊豆国の発展

願成就院の建立

『吾妻鏡』文治五年(1189)6月6日条によると、時政は奥州征伐の勝利祈願のために伊豆国北条の領地内に伽藍の造営を計画した。
この日が吉日だったので事始と立柱・上棟が行われ、供養も行われた。
寺院は願成就院と名付けられ、阿弥陀三尊を本尊とし、不動・多聞等の仏像も安置された。

願成就院が建てられた場所は田方郡内で、南条・北条・上条・中条と呼ばれる地が相互に境を接していた。
その先祖ゆかりの地を選んで寺院を建てることになったのである。

願成就院は現在も北条邸の裏に所在している。

阿弥陀三尊・不動像・多聞天像はかねてより時政が準備していたものらしく、そうなると時政は寺院を建てる前から私的に仏像を持っていたことになる。

「願成就院」と書かれた額が掘り出される

『吾妻鏡』文治五年(1189)12月9日条によると、願成就院の北畔に頼朝の宿を建てるために土地を造成したところ、古い額が掘り出された。
額には「願成就院」の文字が書かれていたという。
『吾妻鏡』は奥州征伐の勝利は時政の祈願のおかげであり、今になってこの額が掘り出されたのは自然の嘉瑞だとしている。

誠にこれは稀代の霊験、濁世の模範というべきであり、これ以上のものはない。
初めをもって後を察し、昔を参照して今を考えるべきであり、この仏閣の不朽、武家の繁栄はこの額の字に異ならないであろう。

『吾妻鏡』文治五年(1189)12月9日条

相当な曲者

梶原景時誅殺

景時誅殺後、時政は遠江守に任命される。
頼朝の時代は御家人と源氏一族の間には厳しい身分差があり、鎌倉殿の知行国の名国司になれるのは源氏一族だけであった。

時政の謎

曽我兄弟との関係

建久四年(1193)5月の富士の巻狩りのとき、所謂”曽我兄弟の仇討ち"が行われたが、『吾妻鏡』によれば兄弟はかねてから時政のもとの出入りしており、弟の時致の名は元服のときに時政から与えられたものだという。
この時、頼朝の家臣である工藤祐経が討たれたが、兄弟は「頼朝に数々の恨みを述べてから自害するつもりだった」と言っていることから、頼朝も狙っていたと考えられる。

牧氏事件による失脚

牧氏事件のきっかけは、畠山重忠の子重保と平賀朝雅の口論だった。
この報せを聞いた牧の方は大岡時親を使者として北条義時に訴え、時政の娘婿で重忠の従兄弟にあたる稲毛重成も重忠の謀反を幕府に訴えた。
結果として、幕府は畠山重忠を謀反人として誅殺した。
また、時政が武蔵国への進出を考えていたことも原因の一つとして考えられている。

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牧氏事件

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晩年の時政

『吾妻鏡』承元元年(1207)11月19日条によると、晩年の時政は願成就院の南に塔婆を建立している。

その後目立った活躍はせず、建保三年(1215)1月6日、腫れ物を患い北条館で亡くなった。享年78歳。

参考資料

  • 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
  • 関 幸彦「北条時政と北条政子―「鎌倉」の時代を担った父と娘」山川出版社、2009年
  • 野口 実 (編)「治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)」清文堂出版、2014年
  • 細川 重男「執権 北条氏と鎌倉幕府」講談社、2019年
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やみみん

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