妖怪

【現代語訳】『絵本三国妖婦伝』周の褒姒編

『絵本三国妖婦伝』の現代語訳です。長いので中国〜インド〜中国〜日本に分割します。
今回は白面金毛九尾の狐が周の褒姒に化けた時の話です。

あらすじ

周廬氏、懐妊19年にして産す 悪狐再び唐土に化生す

周の宣王(周の第十一代黄帝)は武王の代から数えて十二代目の子孫にあたり、御諱は静という。
危機的状況にあった周を再建した賢君で、世を学び尊崇した。

けれどもある時、夜になると洛中の児童が手拍子を打って巷に謡言した。

月将昇 (月が昇ろうとしている)
日将没 (日が沈もうとしている)
桑弧箕服(桑の弓、箕の服)
実亡周国(まさに周の国を滅ぼすだろう)

この歌を聞いて驚き、群臣にその意味を聞いた。
左宗伯召穆が占って言うには
「月が昇ろうとするのは国家に陰りがさすということです。日は君の象徴ですから、これが没するのは不吉なことです。後世、女王が国を乱し、弓箭の禍いとなります」
宣王は、
「宮中の嬪妃で怪しい者はいないか」
と尋ねると、
「先王(厲王・周の第十代皇帝)の側室に廬氏という二十五歳になる美女がいます。ご懐妊し、女子を産みました」
と聞いて、怪しいと思って廬氏を問い詰めると、
「先帝厲王の狩りにお供しましたが、道の傍らに塚が二つ、碑が一つありました。
文字が刻まれていましたが、どういう意味なのかはわかりませんでした。お供の諸官に聞くと、『これはその昔、夏の桀王の代に、褒城に神人がいた。二つの龍に姿を変えて、桀王の前に現れた。王は恐怖のあまり龍を殺し、龍は泡を吐いて死んでしまった。その精を壺に蓄え、櫃にしまった。
その後、縁起の悪いものを宮中に置いてはいけないと郊野に出して深く埋め、人に見つかることを恐れて塚を立てて印とした。

その後、殷の紂王の寵妃・妲己に心を惑わされ、淫酒を好み朝政は荒み、殺伐を好んで悪行増長し、人民を殺しつくそうとするのをお嘆きになり、周の祖である武王が兵を掲げて殷を滅ぼした。
紂王を倒し、妲己を生け捕って斬ろうとすると、年老いた狐の姿を顕し飛び去ろうとした。軍師太公望はこれを討ち取らせ、悪狐の屍をここに埋めて、後世誰も掘り起こすことがないように塚を築き、碑を建ておいたのだ。
と申し上げているのを厲王も聞いていて、
『害をなした畜生の屍がどうやって帝威に怨みをなすであろうか。ずっと前のことであれば、もう怒りはないだろう、開けてみよ』
と命じられたので、諸臣は押し返して諌めました。

『そのような不吉なものをどうして見ようとするのですか。開けて見たところでいいことは一つもありません。古来より禁じられていることであり、大賢奇才の太公望が開けないように置いたものを、どうして破るのですか。このままにしておきましょう」
とさまざま申し上げたが、なおも聞き入れず、
『龍の精は六百余年、狐の屍も二百余年を経て、形も残っていないだろう。何も思い悩むことはない。早く開けろ』
と言ったが、群臣は了承しませんでした。

『形もないものを見ても仕方ないでしょう。数百年も開けることを禁じられていたものを今開いて、国の父母である帝の御身に災いが起こったら、後悔しても遅いのですよ』
と口々に諌めたが、廣王は大いに怒り、
『綸言は出てかえらざること汗の如し(皇帝が一旦発した言葉〈綸〉)は取り消したり訂正することができないという中国の格言)。何かあったところでどうするのだ。早く開き、中に納めていた入れ物があったらそのまま持ってこい』
と数人の臣下に命じて帰った。

帝の命令を承った官人は仕方なく人夫を召集し、碑の下から塚の内まで尽く掘らせると、大石の蓋があった。大勢でこれをどかすと、一個の壺があった。
引き上げてみると、鉄の鎖が八重に絡み合っていた。また、塚を開いて朽ち果てた箱と壺を手に入れ、ともに泥土を洗って荷物に乗せて帰った。
その旨を奏聞すると、厲王は鎖を解かせ、蓋を開けさせると龍の壺からはひと握りの白いものを出して、そばに置いた。狐の壺を見ると何も入っておらず、底に水が少し溜まっていただけだった。

集まっていた諸官が女官たちも誘って覗いてみると、不思議なことだ。壺の底に溜まっていた水がふつふつと湧き上がる音がして、次第に泡となり、壺の縁まで湧き上がり、後には五寸六寸高く溢れ、部屋中に溢れて白いかたまりに流れかかると、一つの玄亀になった。

帝をはじめ、諸官官女は流れてくる泡をよけ、はるか遠くまで離れて、
『いったいどうなってしまうのだ、放っておいてよいのか』
と、不審に思いながらも命令を守っていると、その時七歳だった私は、ふと玄亀を見ようと泡の中へ走っていきました。縦横に亀の歩いた跡をたどると、不思議かな、泡が出ていた桶は元のように鎮まり、部屋の中にあふれていた泡も亀と一緒に消えて、元のように壺の底に水が少しだけ溜まっていたのは、なんとも心の晴れないことでした。

私はその時身ごもりましたが、先帝は、
『男もおらず、幼くして身ごもるのは珍しいことだ』
と大切に手当てしていたが、年月が過ぎても子供が生まれなかったので、病気なのではないかと思いながら十九年が過ぎました。
今になって女の子を産みましたが、『不吉な子だ』と速やかに皇城の溝に浸して死なせました」
宣王はこれを聞いて、
「これは先王が残した災いだったのか」
と言ったが、有司が訴えるには、
「長安に一人の男が山桑に弓を負い、また一人の女が箕草で織った箭袋を背負って商売をしていた。
卜占によると女には禍いがあるということだったので、男は許し、女を捕らえて奏聞させます」
宣王は喜んで、ついにその女を斬らせた。

この年、宣王は病に倒れて亡くなられたので、太子・宮涅が即位し、幽王と名付けられた。
けれどもかの弓を背負った男はその場を逃れ去り、林の中に隠れていたところ、赤ん坊の泣き声が聞こえたので怪しんで見ると、女子が青草の上に捨てられ鳥たちが覆っていたところ拾ってこう思った。
私の妻は朝廷に捕らえられてしまったので、助からないだろう。この子を育て、老年の頼みにしようと抱っこして褒城へ走り、難を逃れた。
けれども召䅣卜筮によると噂話に応じた女を斬り、廬氏を欺いたのであった。

褒姒、周に幽王を昏迷せしむ 犬戒の兵、幽王を弑す

周の十三代目の皇帝・幽王は乱暴で、恩も少なく、賢臣を疎んじ妓女を愛し、その治世は正しいものとはいえなかった。
賢良な諸臣が眉をひそめる時に三川の山や川竭岐山が崩れると、趙叔帝は、
「天変が続くのは、世が乱れる兆しです」
王が民を憐れみ正しい政治を行うように諌めると、虦石父という佞臣が、
「山が崩落し、大地が震えているのはいつものことではないか」
と言ったので、王は趙叔帝を怒って官を解き、故郷に帰らせた。

諌議大夫・褒珦が諌めて言うには、
「よくない自然現象が起こるのは、王に仁恵がないのを戒めているのです。なおかつ趙叔帝は賢臣です。官を解くべきではありません」
幽王は大いに怒って褒珦を囚えさせた。

褒珦は褒城の出身だったが、故郷の妻子は彼が囚えられるのを嘆き悲しみ、何とかして助け出そうと考えているところに、褒城に住む一人の女子を見つけた。
その生まれつき清らかで麗しいさまは他に類を見ないほどであった。
家が貧しく、着る物や食べる物が足りない時は常に、
「この女を人に売ろう」
と聞いて、百金で買取り着飾らせて、褒珦の子・褒洪が朝廷で奏上したのは、
「私の父は帝を諌めて、故郷の親族は悲嘆に堪えられません。美女を差し出すので、どうか罪をお赦しください」

幽王が女を召し出して見ると、年は十四歳でたおやかな容姿であった。
王は大いに喜び、速やかに褒珦を赦して国に帰し、美女を貰い受け、褒の地の出身であることから彼女を褒姒と名付けた。
王は褒姒を後宮に入れて、その寵愛は厚く日夜淫楽に耽り、真面目に政務を執らなくなった。
彼女のために皇后・申氏ぶんしと太子・宜臼ぎおうを廃し、褒姒を皇后に即位させ、彼女が産んだ伯服を皇太子とした。

けれども幽王は翠花宮で日夜褒姒と遊んでいたが、褒姒は決して笑うことはなかった。
幽王はひそかに虦石父と話し合って、
「彼女を笑わせることができたら、褒美として千金を与えよう」

ここにおいて、ひとつの謀が行われた。
先王は皇城の外に烽火台を置き、帝都に異変が起こった時は諸侯に駆けつけてもらうために烽火を上げていたのだが、ここ数年は太平の世であったため烽火を上げることはなかった。

大王は、
「明日烽火を上げ、皇后を喜ばせよ」
幽王は大いに喜んだが、その事を命じられた群臣は王を諌めて、
「烽火は緊急事態に備え、諸侯に忠誠を誓わせるためのものです。理由もなく烽火を上げれば、もし本当に何かあった時にどうするのですか」
と申し上げたが聞き入れられず、ついに至るところに烽火を上げさせて、幽王が褒姒とともに望渡楼からこれを見ると、都の近くにいた諸侯はみな兵を引き連れて来たが、王城には何もなかった。
褒姒は楼上で諸侯に戯れた。
「王位は長く続かないだろう」
と罵って帰る。このような非道な行為が重なったので諸臣が諌めたが、みな幽王によって誅戮された。

「褒姒の言うことは聞かない」と前皇后・申氏の弟申候も諌めたが、申皇后は廃位されて囚えられ、申を滅ぼそうとした。申候は大いに驚いたが、兵も少なければ防戦する力もなく、近国にある西夷の犬戒に助けを求めると、犬戒王は数百万の軍勢を率いてたちまち帝都に勢いよく駆けつけ、皇城を何重にも取り囲んだ。

幽王は慌てて狼煙を上げて諸侯の兵を召したが、「どうせまたふざけているのだろう」と誰も助けに行かなかった。
そうこうしているうちに、ついに犬戒が城に乱入し、火を放って宮室を焼きたてたので、幽王は皇城を逃れ去り離山の下に着いたが、追いついた戒の兵によって討ち取られた。在位十一年で戒に滅ぼされてしまったのであった。

申候は犬戒王とともに、
「幽王の無道は褒姒が引き起こしたものだから、逃してはならぬ」
と翠華楼に入り、褒姒を捕らえ、引き出して首を斬らせ、数え切れないほどの嬪妃が殺された。

犬戒王は城中で庫蔵の宝物を取り掠めていると、ようやく鄭の桓公、秦の襄公、晋の文公、衛の武公らが援軍に来た。桓公は乱軍の末に戦士したが、その子供掘突兵が犬戒を追い払い、都の騒乱を鎮め、諸侯らと協議の末に元の太子・宜臼を即位させた。
これを周の第十四主・平王とする。

申候は元より平王の母方の叔父だったので、申国公として尊ばれた。
この乱によって周は大いに衰退し、平王は都を鎬京から東洛邑(現在の洛陽)に遷都し、東周とした。
諸侯の勢いは盛んになり、帝位はますます衰えていった。けれども、朝廷の安定した政事によって万民は安堵した。

褒姒が産んだ伯服は母の勢いに乗じて皇太子に立てられたが、犬戒の乱で都を追放され、母の故郷へ彷徨い現地民として暮らしていたが、妖狐の忘れ形見であったからか、郷の民に疎まれ追放されようとした時、たちまち美しい女に姿を変え、何処へともなく姿をくらました。
戦乱によって周の君臣は正しい心を取り戻し、再び国を傾けることが容易ではなくなったので、「時節を待って日本に渡ろう」と悪狐は影を潜めた。

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