内容
人王七十六代近衛天皇の御代、この世に並ぶものがいないほど見目麗しい女性が宮中に現れた。
彼女を見た者は身も心も惑わし、物思いに耽るようになった。
ある時、帝がこの噂を聞きつけて、自分の后に迎えようと急いで準備を始めた。
けれども、妃に迎えてから七十五日後におかしくなり、彼女を「玉藻の前」と名付けた。
玉のように美しい人だったので、玉藻の前という名前になったという。
ある時、天文博士として随一だと知られる安倍光栄が帝の病の原因を占えとの命を受けて参内した。
去年、晴明という極めて優秀な博士が命じられてすぐに参内した。
先年から久しく時が経っていたが、晴明は化生の者で存命だったので、再び参内した。
臣下・大臣にありのままを申すように言われて、晴明は占いの結果を申し上げた。
「此度の帝の病の原因は、容顔美麗の化生の女を后として迎え、これを愛したがゆえにその祟りを受けられたのです。
彼女はその昔、唐土(中国)において褒姒という名前の女に化けて周の幽王を誘惑しました。
やがて合戦になり、周の軍勢は悉く倒されました。
大国の合戦の習わしによって、負けた方から男女問わず容顔美麗な人質を出すことになりましたが、褒姒は人質を渡す際、千人の貴僧を集めて年老いた狐を生きたまま壇の上に置き、さまざまな祈祷を行わせました。
すると、狐たちはたちまち美しい女に姿を変えて、褒姒は彼女たちを幽王の方へ差し出しました。
しかし、幽王の褒姒への寵愛は変わりませんでした。
幽王は『これほどの美しい人が笑ったら、よりいっそう美しく見えるだろうなあ』と常々考えていました。
ある時、臣下が処刑されたのを見て、褒姒が初めて笑いました。そのときの顔は、この上もなく美しかったそうです。
幽王は彼女をもっと笑わせようと思い、罪のない民さえも殺められました。
それゆえ、大臣や公卿、国中の兵士たちが集まって、『あの皇帝を殺めなければ、天下は平穏にならない』と押し詰めて、帝位を傾け幽王を滅ぼしました。
けれども、女は我が身の可愛さに、夏の梁王のもとに逃げ入りました。
女は梁王からもこの上ない寵愛を受けましたが、ここでも笑わずにいました。
ある時、火が放たれたのを見て、女は梁王の前で初めて笑顔を見せました。
この王もまた、彼女の笑った顔を見たいと願って咎のない民の家に火を放ちました。
大唐では、禁中に火の手が上がったときは国中の軍兵が諸大臣のもとへ馳せ参じて内裏を警護する習わしがありましたが、諸軍兵が事情を尋ねると、諸大夫は梁王の女への寵愛によるものだと答えました。
その後、軍兵たちは火が放たれたのを見ても参内しなくなりました。
けれども、他国から敵が押し寄せて来て禁中を打ち破り、火を放ちましたが、例によって軍兵たちは一人も駆けつけませんでした。
梁王は滅ぼされ、女もまた殷の周王の国へ逃げ入りました。
女は周王にも寵愛され、放火を見た女が笑うのを見て臣下や大臣を処刑しました。
このようにして、大唐ではたくさんの臣下が滅ぼされました。
今、日本へ逃げてきたのは大唐の国々にて名を替えては国を傾けてきた女です。
周の幽王ときは褒姒、夏の梁王のときは且嬉、殷の周王のときは末嬉という名でした。
また、ある時、女は天竺(インド)に化けて現れました。
天竺では且嬉、大唐では末嬉という名、そして日本では玉藻の前という名です』
晴明がそう言うと、大臣・公卿たちはみな肝を冷やして驚いた。
その後、公卿たちが証拠はあるのかと尋ねると、晴明は『女を召し寄せて立たせておき、五色の幣を持たせて泰山府君の法を修するのです。たちまち形相を変えて本当の姿を現すでしょう』と言った。
この旨を臣下が玉藻の前に伝えると、腹を立てて『どうして帝の后がそのようなことをしなくてはならないのか』と言って従わなかった。
公卿・大臣が『帝のご病気を治すためなのです』としきりに頼んだので、渋々同行した。
晴明がさまざまな秘術を成す勤修の威力は堅固だったので、女は自然と正体を顕し七色の狐となって外へ逃げていった。
この狐は関東にある下野国の那須野の原にて上総介に射止められた。
狐は末世まで那須野に祟りをなそうとしていると晴明が申したので、東国に上総介と三浦介の両人ともに弓矢をとり、軍勢を率いて出発した。
しかし、狐に逃げられてしまったので、皆それぞれの家に帰り、伊豆箱根若宮八幡宮の氏神に祈念した。
その力によって、その夜、夢の中で上総介と三浦介は鏑矢を賜った。
また、夢のお告げで『百日間、犬を狐に見立てて矢を射る練習をしなさい。矢が当たるようになってからまた狩りに行けば、狐を退治するのはたやすいことでしょう』と告げられたので、二人はお告げのとおり百日間稽古をした後、再び那須野に攻め入った。
狐が現れたところを上総介が射止めた。
二人はともに上洛して天下に名を馳せ、帝がどのようにして狐を退治したのか知りたいというので、犬を連れてきて騎馬の支度をした。
実際に犬を射る様子をご覧になった帝は感心して、犬追物として今の世まで続いている。
近衛天皇の御代に現れた狐は、退治された後もその血が那須野の原にこぼれて石となり、近づいてきた人々を傷つけた。
後にこの石の前を通りかかった玄能法師によって砕かれた。