法住寺合戦は、寿永二年(1183)11月19日、木曽義仲が後白河法皇の御所法住寺殿を襲撃し、後白河を幽閉して政権を掌握した合戦である。
背景
飢饉による影響
寿永二年(1183)7月、木曽義仲は京都に到着したものの、歴史的な飢饉の影響で配下の軍勢が乱暴狼藉を繰り返した。
義仲は後白河に以仁王の遺児北陸宮の即位を要求したが、かえって両者の溝は深まるばかりだった。
十月宣旨への憤り
同年10月、義仲が平氏追討に向かっている間に、後白河は源頼朝に東海道・東山道・北陸道の支配権を認めた。
しかし、北陸道は義仲が占領していた地域だったので、後白河は宣旨の内容から北陸道を除いた。
十月宣旨の発給は後白河が政治交渉の相手として義仲ではなく頼朝を選んだことを意味しており、義仲の後白河への不満はよりいっそう積もった。
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後白河が義仲を挑発
その後も後白河は多田行綱や源光長、延暦寺・園城寺の悪僧を呼んで法住寺殿に堀を立てた。
経過
寿永二年(1183)11月19日、木曽義仲は総勢千騎のうち五百騎程の軍勢を率いて法住寺を襲撃した。
後白河は平知康を総大将として、天台座主明雲・園城寺長吏円恵法親王ら悪僧を動員した。
戦いは義仲の圧勝に終わり、法住寺殿は焼失した。
明雲は討たれ、円恵法親王もまた華山寺の辺りで討たれた。(『玉葉』寿永二年〈1183〉11月22日条)
後白河は義仲によって幽閉された。
その他、公卿や侍臣も十余人の死傷者が出ている。
『平家物語』では、後白河は合戦の死者を悼んだという。
一方、『玉葉』では後白河はため息をつく気配すらなかったという。
影響
合戦で後白河方が敗北したことにより、関白藤原基通をはじめとした多数の院近臣が官職を解かれた。
後任の関白には、義仲と協力関係を結んだ前関白藤原基房の子で12歳の師家が就任した。
義仲が院御廐別当・伊予守となる
参考資料
- 福田 豊彦 (編集)、関 幸彦 (編集)「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年