角色

北条義時

北条義時は源頼朝とともに鎌倉幕府の政治体制を確立した人物とされている。
室町幕府に成立した『建武式目』には、鎌倉幕府を作り上げた頼朝と承久の乱に勝利した義時が同列に語られている。

生い立ち

長寛元年(1163)、北条時政の次男として生まれた。
兄弟は嫡男に宗時、三男が時房、四男に政範がいる。

なお、宗時は治承・寿永の乱で討死している。

北条氏ではなかった?

『吾妻鏡』で相模守に就任する以前は「北条小四郎」「江間小四郎」「江間殿」などと呼ばれている。
北条氏として記されたのは23回、江間氏として記されたのは59回のため、江間の名字で記されている方が多い。
また、北条氏として記されたときは父時政や兄宗時との連名で「同四郎」と記された6回も含むので、単独で北条氏として呼ばれたのはわずか17回にすぎない。

「江間」とは北条氏の領地である北条の隣の地名である。
義時は北条氏の庶家江間氏の始祖で、父時政から江間を与えられて江間小四郎と名乗っていた。

息子・北条泰時の呼び名

義時の嫡子北条泰時は『吾妻鏡』では一度も北条の名で呼ばれておらず、名字を記した場合はすべて「江間」あるいは「江馬」で記されている。

時政の後を継ぐ者

時政の嫡子で義時の兄にあたる北条宗時は、石橋山合戦で討死した。

源頼朝にすべてを学ぶ

北条氏は鎌倉殿外戚(母方の親戚)として地位を築く一方で、義時は頼朝から「家子専一(親衛隊隊長)」といわれるほどの側近の地位を与えられた。

治承・寿永の乱に参戦

治承四年(1180)8月に頼朝が挙兵すると、義時も父や兄とともに参戦した。

亀前事件

寿永元年(1182)11月、義時が二十歳の頃、頼朝の愛人亀前は伏見広綱という者の家に住んでいた。
ところが、時政の妻牧の方がひそかに頼朝が愛人の家に通っていることを政子に伝え、激怒した政子は牧の方の父宗親に命じて広綱の家を破壊させた。
広綱は亀前を連れてなんとか逃げ出したという。

一般に牧宗親は牧の方の父とされているが、『吾妻鏡』建久二年(1191)11月12日条では「牧の方が京都から下向された。兄弟の武者所(牧)宗親・外甥の越後介高成らを伴われたという。」とあるので、宗親は牧の方の兄弟という説もある。

頼朝は牧宗親の髻を切り落とし、「政子を大事に思うのはよいが、その命令に従うにしてもどうして事前に報告してこなかったのだ。すぐに恥辱を与えるというのは、何を考えているのか」と憤慨したので、宗親は泣きながらその場を立ち去った。
その夜、頼朝は亀前が避難していた大多和義久の家に泊まったという。

ところが、頼朝が宗親を処罰したことを不満に思った時政は伊豆国へ帰った。
頼朝は激怒し、梶原景季に「江間(義時)は穏やかな者だから、父(時政)が休暇の申請も出さずに国へ帰っても従ってはいないだろう。鎌倉にいるかどうか見てこい」と命じた。
景季が帰参して義時が帰っていないことを報告すると、頼朝は景季を介して義時を呼び出し、「宗親が奇怪な行動を取ったので処罰したところ、時政が不満に思って国に帰ったのはまったく意に介さないことだ。お前が時政に従わなかったのは特に感心するところである。必ず子孫の護りとなるだろう。後で恩賞を与えよう」と言った。
義時はこれに対して回答はせず、「恐れ多いことです」とだけ言って退出したという。

頼朝の寝所警備に抜擢される

養和元年(1181)4月7日、頼朝は御家人の中からとりわけ武芸に優れた信頼できる者を選出し、毎晩寝室の警備をするよう命じた。
この寝室警備には義時をはじめ下河辺行平・結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・榛谷はんがや重朝・葛西清重・三浦義連・千葉胤正・八田友重が選ばれた。(『吾妻鏡』同日条)

西国遠征

元暦元年(1184)8月8日、義時は源範頼率いる平家追討軍の一員として西海に赴いた。
翌年2月1日には範頼とともに豊後国に上陸し、3月11日には頼朝から「心を一つにして豊後国へ渡海したことに満足している」との手紙をもらった。

義時の結婚

建久三年(1192)9月25日夜、比企朝宗の娘で姫の前という幕府の官女が義時邸を訪れた。
権威無双といわれる美しい女房で、頼朝に気に入られていた。
ところが、ここ1~2年に渡って彼女に惚れた義時が頻繁に手紙を送っていたのだが、一向に受け入れられなかった。

それを聞いた頼朝は義時に離婚しないと誓う旨の起請文を書かせて、姫の前に義時の妻となるよう命じたので、このようなことになった。(『吾妻鏡』同日条)

北条氏は源実朝の後見になったが、比企氏は源頼家の後見人でもあった。義時と姫の前の婚姻は、比企氏と北条氏を結びつけるものとなったのである。

将軍家を巻き込んだ権力闘争

正治元年(1199)1月13日、源頼朝が没した。53歳であった。
頼朝という絶対的な支配者を失った鎌倉幕府は、激しい内部抗争の時代を迎える。
治承・寿永の乱で活躍した戦友ともいえる御家人たちが繰り広げた争いの勝者こそが、この義時である。

御家人たちの内部抗争
  1. 安達景盛討伐未遂
  2. 梶原景時弾劾
  3. 梶原景時誅殺
  4. 越後城氏の乱
  5. 阿野全成誅殺
  6. 比企氏の乱
  7. 源頼家滅亡

だが、この内部抗争において義時は特に自分から動いたわけではない。
どちらかといえば、父時政の駒のひとつにすぎなかったのだ。

十三人の合議制

正治元年(1199)4月12日、十三人の合議制が始まり、義時は父とともに13人の御家人に含まれている。

実朝政権時代

実朝との関係

元久元年(1204)9月15日、実朝が義時の邸宅を訪れた。
実朝はすぐに帰ろうとしたが、その夜は月食だということで不本意ながらも留まることになり、義時はたいそう喜んだ。
この時、その場にいた二階堂行光が実朝と義時の関係を藤原師実と白河院の関係に例え、義時は感心したという。(『吾妻鏡』同日条)

白河院が宇治へ出かけて帰ろうとしたとき、京極太閤(藤原師実)が「余興が尽きないのでまだ残っていただきたい」と申されました。
ところが、翌日帰った場合、宇治から見て京都は北の方角にあるため、方忌の憚りがあるとのことでした。
殿下(師実)がたいへん心残りに思われていたところ、藤原行家朝臣が喜撰法師の詠歌から引用して、宇治は都の南ではなく巽の方角だと申しました。
こうして白河院はその日のお帰りを止められました。今晩の月食は、まことに天がそうさせたのでしょう。

喜撰法師の詠歌「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」(『古今和歌集』983)

畠山重忠誅殺

元久二年(1205)6月、時政と牧の方が重忠の謀反を訴え、義時と時房に重忠追討を命じた。

重忠は時政の娘婿で、義時にとっては義理の兄弟にあたる。
重忠の謀反を信じられなかった義時らは真偽を確かめてから行動するよう訴えたが、時政と牧の方に押し切られて鎌倉を出陣することとなった。

武蔵国二俣川で対峙した重忠の軍勢はわずか134騎。
とても謀反を計画している者の兵力ではなかった。
重忠の首を見て泣いた義時は、鎌倉に帰ると時政を糾弾した。
以下は、『吾妻鏡』元久二年(1205)6月23日条の記述である。

重忠の弟・親類はほとんどが他所にいて、戦場にいた者はわずか100人余りでしたので、重忠が謀反を企てたということは誤りでした。
あるいは讒言によって、(重忠は)誅殺されたのではないでしょうか。とても憐れです。
首を斬って陣に持ってきたのを見ましたが、長年顔を合わせて親しくしてきたことが忘れられず、涙を抑えることができませんでした。

時政は一言も答えなかったという。

牧氏事件

畠山重忠誅殺が誤りであったことから時政は焦りを感じていた。
時政と牧の方が娘婿である清和源氏の京都守護平賀朝雅を将軍にしようと源実朝暗殺を企てていたことが発覚した。
政子の命を受けた御家人たちが実朝を連れ出し、義時邸に匿った。

この一件によって時政は失脚し、出家した上に伊豆国北条へ追放された。
平賀朝雅もまた、京都に討ち取られた。

牧氏事件は義時と政子が時政と牧の方を幕府から追放するために起こしたと考えられている。(『明月記』元久二年〈1205〉閏7月26日条)

父時政を追放した義時は、苛烈で冷徹果断、慎重な性格に恵まれた政治指導者となった。

幕府中枢への権力集中をめざす

承元三年(1209)11月14日、義時は自身の郎従の中で特に功績のあった者を御家人にしてほしいと申し出た。
内々に審議が行われたが、実朝は後の災いを招くとして却下した。(『吾妻鏡』同日条)

そのようなことを許せば、その者たちは子孫の代になって昔の由緒を忘れ、誤って幕府へ直参を企てるのではないか。
後の災いのもとになるから、絶対に許してはならない。

和田義盛との対立

建暦三年(1213)2月16日、信濃国住人の泉親衡らが頼家の遺児である栄実を大将軍に擁立して義時を討つ謀反の計画を企てていたことが発覚した。
この謀反計画には和田義盛の子義直と義重、甥の胤長らが関わっていた。

そして同年5月2日、義盛は挙兵した。

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和田合戦

建保元年(1213)5月に起こった戦い。 和田氏は相模国最大の豪族三浦氏の分家で、和田義盛は鎌倉幕府草創期からいる古残の御家人で、治承四年(1180)11月7日には初代侍所別当に任命された。合戦当時は ...

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晩年の義時

貞応三年(1224)6月、義時は没した。享年62歳。

義時の妻に毒殺されたという噂もある。(『明月記』嘉禄三年〈1227〉4月11日条)

参考資料

  • 平 雅行 (編)「公武権力の変容と仏教界 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻)」清文堂出版、2014年
  • 野口 実 (編)「治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)」清文堂出版、2014年
  • 細川 重男「執権 北条氏と鎌倉幕府」講談社、2019年
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