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北条義時

義時の人生は、「本人は何もしていないのに周りで大騒ぎが起き、義時が巻き込まれる」というようなことが何度も繰り返される。

生い立ち

北条氏ではなかった?

『吾妻鏡』で相模守に就任する以前は「北条小四郎」「江間小四郎」「江間殿」などと呼ばれている。
北条氏として記されたのは23回、江間氏として記されたのは59回のため、江間の名字で記されている方が多い。
また、北条氏として記されたときは父時政や兄宗時との連名で「同四郎」と記された6回も含むので、単独で北条氏として呼ばれたのはわずか17回にすぎない。

「江間」とは北条氏の領地である北条の隣の地名である。
義時は北条氏の庶家江間氏の始祖で、父時政から江間を与えられて江間小四郎と名乗っていた。

息子・北条泰時の呼び名

義時の嫡子北条泰時は『吾妻鏡』では一度も北条の名で呼ばれておらず、名字を記した場合はすべて「江間」あるいは「江馬」で記されている。

時政の後を継ぐ者

時政の嫡子で義時の兄にあたる北条宗時は、石橋山合戦で討死した。

源頼朝にすべてを学ぶ

北条氏は鎌倉殿外戚(母方の親戚)として地位を築く一方で、義時は頼朝から「家子専一(親衛隊隊長)」といわれるほどの側近の地位を与えられた。

亀前事件

寿永元年(1182)11月、義時が二十歳の頃、頼朝の愛人亀前は伏見広綱という者の家に住んでいた。
ところが、時政の妻牧の方がひそかに頼朝が愛人の家に通っていることを政子に伝え、激怒した政子は牧の方の父宗親に命じて広綱の家を破壊させた。
広綱は亀前を連れてなんとか逃げ出したという。

一般に牧宗親は牧の方の父とされているが、『吾妻鏡』建久二年(1191)11月12日条では「牧の方が京都から下向された。兄弟の武者所(牧)宗親・外甥の越後介高成らを伴われたという。」とあるので、宗親は牧の方の兄弟という説もある。

頼朝は牧宗親の髻を切り落とし、「政子を大事に思うのはよいが、その命令に従うにしてもどうして事前に報告してこなかったのだ。すぐに恥辱を与えるというのは、何を考えているのか」と憤慨したので、宗親は泣きながらその場を立ち去った。
その夜、頼朝は亀前が避難していた大多和義久の家に泊まったという。

ところが、頼朝が宗親を処罰したことを不満に思った時政は伊豆国へ帰った。
頼朝は激怒し、梶原景季に「江間(義時)は穏やかな者だから、父(時政)が休暇の申請も出さずに国へ帰っても従ってはいないだろう。鎌倉にいるかどうか見てこい」と命じた。
景季が帰参して義時が帰っていないことを報告すると、頼朝は景季を介して義時を呼び出し、「宗親が奇怪な行動を取ったので処罰したところ、時政が不満に思って国に帰ったのはまったく意に介さないことだ。お前が時政に従わなかったのは特に感心するところである。必ず子孫の護りとなるだろう。後で恩賞を与えよう」と言った。
義時はこれに対して回答はせず、「恐れ多いことです」とだけ言って退出したという。

将軍家を巻き込んだ権力闘争

正治元年(1199)1月13日、源頼朝が没した。53歳であった。
頼朝という絶対的な支配者を失った鎌倉幕府は、激しい内部抗争の時代を迎える。
治承・寿永の乱で活躍した戦友ともいえる御家人たちが繰り広げた争いの勝者こそが、この義時である。

御家人たちの内部抗争
  1. 安達景盛討伐未遂
  2. 梶原景時弾劾
  3. 梶原景時誅殺
  4. 越後城氏の乱
  5. 阿野全成誅殺
  6. 比企氏の乱
  7. 源頼家滅亡

だが、この内部抗争においても義時は特に自分から動いたわけではない。
どちらかといえば、父時政の駒のひとつだったのだ。

十三人の合議制

正治元年(1199)4月12日、十三人の合議制が始まり、義時は父とともに13人の御家人に含まれている。

畠山重忠誅殺

元久二年(1205)6月、時政と牧の方が重忠の謀反を訴え、義時と時房に重忠追討を命じた。

重忠は時政の娘婿で、義時にとっては義理の兄弟にあたる。
重忠の謀反を信じられなかった義時らは真偽を確かめてから行動するよう訴えたが、時政と牧の方に押し切られて鎌倉を出陣することとなった。

武蔵国二俣川で対峙した重忠の軍勢はわずか134騎。
とても謀反を計画している者の兵力ではなかった。
重忠の首を見て泣いた義時は、鎌倉に帰ると時政を糾弾した。
以下は、『吾妻鏡』元久二年(1205)6月23日条の記述である。

重忠の弟・親類はほとんどが他所にいて、戦場にいた者はわずか100人余りでしたので、重忠が謀反を企てたということは誤りでした。
あるいは讒言によって、(重忠は)誅殺されたのではないでしょうか。とても憐れです。
首を斬って陣に持ってきたのを見ましたが、長年顔を合わせて親しくしてきたことが忘れられず、涙を抑えることができませんでした。

時政は一言も答えなかったという。

牧氏事件

畠山重忠誅殺が誤りであったことから時政は焦りを感じていた。
時政と牧の方が娘婿である清和源氏の京都守護平賀朝雅を将軍にしようと源実朝暗殺を企てていたことが発覚した。
政子の命を受けた御家人たちが実朝を連れ出し、義時邸に匿った。

この一件によって時政は失脚し、出家した上に伊豆国北条へ追放された。
平賀朝雅もまた、京都に討ち取られた。

北条時政追放後

父時政を追放した義時は、苛烈で冷徹果断、慎重な性格に恵まれた政治指導者となった。

幕府中枢への権力集中をめざす

新たな将軍となった源実朝はまだ幼く、幕府の政治を安定させるためには幕府中枢に権力を集中させるしかないと考えたのか、義時は承元三年(1209)11月に守護交代制を導入しようとする。
しかし、この制度は下野小山・下総千葉・相模三浦の三大豪族の反対を受けて中止された。

参考資料

  • 野口 実 (編)「治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻)」清文堂出版、2014年
  • 細川 重男「執権 北条氏と鎌倉幕府」講談社、2019年
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やみみん

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