鎌倉時代

比企氏の乱

建仁三年(1203)3月、源頼家は病に倒れ、7月には危篤に陥ってしまう。
幕府内では早くも頼家の後継者問題が浮上し、北条政子たちは複数の源頼朝の血縁者に幕府の支配権を分割相続させることで源氏将軍の統治を安定して継続させようと考えた。
そこで、頼家の長男一幡に関東28ヵ国地頭と日本国惣守護職を、頼家の弟千幡(後の源実朝)には関西28ヵ国地頭を譲るという決定を下したのである。

しかし、頼家の妻若狭局の父比企能員は猛反対した。
政子たちが下した決定は比企氏一族にとって将軍外戚としての権威を半減させられることを意味するからである。

北条氏 VS 比企氏

北条氏は源実朝の後見で、比企氏は源頼家の後見だった。

源頼家と比企能員の密談

御所の寝室で源頼家と比企能員が北条時政討伐の密談をしているのを障子越しに聞いた北条政子は、事の重大性に驚き、すぐに書状を書いて女房に渡し、時政のもとに遣わした。
路上で女房からこの話を伝えられた時政は、比企能員討伐を決意した。

時政は大江広元宅を訪れ対応策を相談するが、広元は時政に思いとどまるよう説得する。
帰り道で天野遠景・仁田忠常の献策を入れて能員の誅殺を決意した時政は、広元を自宅に呼び寄せ味方に付くことを強要した。

北条時政によって討たれる

時政は能員を薬師如来供養と称して名超亭に誘い、能員をを誅殺した。
この知らせを受けた政子は頼家が判断力を失った状態にあるとして幕府の主導権を掌握し、比企氏の謀反を宣言して討伐軍を派遣した。
このとき、若狭局と一幡も討たれている。

『吾妻鏡』は基本的に北条氏にとって都合のいいことしか書かれていない。 この一連のできごとも北条氏による創作とする見解も存在するため、内容を鵜呑みにするのは危険である。

源頼家はどこにいたのか

『愚管抄』において頼家は大江広元宅で昏睡状態に陥っていたと記されている。
だが、頼家がそのまま動いていなかったとすると、頼家と能員のが密談を行った場所と時政が広元に相談した場所は同じになる。

比企氏の乱がもたらしたもの

頼家派の壊滅

比企氏の乱によって、源頼家の支持勢力は壊滅状態に陥った。
政子は意識が回復した頼家を鎌倉殿から退位させると、実朝に家督を継承させた。

幕府政治は将軍生母北条政子と、乳母夫北条時政が対立する段階へ移行していく。
頼朝・頼家と二代に渡り続いた源家将軍主導の時代は終わりを告げることとなった。

北条時政が鎌倉幕府の主導権を握る

建仁三年(1203)9月10日、源実朝は政子のもとから時政の名越亭に引っ越している。
実朝の養育は時政・牧の方夫妻が務めた。
これはは御所の変更であり、幕府の役人や御家人たちが出勤する場所が名越亭に変わることを意味した。
時政は乳母夫として実朝を名越亭に抱え込み、決裁すべき案件を奏上し実朝から許可を得て命令を発布した。

『吾妻鏡』と『愚管抄』における記述のちがい

『吾妻鏡』がこの事件を比企氏による謀反としているのに対し、『愚管抄』の著者慈円は北条時政が起こしたクーデターだと認識している。
これは、『吾妻鏡』が鎌倉幕府視点から事件の全容が記されているのに対し、『愚管抄』は糟屋有季の遺族から集めた情報をもとに事件を分析しているからである。

「謀反」か「討伐」か

『愚管抄』では「頼家の子一幡は源氏の家督の家で威儀を整えていたが、そこへも人を派遣して誅殺しようとしたので、母が子を抱いて脱出した。しかし、そこに立てこもっていた郎等はみな恥知らずだったので、ついにみな誅殺してしまったのである」と記している。
『愚管抄』は有季の使者がら聞いた情報をもとにしているため、『吾妻鏡』のように政子が幕府の実権を掌握して軍勢を派遣した経緯は伝えていない。

一幡の最期

『吾妻鏡』では乱の後に乳母が一幡の焼死を確認したと記されているが、『愚管抄』では一幡は乱が起こる前に乳母に抱かれて小御所から脱出し、後に北条義時が郎等万年右馬允に誅殺させたと記している。
だが、鎌倉時代末期の幕府の記録である『鎌倉年代裏書』でも『愚管抄』と同様の記述があることから、『愚管抄』の方が信憑性はあると思われる。

参考資料

  • 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
  • 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
  • 平 雅行 (編)「公武権力の変容と仏教界 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻)」清文堂出版、2014年
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やみみん

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