資料室 角色

比企能員

比企能員は源頼朝に仕えた御家人で、二代目将軍・源頼家を支える13人の御家人にも選出されている。
安房国出身とされている。
比企尼の猶子(義理の息子)だが、『吾妻鏡』では比企尼の甥とされている。
比企尼は頼朝の乳母であり、平治の乱での敗北によって頼朝が伊豆国へ配流されると夫比企掃部允とともに武蔵国比企郡へ下り、頼朝を援助した。

人物生平

源頼家の乳母父になる

寿永元年(1182)8月12日、頼朝の妻北条政子が男子(後の源頼家)を出産した。
比企尼の娘で河越重頼の妻が乳付(生まれた子に初めて乳を飲ませる役目)を務めた。

能員は比企尼の推薦によって頼家の乳母夫に任じられた。
比企尼は頼朝が流人だった頃から20年に渡り彼を援助し続け、甥の能員を猶子として頼家の乳母夫に推薦した。(『吾妻鏡』同日条)

源義高の討伐

元暦元年(1184)5月1日、源義高が信濃国に潜伏して叛逆しようとしているとの知らせを受けて、頼朝は能員らに信濃国へ出陣して義高らを捜し出すよう命じた。(『吾妻鏡』同日条)

頼朝の言葉を伝える

元暦二年(1185)6月7日、頼朝は御簾越しに平宗盛と対面した。
これは、頼朝が中原広元に宗盛と対面すべきか相談したところ、「国内の反乱を鎮めて従二位にも叙されたお方が、朝敵で囚人になった者と直接顔を合わせるのは軽率だ」と言われたことによる。

能員は頼朝の言葉を宗盛に伝える役目だった。
「せっかくこんな田舎に来てくれたので、あなたに会ったことを武士の名誉にしたいと思った」
宗盛は敬意を表した。(『吾妻鏡』同日条)

奥州合戦で大将軍を務める

奥州合戦の際、能員は宇佐美実政とともに北陸道の大将軍を務めることになった。(『吾妻鏡』文治五年〈1189〉7月17日条)

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奥州合戦

奥州征伐の準備 義経追討期から奥州征伐は準備されていた 2月9日、頼朝は南九州の島津忠久へ島津荘官のうち武術に長けたものを奥州に動員するよう命じた。 下す 嶋津庄地頭忠久 早く庄官を召し進らしむべき事 ...

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大河兼任の乱で大将軍を務める

文治六年(1190)1月8日、奥州で藤原泰衡の郎従大河兼任らが叛逆を起こしたので、頼朝は軍勢を派遣した。
能員は東山道の大将軍を務めた。(『吾妻鏡』同日条)

頼朝の随兵を務める

建久元年(1190)12月1日、頼朝の拝賀の際に能員は随兵七騎に加えられた。(『吾妻鏡』同日条)

その他の6人は北条義時・小山朝政・和田義盛・梶原景時・土肥実平・畠山重忠である。

娘若狭局を頼家に嫁がせる

建久九年(1198)、能員は自分の娘である若狭局を頼家のもとへ嫁がせた。
若狭局は一幡を出産した。

一幡は将軍候補として有力な存在となるが、北条時政はこれに対抗して頼家の弟千幡を擁立した。
後に、一幡を擁立する能員と千幡を擁立する時政は激しい権力闘争を繰り広げることになる。

十三人の御家人に選ばれる

建久十年(1199)4月12日、能員は二代目将軍・源頼家の訴訟取次役となる13人の御家人のひとりに選ばれた。(『吾妻鏡』同日条)

さらに、頼家は4人の側近に「鎌倉で狼藉を働いても訴えてはならない」という決まりを定めた。(『吾妻鏡』同年4月20日条)

比企能員の乱

建仁三年(1203)7月、頼家は未だ危険な状態だったので、譲与が行われた。

関西38ヵ国の地頭職が弟の千幡(後の実朝)に譲られ、関東28ヵ国の地頭ならびに惣守護職が頼家の長男一幡に譲られた。

一幡の外祖父である比企能員は千幡への譲与を不満に思い、千幡とその外戚らを滅ぼすことを考えた。(『吾妻鏡』同日条)

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比企氏の乱

建仁三年(1203)3月、源頼家は病に倒れ、7月には危篤に陥ってしまう。幕府内では早くも頼家の後継者問題が浮上し、北条政子たちは複数の源頼朝の血縁者に幕府の支配権を分割相続させることで源氏将軍の統治を ...

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参考資料

  • 榎本 秋「執権義時に消された13人 闘争と粛清で読む「承久の乱」前史」株式会社ウェッジ、2021年

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