道教では禹歩という北斗七星や八卦の意味を込めた歩行呪術がある。
この術を用いることによって、悪鬼や猛獣を避けることができるといわれている。
禹歩と玉女反閇法という祭式を組み合わせたものを、反閇という。
禹歩と玉女反閇法
禹歩
禹歩は夏王朝の開祖禹王が名前の由来だといわれている。
禹王は各地の山川を巡っているうちに足を痛め、片足を引きずるようにして歩くようになったのが禹歩のはじまりと伝えられてきた。
敦煌から出土した『日書』には、道中の安全を祈って禹歩を行うことと、禹歩の際に唱える呪文の中に「其行母啓、先為禹除道」とあり、禹王を意味する「禹」の字が用いられている。
紀元前168年に造られた馬王堆の三号漢墓から発見された『五十二病』にも、鬼病などの病に対して禹歩を行うことが記されている。
日本における禹歩
天暦二年(948)7月10日、村上天皇の中宮藤原安子が憲平親王(冷泉天皇)を出産を祝う宴が開かれるとき、出発に際して陰陽助平野茂樹が反閇を奉仕したのが陰陽道における最初の禹歩である。
また、天徳四年(960)9月23日、賀茂保憲も村上天皇が式御曹司から冷泉院へ行幸する際に反閇を奉仕している。
玉女反閇法
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1入場前段
右手に刀、左手に六本の棒を持って祭壇の前に立つ。
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2勧請呪を唱える
旺方(五行が最も旺盛になる方位)に向かって旺気を吸い、叩歯を十二回行う。
それから祈願したいことを念じ、旺方を背にして呪文を唱える。
そして、六甲六旬十二時神・青龍・蓬星・天上玉女・六戊・蔵形之神を祭場に喚び、願いごとに対して方位や時間を司る神の邪魔が入らないように、詳細な日時や進むべき方位を祈願する。
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3反閇局(方位図)を描く
祭場に反閇局を描く。
室内の場合は四方へ六尺、庭の場合は四方へ六歩、屋外の場合は四方へ六十歩。
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4入局し禹歩を行う
反閇局へ入り、禹歩を行う。
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5東西南北の諸神を勧請する
東西南北の諸神へ、反閇局への降臨を勧請する。
- 東:功曹・太衝・天罡・青帝・甲乙大神
- 西:伝送・従魁・白帝・庚申大神
- 南:太乙・勝先・小吉・赤帝・丙丁大神
- 北:登明・神后・大吉・黒帝・壬癸大神
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6天門と地戸を定める
最初に二本の算木で挟んだ方位を天門、その次に挟んだ方位を地戸と定める。
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7呪文を唱える
『太上六壬明鑑符陰経』によると、下記の呪文を唱える。
乾尊耀霊、坤順内営、二儀交泰、六合利貞、配天享地、永寧粛清、応感玄黄、上衣下裳、震離艮巽、翊贊扶持、乾坤艮巽、虎歩龍翔、今日行算、玉女侍傍、追吾者死、捕吾者亡、牽牛織女、化成江河、急急如律令。
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8玉女を勧請する呪文を唱える
玉女を勧請する呪文を唱える。
呪文の内容は玉女のいる方位によって変わる。
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9乗玉女呪を唱える
乗玉女呪を唱える。
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10四縦五横呪を唱える
四縦五横呪を唱える。
律令律令、四縦五横、万鬼潜形、吾去千里、呵吾者死、叱吾者亡、悪吾者自受其殃。急急如律令。
反閇の種類
大中小から成る3種類の反閇があって、それぞれ異なるものを持って反閇を行う。
大が弓、中が太刀、小が笏である。
小反閇作法
安倍泰親が三男泰茂に伝え、建長二年に泰茂の曾孫にあたる安倍惟弘が写本を作成した。
その後も家に伝わる秘書であり、陰陽道における宝物として代々子孫に伝わった。
- 陰陽師が出発する方角を向いて、玉女に反閇を行うと告げる
- 三反天鼓を打ち、五臓の気を確かめる
- 龍樹菩薩・提婆菩薩・馬鳴菩薩・伏義・神農・黄帝・玉女などの神々を勧請するため、「南無」で始まり「急々如律令」で終わる勧請呪を唱える
- 天門呪・地戸呪・玉女呪・刀禁呪・四縦五横呪などの呪文を唱える
- 禹歩を行う
- 禹歩を終えたところで禹歩立留呪を唱える
天鼓は叩歯という歯を噛み合わせる道教呪法の一つで、中央と左右の歯を噛み合わせるものである。
体内の五臓神を呼び起こす瞑想法とも考えられている。
日本では陰陽道における星辰信仰の上に成り立った呪法である。
先に出た足に後の足を引き寄せて左右に歩みを運ぶことによって、悪星を踏み破り吉意を呼び込むというものである。
『尊星五供』における記述
天台寺門宗の総本山・園城寺の御修法『尊星五供は北極星の化身・妙見菩薩(尊星王)を全宇宙の象徴ならびに天皇の本命星と考える密教修法である。
衆僧が修法壇を取り囲んで反閇を行うことによって、悪星の光を和らげ善星(北極星)は威光を増す。
晴明と反閇
安倍晴明が反閇を奉仕した記録。
反閇の記録
参考
- 『九暦』天暦四年(950)7月10日条
- 『九暦』天暦六年(952)11月2日条
- 『日本紀略』天徳四年(960)11月4日条
- 『親信卿記』天延二年(974)2月9日条
- 『小右記』天元五年(982)5月7日条
- 『小右記』寛和元年(985)5月7日条
天延二年(974)2月9日、讃岐権介源通理の下向に際して、賀茂保憲が反閇を行った。(『親信卿記』同日条)