資料室 文学

現代語訳 平家物語 巻第九 「知章最期」

『平家物語』巻第九「知章最期」の現代語訳。

平知盛が馬の無事を願って毎月泰山府君を祀っていた記述がある。

あらすじ

門脇中納言教盛のりもり卿の末子蔵人大夫業盛なりもりは、常陸国の住人土屋五郎重行と組んで討たれた。

修理大夫経盛つねもりの嫡子、皇后宮亮経正こうごうぐうのすけつねまさは助け舟に乗ろうとして水際の方へ落ち延びていったが、河越小太郎重房の軍勢に取り籠められて討ち取られた。

若狭守わかさのかみ経俊、淡路守あわじのかみ清房、尾張守おわりのかみ清貞は三騎連れ立って敵陣の中へ駆け入り、散々戦って多くの分捕りをして、同じ場所で討ち死にした。

新中納言知盛卿は生田森の大将軍を務めていたが、その軍勢はみな落ち延びて、今は子息の武蔵守知章ともあきら、侍の監物けんもつ太郎頼方の主従三騎のみになって、助け舟に乗ろうと水際の方へ落ち延びていった。
そこへ、児玉党と思われるうちわの旗をさした者たちが、十騎ばかりで後を追いかけていく。

監物太郎は非常にすぐれたの弓の名手で、真っ先に攻めてきた旗持ちの首の骨をひゅうっと射て、馬から逆さまに射落とした。
その中の大将と思われる者が新中納言と組み戦おうと駆けつけて馬を並べたところへ、子息の武蔵守知章が間に入って、馬を押し並べてむんずと組み合いになってどうと馬から落ち、取り押さえて首をかき斬り立ち上がろうとしたところ、敵の子供がそこへやってきて、武蔵守を討ち取った。

監物太郎も落ち重なって、武蔵守を討った敵の子供も討った。
その後、矢をあるだけ射つくして、刀を抜いて戦ったが、敵を大勢討ち取り、左の膝頭を射られて立ち上がれなくなり、座ったまま討ち死にした。

この間に新中納言は非常に優れた名馬に乗って、海面を二十町余り泳がせて大臣殿(平宗盛)の舟に到着した。
舟には大勢の人が乗っていて馬を立たせるところもなかったので、水際へ追い返した。

阿波民部重能あわのみんぶしげよしが、
「馬は敵軍のもとに渡るでしょう。射殺してしまいましょう」と矢を一本つがえて進み出たのを、新中納言が
「誰のものになってもよい。我が命を助けたものを射てはならぬ」
と言ったので、仕方なく射るのを止めた。

この馬は離れ離れになった主人を慕って、しばらく舟から離れず沖の方へ泳いでいったが、次第に遠くなっていったので、諦めて水際まで泳いで戻っていった。
浅瀬まで来たところで、また舟の方を振り返って二、三度いなないた。
それから陸に上がって休息をとっていたところを河越小太郎重房が見つけて後白河院に献上したので、やがて院の御厩に繋がれた。

元々、この馬は院が大切にしていた馬で、一の御厩で飼われていたのだが、宗盛公が内大臣になったときにお祝いとして賜ったのだ。
新中納言に預けられていたのだが、中納言はあまりにこの馬を大切にして、馬の無事を願って毎月一日ごとに泰山府君を祀っていた。

そのためか、馬の命も延び、主君の命も助けたのはすばらしいことだった。
この馬は信濃国井上出身だったので、井上黒いのうえぐろといわれた。
後で河越が捕えて参上したので、河越黒かわごえぐろともいわれた。

新中納言が大臣殿の御前に参上して申したのは、
「武蔵守には先立たれました。監物太郎は討ち取られました。今は心細い気持ちです。
どうして子が親を助けようと敵と組んで戦うのを見ながら、どのような親であれば子が討たれるのを助けずにこうして逃げて参るのかと、他人のことであればどれほど非難したであろうものを、我が身のこととなると、まったく命は惜しいものなのだと今になって思い知らされました。
人々がどう思うのかと心の内を想像すると、恥ずかしいことです」
と言って、袖を顔に押し当ててさめざめと泣いていたので、大臣殿はこれを聞いて、
「武蔵守が父親の代わりに命を落としたのは立派なことだ。腕も立ち勇敢な心を持っていて、優れた大将軍だった人だ。
清宗と同い年で、今年で十六だったかな」
と言って、子息の衛門督清宗のいる方を見て涙ぐんで、居並んでいた多くの平家の武士たちは、情のある者もそうでない者も、みな鎧の袖を濡らした。

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