内容
入道相国(平清盛)は、小松殿(平重盛)に先立たれて、万事においてとても心細く思われたのだろうか、急いで福原へ下られ、門を閉じて籠もった。
治承三年(1179)11月7日夜の戌の刻、ややしばらくの間、大地が激しく揺れた。
陰陽頭安倍泰親が急いで内裏へ馳せ参じて、
「此度の地震について占いましたところ、重く慎まなければなりませぬ。
陰陽道における三経の一つである根器経の説を元に考えますと、年でいうとその年のうち、月でいうとその月のうち、日でいうとその日のうちです。急を要することでございます」と言って、はらはらと涙を流した。
取り次いで奏上した者も青ざめて、帝も驚きになった。
若い公卿や殿上人は「泰親は何をそんなに泣いているのだ。何事も起こらないであろう」と笑いあった。
けれども、この泰親は安倍晴明から五代後の子孫であり、天文道の奥義を究め、占いにおいては掌を指し示すように確かな腕前で少しも間違うことがなかったので、「指すの神子」と呼ばれた。
かつて泰親の上で落雷があったが、雷火に狩衣の袖を焼かれながらも、その身は無事であった。
上代にとっても末代にとっても、稀代の人物であった。