内容
平清盛は自分自身の栄華を極めただけではなく、平家一門も共に繁栄した。
嫡子重盛は内大臣で左大将、次男宗盛は中納言で右大将、三男知盛は三位中将、嫡孫維盛は四位少将、すべて一門の公卿16人、殿上人30人余り、諸国の受領や衛府、その他諸々の役所は合計60人余りである。平家以外の人はいないのでないかと思えるほどだ。
昔、奈良の聖武天皇の御代である神亀五年(728)、朝廷に初めて中衛の大将が置かれ、大同四年(809)に中衛を近衛と改めてから、今まで兄弟が左右の大将に並んだのはわずか三、四度である。
文徳天皇の御代は、左に良房が右大臣で左大将、右に良相が大納言で右大将、ともに閑院の左大臣冬嗣の息子である。
朱雀天皇の御代には、左に実頼が小野宮殿、右に師資九条殿、ともに貞信公の息子である。
後冷泉天皇の御代は、左に教通大二条殿、右に頼宗堀河殿、彼は御堂関白(藤原道長)の息子である。
二条天皇の御代には、左に基房、松殿、右に兼実、月輪殿、法性寺殿忠通の息子である。
彼らはみな摂政家のご子息で、摂家より下の家柄における例はない。
殿上人としての交流さえ嫌がられたの人の子孫で、禁色や束帯以外の衣服での参内を許され、綾羅錦繍で飾り立てられた華美な衣服を身に纏い、大臣で大将になって兄弟がともに左右に並ぶことは、末世とはいえ不思議なものだ。
男子のほかにも、清盛には八人の娘がいた。皆それぞれ幸せに暮らしていた。
一人は、八歳のときに桜町の中納言成範卿の北の方になることを約束していたが、平治の乱以後その約束は違えられ、花山院の左大臣殿の奥方になって、多くの公達をもうけた。
そもそもこの成範卿が桜町の中納言と呼ばれているのは、とても風流なものを好む人で、いつも吉野山の桜に恋い焦がれては町に桜の木を植えて並べ、やがて家屋を建てて住まわれた。
毎年、春になって桜を見に来る人から、その場所は桜町と呼ばれるようになった。
桜は咲いてから七日で散ってしまうのを、名残惜しいと思って天照大神に祈願したので、二十一日まで花の命を延ばしてもらった。
帝も賢王だったので、神も神徳を輝かし、花にも心があったので、二十日の寿命を保ったのである。
一人は、皇后となった。
皇子が生まれて皇太子に冊立されて即位したので、院号をもらって建礼門院と称した。
清盛の娘である上に天下の国母でもあるのだから、言葉にする必要はないだろう。
一人は、六条の摂政殿の北政所となった。
高倉天皇の御代、母代わりとして准三后の宣旨を賜り、白河殿として重んじられるようになった。
一人は、普賢寺殿の北政所となった。
一人は冷泉大納言隆房卿の北の方、
一人は七条修理大夫信隆卿に連れ添っている。
また、安芸国厳島の内侍の腹にいた娘は後白河法皇のもとへ参内して、女御のようになった。
そのほか、九条院の雑仕である常葉の腹にいた娘は、花山院の上臈女房となり、廊の御方と呼ばれた。
秋津島と呼ばれるこの国にはわずか六十六ヶ国しかないが、平家はそのうち三十国余りを支配しており、すでに半分を超えている。
国だけではなく、荘園や田畑も数え切れぬほど領有している。
きらきらと着飾った人々が満ちあふれて、殿上に花が咲き乱れているようだ。
門前には馬が群がり集まって、市が開かれているかのようである。
楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦など、ありとあらゆる宝物も一つとして足りないものはない。
歌堂や舞閣の礎、魚竜爵馬の遊興も、おそらくは内裏や院の御所でも平家一門には敵わないように思えた。