信頼・信西不快の事
昔から、王が臣下に褒美を与えるときは日本も中国も文武二道を優先している。
帝の政治を補佐することを「文」とし、四方の逆賊による反乱を鎮めることを「武」とする。
天下の平穏を保ち国土を統治することは、「文」を左手に持ち「武」を右手に持つようなものだ。
それは人の手と同じで、どちらも欠けてはならない。
「左文右武(文武を両方用いる)」という成句がある。
特に末世の時代、人は朝廷の威光を嫌い民も荒々しく野心を抱く。
よく考えて勇士を選び褒美を与えなければならない。
だから、唐の李世民は髭を焼いて功績をあげた臣下に与え、血を含み傷をすいて戦士を大切に扱った。
皇帝への恩義のために仕え、忠義のためならば自身を顧みず、ただ主君のために命を散らすことだけを考えていたようだ。
皇帝は自ら戦場に赴くことができなくとも、臣下に志を与えれば彼らはみな皇帝に従った。
近頃、権中納言兼中宮権大夫右衛門督の藤原信頼という人がいた。
彼は天孫降臨の際に地上に下りた天児屋根命の末裔で、中関白道隆の八代目の子孫で播磨三位基隆の孫にあたる伊予守三位仲隆の息子である。
文武に秀でているわけでもなければ能力もなく、芸もなかった。
ただ朝恩の恩だけを誇り、昇進することはない。
父祖は諸国の受領だけを経て年齢を重ねた後、ようやく従三位に叙された。
そこから近衛府・蔵人頭・皇宮の宮司・宰相の中将・衛府督・検非違使別当をわずか2、3年の間に務め、27歳のときに中納言・衛門督に叙された。
摂政・関白の家の嫡男であればこのような昇進はするけれども、普通の人がこのように昇進した例は聞いたことがない。
官職だけでなく、俸禄も思うままに上がった。
家系に絶えて久しい大臣・大将に望みをかけて、身の程を知らない振る舞いをしたこともあった。
見た人は目を驚かせ、聞いた人は耳を驚かせた。春秋時代に衛の霊公に寵愛された弥子瑕よりもひどく、唐の玄宗に寵愛された安禄山も超えるほどだった。
主君に愛されていた頃は許されていたことが主君の心変わりによって許されなくなることも恐れず、ただ栄華を誇っていた。
その頃、少納言入道信西という人がいた。
彼は山井三位永頼卿の八代目の子孫で、越後守季綱の孫、進士蔵人実兼の子である。
儒者の家系に生まれたので儒学を伝えようとしたが、さまざまな学問を兼ねて学んだので九流百家に至り、当世に並ぶものがいないほどの宏才博覧になった。
後白河院の乳母紀二位の夫だったため、保元元年から今まで天下の大事小事を意のままに執り行い、絶えた跡を継ぎ、廃れた学問を興し、延九の時代に後三条天皇が記録所を設立した例に倣って大内裏に記録所を設置して訴訟を評定し、裁決を行った。
天皇の決定は私情を挟まなかったので、人々の恨みも残らなかった。
天下を清らかにして、理想の君主を作り上げるさまは、延喜・天暦の時代にも恥じず、藤原義懐や藤原惟成が天皇を補佐した三年間にも勝るものだった。
大内裏はしばらく修造されていなかったので、御殿は傾き楼閣は荒廃していた。
牛や馬の牧場は雉と兎の寝床になっていたのを、一、二年のうちに造営して、天皇を移り住まわせた。
外郭が重なる大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、朝所に至るまで花の垂木、雲形の肘木、大きな建物の構えなど、立派な建物を建てるのに年月はかからなかった。
日数をかけず、民に負担をかけることもなく、国を煩わせることもなかった。
内宴や相撲の節会などの長い間行われていなかった行事を興し、機会があれば詩歌管弦の遊びも催した。
宮中の儀式は昔を恥じることなく、万事の礼法も昔の作法に倣った。
保元三年(1158)8月11日、後白河天皇は退位して皇子に譲位した。
皇子は二条天皇と称した。
けれども、信西の権勢はますます大きくなり、飛ぶ鳥を落とす勢いで草木もなびくほどになった。
信頼の寵愛もひどくなり、並び立つものはいなかった。
どのような天魔が二人の心に入り込んだのだろうか、彼らの関係は悪くなった。
信西は信頼を見て何につけても「天下を危うくし、世の中を乱す人だ」と思ったのでどうやって失脚させようと考えたが、当時の朝廷では無双の寵臣で周囲の人々の考えもわからず、心を許した者もいなかったので、機会を伺っていた。
信頼もまた、何事も自分の思い通りになるのにこの入道を疎んじて、機会があれば失脚させようと策略を練っていた。
上皇は信西に信頼を大将にしてはどうかと相談した。
「信頼を大将にするのはどうだろう。清華の家の出身ではないが、時にはそうした者を大将に任じることもあったらしい」
信西は「そんなことをしたら国が滅びるだろう」と嘆かわしく思った。
「信頼のような者が大将になれば、誰がこの国の政治に期待するのでしょうか。君主の政治というものは、官位の任命を前途とします。叙位・除目に間違いがあれば、上は天意に背き下は人々から非難され天下は乱れるでしょう。その例は中国にもこの国にも数多くあります。
だからでしょうか、阿古丸大納言宗通卿を白河院は大将にしようとしましたが、堀河天皇はお許しになりませんでした。
鳥羽上皇を故中御門藤中納言家成卿を大納言にしようとしましたが、公卿たちに『諸大夫が大納言になることはめったにありません。中納言になったことですら罪深いというのに』と諌められたので、思いとどまりました。
せめてもの志でしょうか、年始の勅書の上書に『中御門新大納言殿へ』と書いたのを家成卿が見て『本当に大臣・大将になるとしても過ぎた面目だなあ。お志のありがたさよ』と言って老いの涙を流したそうです。
大納言がこのように大事に扱われるのですから、近衛大将であればなおさらです。
三公に列しても、大将を経ない大臣もいるのです。
三公=太政大臣・左大臣・右大臣。
摂関家の子息や優秀な者もこの職を最高職としています。
信頼などが身を持って大将を汚せば、いよいよ驕りを極めて謀逆の臣となり、天のために滅ぼされることを不憫に思わないのですか」
信西は上皇を諌めたが、上皇は全くそのとおりだと思っている様子ではなかった。
信西は唐の安禄山が驕っていた昔を絵に描いて院に進上したが、納得した様子ではなかった。
信頼は、信西がこのような讒言をしていたことを聞きつけて出仕しなくなり、伏見源中納言師仲卿を騙って伏見に籠もり、馬術や武術の稽古をした。
これは、ひとえに信西を滅ぼすためである。