平安時代

【平安時代】冥界(地獄)に行った人々の伝説

平安文学における冥界

冥界に行って戻ってきた人々

安養尼(953-1034)

恵心僧都(源信)の妹尼(安養尼)は、死ぬときに立ち会ってもらうことを恵心と約束していた。恵心の修行中、尼から「年老いて病気がちになり、いつ何があってもおかしくない。今一度顔を見たい」との使者が来た。だが、このとき恵心は千日間比叡山に参籠する修行の最中で下山できないため、西坂本で会うことになった。恵心が待っていると尼の乗った輿がやって来たが、長旅の途中で揺られてしまったせいか、尼はすでに息絶えていた。
悲しんだ恵心は勝算のもとを訪れ、尼を生き返らせてほしいと頼んだ。勝算と恵心が懸命に祈祷を行っていると、安養尼が蘇っていた。
「私は閻魔王宮に参りましたが、不動明王が炎の前に立ちはだかっており、地蔵菩薩が私の手を引いてお帰りになると思ったその時、生き返っていたのです」と言った。恵心は感動のあまり涙を流して、勝算に相伝の三種の袈裟を献上した。六年後、安養尼は臨終正念に往生したという。(『古事談』)

因幡国国隆寺の法師

因幡国高草の郡野坂の里にある寺に、別当がいた。別当が仏師に地蔵菩薩の像を彫らせている最中に、別当の妻は他の男と行方をくらましてしまった。気が動転した別当は仏も仏師も放り出して妻を探した。仏師たちが途方にくれていると、その様子を見かねた専当法師が食べ物を与え、なんとか地蔵の木作りだけは仕上げたが、彩色や飾りつけは出来なかった。その後、専当法師は病気で亡くなった。だが、死後六日目になって法師の入った棺が動き出したので、妻が開けてみると、法師が生き返って出てきた。法師は「大きな鬼が二人来て私を捕まえて広野を歩いていると、白い衣を着た僧が現れた。その人は『私は地蔵菩薩である。この法師は因幡国の国隆寺で仏師たちに食べ物を与え、私を造ってくれたのだから、許してやれ』と言ったので、鬼たちに許されて帰ってきたのだ」と言った。妻子たちは地蔵菩薩の彩色を行い、供養して、末永く信奉した。その像は今もこの寺に置かれている。(『宇治拾遺物語』)

大神晴遠

雅楽家の大神晴遠は還城楽を人に伝授する前に病で亡くなってしまった。
晴遠の棺は柞の森に置かれた。
二、三日後、棺の前を木こりが通りかかると物音がしたので、木こりは怪しんで晴遠の家族に報告した。
妻子と親類が棺を見に行くと晴遠が生き返っていたので、家に連れて帰った。
晴遠曰く「私は閻魔王宮に参って罪業を定められたとき、冥官の一人が『晴遠は日本の雅楽家であるが、還城楽を伝授する前に死んでしまった。晴遠を現世に帰して還城楽を伝えさせてから地獄に召すのがよろしいでしょう』と申した。議論の末に私は地獄から帰され、生き返ったのだ」ということだった。
晴遠は還城楽を弟子の上府生季高に伝授して、再び地獄へ戻った。(『十訓抄』巻10第25話)

還城楽(げんじょうらく):唐楽の一つ。中国西域の胡人が好物の蛇を見つけて喜ぶ様子を舞にしたもの。

讃岐国山田郡/鵜足郡の女

讃岐国山田郡に布敷姓の女が住んでいた。女は重病を患い、疫神を祀るために食事を供えた。
その時、閻魔王の使者の鬼が女の家を訪ねてきた。走り疲れた鬼は、供物の食事を食べた。鬼は「我はお前の膳を喰らったゆえ、恩に報いたい。同姓同名の者はいないのか」と聞いてきた。女は「同じ国の鵜足郡に同姓同名の女がいる」と答えた。
鬼は鵜足郡の女を地獄に連れていき、山田郡の女を逃した。
閻魔王は鵜足郡の女が召されて来たのを見て「これは私が召した女ではないではないか。人違いだ。この女はここに留まらせて、山田郡の女を連れてこい」と鬼に命じた。
鬼は隠し通すことができず、山田郡の女を連れてきた。閻魔王はこれを見て「この女こそ私が召した者だ。鵜足郡の女は帰してやれ」と命じた。
しかし、鵜足郡の女の身体は燃えてなくなっていたので、女の魂は帰れなくなってしまった。
閻魔王:山田郡の女の身体はまだあるのか。
使者:まだあります。
閻魔王:ならば、山田郡の女の身体をお前の身体としろ。
こうして、鵜足郡の女の魂は山田郡の女の身体に入った。
鵜足郡の女:ここは私の家ではない。鵜足郡の家に帰ろう。
山田郡の女の両親:お前は私たちの子じゃないか。どうしてそんなことを言うんだい。忘れてしまったのか。
女は聞く耳を持たず家を出て、鵜足郡の家に帰った。(『今昔物語集』巻20第18話)

尊恵上人

摂津国の清澄寺に、慈心房尊恵という老僧がいた。元々は比叡山延暦寺の学徒だった。
承安二年(1172)7月16日、尊恵が脇息に寄りかかって法華経を読んでいると、夢が現か、立烏帽子を被って藁沓を履いた男が書状を持ってきた。男は閻魔王宮の使者を名乗り、書状を尊恵に手渡した。書状には「来る18日、閻魔庁において十万人の僧に十万部の法華経を転読させるので、参列せよ」と書かれていた。
やがて、尊恵は18日の酉の刻に息絶えたが、翌日の辰の終刻に生き返った。
尊恵は起き上がって冥界での出来事を語った。
「私は閻魔王宮に召されて十万人の僧に連なり、法華経を十万部転読し終えた。法王は私を召して、褥を設けてくれた。閻魔王は母屋の御簾の向こうにいらっしゃって、冥官たちが大床に連なっていた。『摂津国には極楽往生の地が五ヶ所あり、清澄寺はその内の一つである。お前は間違いなく極楽往生できるだろう。太政入道平清盛は慈恵僧正の化身である。早く現世に帰って往生に業に励め』と言って帰されたのだ」
その後、尊恵はめでたく極楽往生を遂げた。(『古今著聞集』)

日蔵上人(道賢上人)

天慶四年(941)8月1日午の刻、道賢上人は金峯山で修行をしていたとき、喉の渇きによって息絶えた。道賢の魂は和尚の姿をした蔵王菩薩によって金峯山浄土に至った。蔵王菩薩は「道賢の寿命は残りわずかだが、山で修行をすれば長寿を得られる」と告げる、道賢を日蔵に改名させる。
そこへ、菅原道真が異形の眷属を従えて現れた。彼らは金剛力士あるいは夜叉・雷神・鬼神などで、弓や鉾、錫杖を持っていた。道真は道賢を居城である太政天宮城に連れて行った。無数の眷属が宮殿を守っている。道真は疫病や災難によって日本を滅ぼそうと考えていたが、日本に密教が流布したことによって思いとどまった。日本に危害を加える場合、手を下すのは道真ではなく眷属の十六万八千の悪神であるという。道賢がどうしてそんなに日本を恨むのか尋ねると、道真は「自分にとって日本の人々は大怨賊なのだから、尊重する必要などない」と答えながらも、道真の形像に対して祈りを捧げる者には害を与えないと誓う。その後、日蔵は地獄の鉄窟に至った。茅屋の中に四人の罪人がいるのが見えた。一人は衣服を身につけているが灰燼のような姿で、残りの三人は裸で赤灰にうずくまっていた。衣服を身につけていた一人は醍醐天皇で、他の三人は天皇の臣下だった。君臣ともに地獄で罰を受けていたのだ。醍醐天皇は日蔵を手招きして、生前に犯した罪について懺悔し始めた。
「私は日本金剛覚大王(宇多天皇)の子に生まれながら、今こうして鉄窟で苦痛を味わっている。かの太政天神は怨心によって仏法を焼き滅ぼし、衆生を害そうとしている。そして、私は太政天神の怨心の根元ゆえに、休みなく苦しんでいる。太政天神とは、菅原道真のことだ。この者は福力があったので太政威徳天になったのだ。生前、私は五つの罪を犯してしまった。最初の罪は父法王に険しい道を歩ませて身も心も苦しめてしまったこと。二つ目は、高殿に座し聖父を下座に座らせて焦心落涙させてしまったこと。三つ目は罪なき賢臣を誤って配流してしまったこと。四つ目は長らく王位に就き、仏法を害したこと。五つ目は我が怨敵のために衆生を害してしまったこと。これらの罪のために休むことなく苦しんでいる。苦しいかな、悲しいかな……。そなたは主上(朱雀天皇)にこのことを奏上し、我が身の辛苦を早く救ってくれ。摂政・大臣にも告げて、一万の卒塔婆を作らせるのだ」
同年8月13日寅の刻、日蔵は息を吹き返した。
(『扶桑略記』『道賢上人冥途記』)

藤原輔道

勘解由長官かげゆのかみ藤原有国が若い頃、父輔道が豊前守に赴任した際、ともに下向する途中で輔道が急病で亡くなった。
有国が泰山府君祭を行ったところ、数時間後に輔道は息を吹き返した。
輔道曰く「私は閻魔庁に参ったが、豪華な食べ物が供えられたということで、現世に帰そうとの決定が為された。
その時、ある冥官が『輔道は帰すとしても、有国は陰陽師でもないのに泰山府君祭を行ったのだから罰を与えなければなるまい』と言った。すると、別の冥官が『陰陽師もいない遠国で、親を想う気持ちから泰山府君祭を行ったのだから、罰してはならない』と言った。ほかの冥官たちもこれに賛同したので、何事もなく帰されたのだ」ということだ。(『古事談』)

藤原有国:943~1011。

藤原行成(972-1028)

ある人が夢の中で冥界へ行ったとき、藤原行成を召すべきだと審議が行われていた。
しかし、ある冥官が「行成は世のため人のためを思う正直な人だから、しばらく召してはならない」と言ったので、行成は召されなかった。
正直者は冥界からの召しも逃れられるのだ。(『古事談』)

源公忠(889-948)

源公忠はある日急に息絶えて、気がつくと冥界の役所にいた。
門前には背丈が一丈(三メートル)余りで紫袍を着た者が、書状を捧げて「醍醐天皇の行いはよろしくない」と訴えた。堂上には朱紫の衣を身にまとった人々が三十人程いて、その中の第二の席の者が嗤って「醍醐天皇はすこぶるいい加減なお方である。改元すべきか」と言った。その後、公忠は夢から醒めたかのように息を吹き返した。
これによって、延長へ改元が行われた。(『古事談』)

源満仲の郎等

源満仲の郎等は生前にたくさんの殺生を行い、少しも善行をしなかった。
ある時、郎等は狩りに行く途中で地蔵菩薩が立っているのを見たので、少しだけ帰依の心を示し、再び走りすぎていった。
その後、郎等は病気で亡くなり、閻魔大王の法廷に呼び出された。
そこでは、大勢の罪人が生前の罪によって罰せられていた。郎等は自分が生前に犯した罪を振り返り、涙が止まらなくなった。
すると、一人の僧が現れて郎等を助けると告げた。僧の正体は、郎等が生前に帰依の心を示した地蔵菩薩の化身だった。郎等は生き返り、殺生をやめて地蔵菩薩に仕えたのであった。(『宇治拾遺物語』)

源義家(1039-1106)

源義家が病に苦しんでいるとき、女房は地獄絵図に描かれているような鬼たちが大勢で義家の家に乱入し、義家を捕らえて大きな札を持って出てきた。札には「無間地獄の罪人 源義家」と書かれていた夢を見た。翌朝「こんな夢を見た」と知らせると、夜明けに義家が亡くなっていたとのことだった。(『古事談』)

地獄に落ちた人々

平将門(903?-940)

ある人の夢に平将門が現れて「生前、私は善行をせず悪行の限りを尽くしてきたので、地獄で耐え難い苦しみを受けている」と告げられた。(『今昔物語集』)

冥界を歌った和歌

  • 死出の山 越えぬる人の 侘びしきは 恋ひしき人に あはぬなりけり(死出の山を越えて冥土にいる私が悲しんでいるのは、恋しいあなたに会えないからなのだ。)『今昔物語集』27-25

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