平安時代の年表:朱雀天皇の御代、延長八年(930)9月22日から天慶(946)4月20日までの出来事を年表にまとめました。
文章が長いので折りたたんでいます。

朱雀天皇:延長八年(930)9月22日-天慶九年(946)4月20日
+ 承平二年(932)の年表
承平二年(932)
承平二年(932)秋 源経基が鹿を射る
承平二年(932)秋、幼い天皇が御遊のために作らせた貞観殿の中庭に突然鹿が現れたのを、源経基が射止めた。
春日大明神の眷属である鹿が妖怪として現れるのは、朝廷に背く者が現れる兆しではないかと噂されたが、その通りになった。(『前太平記』)
+ 承平三年(933)の年表
承平三年(933) 慶滋保胤が誕生
承平三年(933)、賀茂忠行の子・慶滋保胤が生まれた。
+ 天慶元年(938)の年表
天慶元年(938)7月 地震を鎮めるために仁王経の転読が行われる
天慶元年(938)7月3日戊申、地震が止まないことにより、諸寺諸社において一万部の仁王経転読が行われた。(『本朝世紀』)
+ 天慶三年(940)の年表
天慶三年(940) 賀茂忠行が藤原師輔に白衣法の実施を進言する
天慶三年(940)、近江国司馬賀茂忠行は東西の兵乱を鎮めるために権中納言藤原師輔へ白衣観音法を行うよう奏上した。後に、神護寺別当寛静僧正がこの法を修した。(『阿娑縛抄』私目録第五十之二)
+ 天慶四年(941)の年表
+ 天慶五年(942)の年表
天慶五年(942)
1月4日 藤原忠平が病のため大饗を停止する
天慶五年(942)1月4日己未、太政大臣藤原忠平は前年の12月27日から痢病を患っているため、大饗を停止した。(『九條殿記』)
3月7日 地震
天慶五年(942)3月7日辛酉の戌の刻、地震が一度あった。(『本朝世紀』)
3月16日庚午、17日辛未、18日壬申にも地震があった。
3月17日 桓武天皇の国忌
天慶五年(942)3月17日辛未、桓武天皇の国忌によって諸司は廃務となった。(『本朝世紀』)
3月19日 神祇官が天変地異について占う
天慶五年(942)3月19日癸酉、3月に入ってから天変地異が続いていたので、天文・陰陽道などの者が勘申したところ、兵事や水旱などの災難があり、また巽・乾の方角に兵革・疾疫があるということだった。
神祇官において、大中臣頼基が祓を行った。(『本朝世紀』)
3月21日 仁明天皇の国忌
天慶五年(942)3月21日乙亥、仁明天皇の国忌のため諸司は廃務となった。(『本朝世紀』)
3月25日 仁寿殿において臨時御読経が行われる
天慶五年(942)3月25日己卯、仁寿殿において臨時御読経が行われた。(『本朝世紀』)
4月20日 賀茂祭
天慶五年(942)4月20日癸酉、賀茂祭のため廃務であった。酉の刻に雨が降った。(『本朝世紀』)
4月27日 石清水臨時祭が初めて行われる
天慶五年(942)4月27日庚辰、承平・天慶の乱の報賽として、初めて石清水臨時祭が行われた。(『本朝世紀』)後に恒例行事となり、毎年三月の午の日に行われるようになった。
舞人十人、左右衛門、兵衛、左右馬、兵庫などの判官、歌人十人、堪能六位などが参列した。(『石清水文書』)
4月10日癸亥に陰陽寮が勘申した吉日である。(『本朝世紀』)
石清水臨時祭は朱雀天皇の御代に始まったが(中略)、天皇が御即位なさってから平将門の乱が起こり、将門の討伐を祈願して始まったらしい。この臨時祭に奏上される東遊びの和歌は、紀貫之が詠んだものである。それは「松も生いまたも苔むす石清水行く末遠く仕え奉らん(松の木が生い育ち、苔のむす遥か遠い未来まで石清水八幡に末永くお仕えいたしましょう)」という歌で『貫之集』にも記されている。(『大鏡』)
4月29日 賀茂社行幸
天慶五年(942)4月29日壬午、東西の兵乱平定の御報賽のため、朱雀天皇は賀茂社へ行幸された。(『日本紀略』『扶桑略記』)
4月10日癸亥に陰陽寮が勘申した吉日である。(『本朝世紀』)
4月30日 群盗
天慶五年(942)4月30日癸未の夜、群盗が京人の家に侵入して財物を奪う騒ぎがあった。(『日本紀略』)
+ 天慶六年(943)の年表
天慶六年(943)
1月1日 節会
天慶六年(943)1月1日庚辰、藤原師輔は長年身につけていた魚袋を修理させるので参内が遅れると申し上げたので、藤原忠平が自分の魚袋を貸した。翌日、師輔は紀貫之に代詠してもらった「吹く風に氷溶けたる池の魚千代まで松の影に隠れん」という和歌を添えて魚袋を返した。(『紀貫之集』)
ある年の元日、参賀の礼服として身につける魚袋が壊れていたので、師輔は父忠平に「魚袋を修繕させているので、宮中に参上するのが遅くなる」と申し上げたので、忠平は自分の魚袋を取り出して師輔に渡した。
師輔はお礼の歌を詠もうとしたが、紀貫之に代詠させるのがよいだろうと思い、貫之の家を訪ねた。その時、貫之が詠んだ歌は「吹く風に 氷溶けたる 池の魚 千代まで松の 影に隠れん」というものだった。貫之はこの歌を自分の歌集にも入れたという。(『大鏡』)
3月4日 太宰府が子牛の怪異を奏上する
天慶六年(943)3月4日壬午、太宰府は前年10月2日に牝牛が二尾八足の子牛を産んだと奏上した。(『日本紀略』)
5月 五龍祭
天慶六年(943)5月、石清水八幡宮・賀茂上下・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・住吉・大神・比叡の11社に読経して降雨を祈願し、五龍祭を行った。(『北山抄』)
6月17日 太宰府四天王寺が怪異を言上する
天慶六年(943)6月17日癸亥、太宰府四天王寺が天王像が揺れ動いたと言上した。(『永昌記』)
同年8月2日条に、この怪異によって伊勢大神宮へ奉幣が行われている。
8月2日 伊勢大神宮へ臨時奉幣が行われる
天慶六年(943)8月2日戊申、太宰府四天王寺において仏像堂舎が鳴動した怪異によって伊勢大神宮へ奉幣が行われた。(『日本紀略』)
+ 天慶七年(944)の年表
天慶七年(944)
1月9日 大和長谷寺焼亡
天慶七年(944)1月9日壬午、夜半に風雨が起こり、大和国長谷寺の堂舎がみな悉く焼亡した。仏像も同じく焼失した。(『日本紀略』)
4月9日 藤原実頼が右大臣に任ぜられる
天慶七年(944)4月9日辛亥、関白藤原忠平の子・大納言藤原実頼が右大臣に任ぜられた。(『扶桑略記』)
7月1日 雷鳴陣
天慶七年(944)7月1日辛未、午の刻に雷鳴陣が立てられた。(『日本紀略』)
9月9日 藤原師輔、法性寺において藤原盛子の周忌法会を行う
天慶七年(944)9月9日戊寅、大納言藤原師輔が法性寺において藤原盛子の周忌法会を修した。(『願文集』)