平安時代の年表:村上天皇の御代、天暦元年~天暦五年までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。
村上天皇時代の年表(天暦)
+ 天暦元年(947)の年表を見る
天暦元年(947)
2月
2月3日 祈年祭・春日祭の奉幣
天暦元年(947)2月3日、ある説に言ったことには「佐保殿が南方に当たらない」という。「よって殿下の御悩、頗る小間がある」という。今日、進発しようとしていた。身代わりに藤原伊尹を差し出した。錦の五色の幣・神宝・舞人・走馬などを上げ奉った。(『九暦抄』)
4月
4月23日 朱雀上皇、醍醐寺御幸
天暦元年(947)4月23日戊寅、朱雀上皇は醍醐寺へお出かけになった。(『日本紀略』)
粟田山口において御馬に乗った。(『九暦抄』)
4月25日 一代一度の仁王会
天暦元年(947)4月25日庚辰、一代一度の仁王会が行われた。(『日本紀略』)
4月26日 除目
天暦元年(947)4月26日辛巳、村上天皇は紫宸殿にお出ましになった。右大臣藤原実頼を以て左大臣に任じ、大納言藤原師輔を以て右大臣に任じた。参議源高明、藤原在衡を以て権中納言に任じた。右大弁源等、太宰大弐小野好古を以て参議に任じた。中納言藤原顕忠を内弁に任じた。参議庶明を宣命使に任じた。(『日本紀略』)
右大臣家において饗禄があった。(『日本紀略』)
4月27日 勧学院学生が右大臣を賀す/朱雀院季御読経
天暦元年(947)4月27日壬午、勧学院の学生が右大臣を賀した。(『日本紀略』)
藤原師輔は所々に慶賀を申した。(『九暦抄』)
朱雀院の春季御読経が始められた。(『日本紀略』)
5月
5月2日 藤原師輔 慶賀/位記請印
天暦元年(947)5月2日、藤原師輔は陽成院に参り慶賀を申した。(『九暦抄』)
内印・位記請印があった。(『日本紀略』)
5月4日 藤原師輔らが宜陽殿に着座
天暦元年(947)5月4日戊子、右大臣藤原師輔が宜陽殿に着した。権中納言藤原在衡、参議源等も同じく着した。昇進の後である。(『日本紀略』)
5月8日 興福寺が藤原師輔を賀す
天暦元年(947)5月8日壬辰、興福寺別当以下が右大臣藤原師輔を賀した。(『日本紀略』)
5月9日 藤原実頼が初めて宜陽殿に着座/藤原師輔 昇殿/位記請印/競馬御覧
天暦元年(947)5月9日癸巳、左大臣藤原実頼が初めて宜陽殿に着した。(『日本紀略』)
藤原師輔が任大臣により昇殿を許された。(『九暦抄』)
位記請印があった。(『日本紀略』)
朱雀上皇が朱雀院馬場において、左右近衛を召して騎射をさせた。また、競馬をご覧になった。(『日本紀略』)
5月11日 藤原師輔 奏慶/右兵衛手結の停止
天暦元年(947)5月11日、藤原師輔は昇殿の慶びを奏した。(『九暦抄』)
闘乱により、右兵衛の手結は停止となった。(『日本紀略』)
5月14日 延暦寺僧が藤原師輔を賀す
天暦元年(947)5月14日戊戌、延暦寺の僧たちが右大臣藤原師輔を賀した。(『日本紀略』)
5月15日 内御修法
天暦元年(947)5月15日己亥、明達律師が伴僧を率いて内裏に参り、御修法を始めた。(『日本紀略』)
伴僧は20人であった。(『貞信公記抄』)
5月22日 明達が度者を賜る
天暦元年(947)5月22日丙午、明達律師は度者を賜った。(『日本紀略』)
5月16日 藤原実頼が本陣に着座
天暦元年(947)5月16日庚子、左大臣藤原実頼が本陣に着した。(『日本紀略』)
5月18日 左右御馬御覧
天暦元年(947)5月18日壬寅、村上天皇は紫宸殿にお出ましになり、左右馬寮の御馬を召してご覧になった。(『日本紀略』)
5月21日 源高明室 卒去
天暦元年(947)5月21日乙巳、源高明の妻が卒去した。(『日本紀略』同年7月8日条)
5月27日 十七天供
天暦元年(947)5月27日辛亥、延昌山座主が大内十七天供を奉仕した。五日間に渡って行われた。(『貞信公記抄』)
6月
この月から疱瘡が流行した。童の謡言があった。(『日本紀略』)
6月4日 除目
天暦元年(947)6月4日丁巳、除目の議が始められた。(『日本紀略』)
6月5日 除目
天暦元年(947)6月5日戊午、大雨により諸卿は議所に着さなかった。(『日本紀略』)
6月6日 除目
天暦元年(947)6月6日己未、除目の議が行われた。(『日本紀略』)
6月7日 除目清書
天暦元年(947)6月7日庚申、除目の清書が行われた。(『日本紀略』)
6月9日 朱雀上皇、犬を献じる
天暦元年(947)6月9日壬戌、朱雀院から鷂鷹四連、犬二牙が進上された。修理亮藤原仲陳が使者を務めた。被物として紅染褂一領を賜った。(『日本紀略』)
6月10日 御体御卜奏
天暦元年(947)6月10日癸亥、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
6月11日 神今食
天暦元年(947)6月11日甲子、神今食が行われた。廃務であった。(『日本紀略』)
6月12日 祈年穀奉幣定
天暦元年(947)6月12日乙丑、祈年穀奉幣のことを定めた。(『日本紀略』)
6月13日 二条院修理
天暦元年(947)6月13日丙寅、二条院の東方を修理した。今日から始まった。(『日本紀略』)
6月15日 賑給定/朱雀上皇、二条院御幸
天暦元年(947)6月15日戊辰、賑給のことを定めた。(『日本紀略』)
朱雀上皇が二条院へお出かけになった。(『日本紀略』)
6月17日 止雨奉幣使発遣
天暦元年(947)6月17日庚午、霖雨を止めるために臨場奉幣使を諸社へ発遣した。(『日本紀略』)
6月20日 直物/防鴨川使補任/初斎院定/臨時御読経の日時を勘申
天暦元年(947)6月20日癸酉、右大臣藤原師輔は直物を行った。また、防鴨川使を任じた。この日、斎宮悦子女王が御諸司に入る日を占わせた。(『日本紀略』)
この日、臨時御読経の日時を勘申させた。(『日本紀略』)
6月21日 朱雀上皇、藤原忠平に御物を下給/臨時御読経日時改定
天暦元年(947)6月21日甲戌、朱雀院から藤原忠平のもとに勅使藤原仲陳が来た。忠平は御前の山桃を賜った。忠平から仲陳へ被物があった。(『貞信公記抄』)
臨時御読経の日時を改定した。(『日本紀略』)
6月22日 諸国司の雑事定/囚徒を赦免
天暦元年(947)6月22日乙亥、陣頭において諸卿は五畿内、近江、丹波国司の申した三箇条ならびに加賀守良貞の申請した四箇条ついて相定めた。(『日本紀略』)
左右の獄囚11人を赦免した。霖雨が止まず多くの損害が出ていることによる。(『日本紀略』)
6月25日 八十島祭使発遣
天暦元年(947)6月25日戊寅、八十島祭使を発遣した。典侍滋野幸子、蔵人左衛門尉清遠などが使者を務めた。来たる27日に祭が行われる予定であったが、急に内裏で穢が出てきたので、祭を停止することになった。左近番長豊原春方が使者を召し返した。(『日本紀略』)
6月26日 藤原忠文 卒去
天暦元年(947)6月26日己卯、参議民部卿藤原忠文が卒去した。(『日本紀略』)
6月27日 六月祓
天暦元年(947)6月27日庚辰、朱雀上皇は松崎河原で御禊を行った。それから陽成院五瀬院へお出かけになり、六月祓を行った。晩頭に院へお帰りになった。(『日本紀略』)
6月29日 臨時仁王会
天暦元年(947)6月29日壬午、紫宸殿ならびに十五大寺、諸社において臨時仁王経御読経が行われた。(『日本紀略』)
物の怪の不祥を祓うため、兼ねて年穀を祈るためである。(『貞信公記抄』)
7月2日 結願
天暦元年(947)7月2日乙酉、御読経が結願した。(『日本紀略』)
6月30日 節折/藤原胤子国忌
天暦元年(947)6月30日癸未、藤原胤子の国忌であった。廃務であった。(『日本紀略』)
7月
7月1日 怪異
天暦元年(947)7月1日、酉の刻、鷺が豊楽殿の北廊に集まった。占って言うことには「□(欠字)」と。(『貞信公記抄』)
7月3日 大風雨
天暦元年(947)7月3日丙戌の夜、猛烈な大風と雨によって京中の庁舎が顛倒あるいは破壊された。特に、宮内省南門・大蔵省後庁・掃部寮西屋・左馬寮造酒司南門・典薬寮東檜皮葺屋などが顛倒した。また、河水が溢れた。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
7月4日 広瀬・龍田祭の延期
天暦元年(947)7月4日丁亥、広瀬・龍田祭は内裏の死穢によって延期となった。よって、大祓を修した。(『日本紀略』)
7月9日 広瀬・龍田祭
天暦元年(947)7月9日壬辰、広瀬・龍田祭が行われた。廃務であった。(『日本紀略』)
7月5日 造輪田使定
天暦元年(947)7月5日戊子、陣頭において、諸卿は造輪田使及び諸国へ申す解文について定められた。(『日本紀略』)
7月9日 諸社奉幣
天暦元年(947)7月9日壬辰、御祈により伊勢大神宮以下の十社へ奉幣が行われた。村上天皇は八省院にお出ましにならなかった。内侍も伺候していなかった。(『日本紀略』)
7月11日 普子内親王 薨去
天暦元年(947)7月11日甲午、無品普子内親王が薨じられた。(『日本紀略』)
7月23日 薨奏
天暦元年(947)7月23日丙午、普子内親王の薨奏が行われた。(『日本紀略』)
7月12日 内御修法
天暦元年(947)7月12日乙未、内御修法が始まった。延昌律師が阿闍梨となった。(『日本紀略』)
伴僧は20人であった。(『貞信公記抄』)
7月14日 八十島祭の日時を勘申
天暦元年(947)7月14日丁酉、八十島祭の日時を勘申させた。(『日本紀略』)
7月15日 朱雀上皇、二条院御幸/月食
天暦元年(947)7月15日戊戌、朱雀上皇が二条院へお出かけになった。夜、皆既月食があった。(『日本紀略』)
7月16日 官奏/相撲召合定
天暦元年(947)7月16日己亥、官奏が行われた。左大臣藤原実頼が伺候した。(『日本紀略』)
左大臣藤原実頼が来たる25・26日に相撲召合を行うことを召し仰せた。音楽はなかったという。(『九暦』)
7月17日 触穢
天暦元年(947)7月17日庚子、内裏に丙穢が及んだ。(『日本紀略』)
7月18日 諸衛官人と敦実親王の闘乱を停止
天暦元年(947)7月18日辛丑、諸衛官人と式部卿敦実親王の家人が闘乱しようとしていた。勅があり、これを止めた。(『日本紀略』)
7月21日 美濃国解文定/源和子 薨去
天暦元年(947)7月21日甲辰、右大臣藤原師輔は陣において美濃国の解文について定められた。(『日本紀略』)
この日、醍醐天皇女御正三位源和子が薨じられた。(『日本紀略』)
7月23日 八十島祭日時定/読経/陽成上皇八十算賀
天暦元年(947)7月23日丙午、八十島祭の日時を定めた。(『日本紀略』)
弁官庁で僧三十口を請い、読経があった。今月1日、豊楽院に鷺がいたことによる。(『日本紀略』)
また、中納言源清蔭が陽成上皇の八十算を賀した。功徳を八ヶ所の寺に修した。(『日本紀略』)
7月25日 左右手番を奏する
天暦元年(947)7月25日戊申、左大将藤原実頼は左右手番を奏した。(『日本紀略』)
7月26日 相撲内取
天暦元年(947)7月26日己酉、相撲内取が行われた。(『日本紀略』)
7月29日 相撲召合
天暦元年(947)7月29日壬子、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。相撲召合があった。風と水による損害ならびに普子内親王の薨去により、音楽はなかった。右大将藤原師輔は参らなかった。27日に着座してから三日過ぎていないからである。(『日本紀略』)
7月27日 右大臣初著座
天暦元年(947)7月27日庚戌、右大臣藤原師輔が初めて着座した。(『日本紀略』)
閏7月
閏7月5日 官奏
天暦元年(947)閏7月5日丁巳、右大臣藤原師輔が官奏を奉仕した。(『日本紀略』)
閏7月10日 左相撲還饗
天暦元年(947)閏7月10日壬戌、左大将(藤原実頼)の還饗があった。(『九暦抄』)
閏7月12日 右相撲還饗
天暦元年(947)閏7月12日甲子、右大将(藤原師輔)の相撲還饗があった。(『九暦抄』)
閏7月13日 復任除目/仁王会大祓
天暦元年(947)閏7月13日乙丑、復任除目があった。(『日本紀略』)
仁王会の大祓が行われた。(『日本紀略』)
閏7月17日 仁王会呪願
天暦元年(947)閏7月17日己子、紀在昌が仁王会の呪願文を進上した。朝綱朝臣にこれを奏させた。朱雀上皇は上に在り、陽成上皇は下に在った。この疑いを申させると、仰せて言うことには「陽成上皇が上に在るように」と。すぐに作者に下給し、改めさせた。「また、奏を御書所に下給し書かせた」ということだ。(『九暦抄』)
閏7月18日 触穢
天暦元年(947)閏7月18日庚午、去る13日、内裏殿上で矢に射られた犬が発見された。そこで、御卜を行わせた。(『日本紀略』)
閏7月19日 臨時仁王会
天暦元年(947)閏7月19日辛未、日中より大風が吹いた。この日、臨時仁王会が修された。日頃の天変・物の怪・世間の妖言・触穢が甚だ多いこと、また京中に疱瘡が流行していることによる。(『日本紀略』)
閏7月22日 藤原輔子・等子を掌侍に任じる/朱雀上皇、大井川御幸
天暦元年(947)閏7月22日甲戌、藤原輔子・等子を掌侍に任じた。(『日本紀略』)
朱雀上皇が大井川へお出かけになった。(『日本紀略』)
閏7月23日 藤原成国らの違勅/興福寺・延暦寺に度者を給わる
天暦元年(947)閏7月23日乙亥、左大臣藤原実頼は勅を奉り、右衛門佐藤原成国・左衛門尉藤原為忠・右衛門大志藤原貞実らを召し、奉勅宣旨を奉行しなかったことを仗座において勘問した。先年の駿河守橘最茂の愁いにより、彼の国の掾橘近保に宣旨を下したが、成国らと近保に確執があったことが露見した。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
中使随時が藤原忠平のもとに来て言うことには「興福寺南円堂は三十人の度者を申しました。前例により下給すること、台山東の法華三昧堂は度者12人と実性が申しました。御即位の間、御祈の僧七人の度者を申しました」と。また言うことには「度者五人を故義海の弟子に給わる」と。(『貞信公記抄』)
閏7月24日 藤原秀郷の功績を申請
天暦元年(947)閏7月24日丙子、中使随時が藤原忠平のもとに来て言うことには「権中納言が奏させて言うことには『藤原秀郷朝臣が申すところの故平将門の兄弟を反すべきこと、功田を給わること』」と。
閏7月25日 直物
天暦元年(947)閏7月25日丁丑、直物があった。右大臣藤原師輔が行った。(『日本紀略』)
閏7月27日 朱雀上皇、二条院・北野御幸
天暦元年(947)閏7月27日己卯、朱雀上皇は二条院にお出かけになり、北野をご覧になった。(『日本紀略』)
閏7月28日 藤原為忠らが過状を進上
天暦元年(947)閏7月28日庚辰、左衛門尉藤原為忠・右衛門大志藤原貞実を召し、左近衛陣の外において勘問を行った。為忠らはさらに申すのを避けるところなく、過状を進上した。(『日本紀略』)
閏7月29日 藤原成国を勘問
天暦元年(947)閏7月29日辛巳、撰式所において右衛門権佐藤原成国を勘問した。(『日本紀略』)
8月
8月1日 藤原成国を勘問
天暦元年(947)8月1日壬午、重ねて藤原成国を勘問した。(『日本紀略』)
8月4日 藤原貞実 死去
天暦元年(947)8月4日乙酉、藤原貞実は過状を進上した後、幾日も経たず死去していた。(『日本紀略』)
8月5日 臨時除目
天暦元年(947)8月5日丙戌、左大臣藤原実頼が御前に伺候し、除目を行った。出羽介平斉章が傔仗二人を申請し、これを任じた。(『日本紀略』)
8月6日 釋奠
天暦元年(947)8月6日丁亥、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月7日 怪異/釋奠内論議
天暦元年(947)8月7日戊子、鷺が紫宸殿の前庭に集まった。(『日本紀略』)
村上天皇が紫宸殿にお出ましになり、博士たちを召して内論議を行った。ただし、博士に禄はなかった。(『日本紀略』)
8月8日 官奏/草花御覧
天暦元年(947)8月8日己丑、左大臣藤原実頼が官奏を奉仕した。この日、殿庭の草花御覧があった。侍臣が和歌を献じた。(『日本紀略』)
8月9日 季御読経
天暦元年(947)8月9日庚寅、秋季御読経が始められた。(『日本紀略』)
8月12日 結願
天暦元年(947)8月12日癸巳、秋季御読経が結願した。(『日本紀略』)
8月11日 定考
天暦元年(947)8月11日壬辰、定考が行われた。音楽はなかった。天下の疱瘡の愁いによる。(『日本紀略』)
8月14日 鬼気祭
天暦元年(947)8月14日乙未、朱雀院・中宮藤原穏子・太政大臣藤原忠平・左大臣藤原実頼・右大臣藤原師輔が名僧に大般若経を転読させ、仁王経を演説させた。疱瘡の流行による。(『日本紀略』)
この日、建礼門の前において鬼気祭を修した。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
8月15日 大祓
天暦元年(947)8月15日丙申、疱瘡を除くために、紫宸殿・建礼門・朱雀門の三ヶ所において大祓があった。去る7月より三十歳以下の男女が疱瘡を煩い、今月以後に最も勢いを増した。疱瘡に罹った体は粟や豆のようなものをなした。(『日本紀略』)
8月17日 天皇・上皇が疱瘡に罹患
天暦元年(947)8月17日戊戌、内印を請い、疱瘡を除くために諸社へ奉幣し読経を行う官符を五畿七道に下給した。村上天皇と朱雀上皇がともに疱瘡に罹患した。(『日本紀略』)
8月18日 御読経
天暦元年(947)8月18日己亥、智徳四十二口を請い、仁寿殿において臨時御読経を修した。天皇のご病気による。(『日本紀略』)
8月19日 賑給
天暦元年(947)8月19日庚子、東西両京に賑給があった。疱瘡及び赤痢による。(『日本紀略』)
8月21日 触穢
天暦元年(947)8月21日壬寅、朱雀院の傷胎の触穢が内裏に及んだ。30日の穢となった。(『日本紀略』)
8月22日 四角祭・四角四堺祭
天暦元年(947)8月22日癸卯、四角祭、次いで四角四堺祭が修された。(『貞信公記抄』)
8月25日 内印請印/伊勢斎王御禊の日時を勘申
天暦元年(947)8月25日丙午、内印請印があった。(『日本紀略』)
また、伊勢斎王の御禊の日時を勘申した。(『日本紀略』)
8月26日 光孝天皇国忌
天暦元年(947)8月26日丁未、光孝天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
8月30日 臨時御読経の日時定
天暦元年(947)8月30日辛亥、臨時御読経の日時を定めた。(『日本紀略』)
9月
9月3日 御燈
天暦元年(947)9月3日甲寅、御燈があった。廃務であった。(『日本紀略』)
9月5日 大赦/勧学院の木が折れる
天暦元年(947)9月5日丙辰、大赦があった。疱瘡の流行による。(『日本紀略』)
詔書により、大辟以下の罪を赦させた。(『貞信公記抄』)
勧学院の椎の木がみな悉く折れて落ちていた。(『貞信公記抄』)
9月7日 仁王経転読
天暦元年(947)9月7日戊午、僧百口が紫宸殿・綾綺殿の両殿において三日間に渡り仁王経を転読した。疱瘡の流行による。(『日本紀略』)
9月10日 結願
天暦元年(947)9月10日辛酉、御読経が結願した。百僧はそれぞれ度者を賜った。(『日本紀略』)
9月10日 月次祭の延期
天暦元年(947)9月10日辛酉、左大臣藤原実頼が外記に仰せて言うことには「明日の月次祭を延期する」と。(『日本紀略』)
9月11日 大祓
天暦元年(947)9月11日壬戌、建礼門において大祓があった。(『日本紀略』)
9月15日 大神宮に祈る
天暦元年(947)9月15日丙寅、祭主大中臣頼基を左衛門陣の外に召して、天変ならびに神託によると兵革の可能性があるので、祈り申すように仰せられた。(『日本紀略』)
9月17日 詔書覆奏
天暦元年(947)9月17日戊辰、詔書覆奏が行われた。(『日本紀略』)
9月22日 使部定考
天暦元年(947)9月22日癸酉、使部定考が行われた。(『日本紀略』)
9月25日 斎宮御禊
天暦元年(947)9月25日丙子、伊勢斎宮悦子女王が鴨川において御禊を行い、主殿寮に入った。(『日本紀略』)
9月29日 醍醐天皇国忌
天暦元年(947)9月29日庚辰、醍醐天皇の国忌であった。諸司は廃務であった。(『日本紀略』)
10月
10月1日 官政
天暦元年(947)10月1日壬午、官政があった。中少弁は参らなかった。よって、申文はなかった。村上天皇は御物忌により紫宸殿にお出ましにならなかった。平座・見参は通例通りであった。(『日本紀略』)
10月3日 諸社奉幣/囚徒を免じる
天暦元年(947)10月3日甲申、伊勢大神宮以下14社へ奉幣が行われた。疱瘡・赤痢ならびに御悩の平癒を祈り申された。(『日本紀略』)
10月5日 藤原述子 卒去
天暦元年(947)10月5日丙戌、女御藤原述子が東三条邸において卒去した。疱瘡の間に出産したことによる。(『日本紀略』)
10月13日 葬送
天暦元年(947)10月13日甲午の夜、弘徽殿女御の葬送が行われた。村上天皇の詔により従四位上を贈った。藤原朝綱が勅使を務め、左近少将国紀が宣命文を読んだ。(『日本紀略』)
11月20日 四十九日法会
天暦元年(947)11月20日庚午、法性寺において弘徽殿女御の四十九日法会が修された。(『日本紀略』)
10月9日 八十島祭の延期
天暦元年(947)10月9日庚寅、穢により八十島祭を延期するよう宣旨を下した。(『日本紀略』)
10月13日 内御修法
天暦元年(947)10月13日甲午、内裏で御修法を始めた。寛空律師が阿闍梨となった。(『日本紀略』)
10月17日 官奏
天暦元年(947)10月17日戊戌、右大臣藤原師輔が初めて官奏を奉仕した。(『日本紀略』)
10月19日 怪異
天暦元年(947)10月19日、雉が左衛門陣の艮の方角に侵入した。(『貞信公記抄』)
10月21日 法性寺御八講
天暦元年(947)10月21日壬寅、法性寺御八講が始まった。(『日本紀略』)
10月25日 結願
天暦元年(947)10月25日丙午、法性寺御八講が結願した。(『日本紀略』)
10月22日 藤原倫寧が氷魚を賜る
天暦元年(947)10月22日癸卯、右衛門尉藤原倫寧が氷魚を賜った。(『西宮記』)
10月23日 官奏・除目
天暦元年(947)10月23日甲辰、官奏・除目があった。(『日本紀略』)
10月26日 御馬御覧
天暦元年(947)10月26日丁未、朱雀院において小野好古の御馬御覧があった。(『日本紀略』)
10月27日 検非違使・諸司・別当を定める
天暦元年(947)10月27日戊申、検非違使ならびに諸司、所々の別当を定めた。(『日本紀略』)
10月29日 尊勝法
天暦元年(947)10月29日庚戌、台山において大内尊勝法を修し始めた。延昌座主が阿闍梨となった。僧15人。七日間に渡って行われた。(『貞信公記抄』)
11月
11月1日 御暦奏/倹約
天暦元年(947)11月1日辛亥、村上天皇の御物忌により御暦を内侍に託し、これを奏した。(『日本紀略』)
右大臣藤原師輔らが宜陽殿に着し、倹約のことを定めた。(『日本紀略』)
11月3日 宇治院御幸・御遊狩
天暦元年(947)11月3日癸丑、朱雀上皇は宇治院へお出かけになり、栗隈野に入って遊狩を行った。右大臣藤原師輔・中納言源高明・参議藤原師氏、殿上侍臣が少しばかり付き従った。(『日本紀略』)
11月4日 諸神位記請印
天暦元年(947)11月4日甲寅、諸神位記に請印が行われた。(『日本紀略』)
11月5日 郡司読奏
天暦元年(947)11月5日乙卯、郡司読奏のことがあった。村上天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
11月8日 触穢
天暦元年(947)11月8日戊午、内裏で穢があった。(『日本紀略』)
11月10日 平野祭・春日祭
天暦元年(947)11月10日庚申、平野祭・春日祭が行われた。(『日本紀略』)
使者は尚相朝臣・惟正が務めた。(『貞信公記抄』)
11月11日 雑物の価値を減定する
天暦元年(947)11月11日辛酉、諸卿が雑物の価値を減定することを定められた。(『日本紀略』)
中使公輔が藤原忠平のもとへ来た。諸卿は定め申す雑物の価値の文を賜った。そのついでに「昨夜、御物忌に宿侍したのは公輔・親賢の二人でした」と。宿侍が少ない時は度々ある。しかし、二人は稀有であるため、これを記す。私記である。(『貞信公記抄』)
11月14日 大原野祭
天暦元年(947)11月14日甲子、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
11月16日 鎮魂祭/八十島祭使定
天暦元年(947)11月16日丙寅、鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
八十島祭使を定めた。(『日本紀略』)
11月17日 新嘗祭/藤原敦敏 卒去
天暦元年(947)11月17日丁卯、新嘗祭が行われた。(『日本紀略』)
この日、藤原敦敏が卒去した。(『日本紀略』)
11月18日 豊明節会
天暦元年(947)11月18日戊辰、豊明節会が行われた。村上天皇は紫宸殿にお出ましになった。右大臣藤原師輔が参り仕えた。(『日本紀略』)
11月20日 御修法
天暦元年(947)11月20日庚午、太皇太后藤原穏子は村上天皇のために台山の座主の房において不動尊像を造らせ、この日から御修法を始めた。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
11月23日 賀茂臨時祭の延期
天暦元年(947)11月23日癸酉、賀茂臨時祭は、馬の死穢が丙穢となって内裏に来たことにより延期となった。(『日本紀略』)
11月27日 賀茂臨時祭
天暦元年(947)11月27日丁丑、賀茂臨時祭が行われた。式部大輔大江維時が舞人・陪従たちを率いて社頭に参向した。(『日本紀略』)
11月24日 八十島祭の延期
天暦元年(947)11月24日甲戌、八十島祭は延期となった。内裏に丙穢があり、明日までが穢の期間だからである。(『日本紀略』)
11月26日 郡司召
天暦元年(947)11月26日丙子、郡司を任じた。(『日本紀略』)
11月27日 源延光 雑袍宣旨/朱雀院行幸召仰
天暦元年(947)11月27日丁丑、源延光に雑袍宣旨を下した。(『日本紀略』)
明日、朱雀院行幸を行う召仰があった。(『日本紀略』)
11月28日 朱雀院行幸/八十島祭使発遣
天暦元年(947)11月28日戊寅、村上天皇は朱雀院へおでかけになった。(『日本紀略』)
親王は付き従わなかった。また、内舎人は一人も伺候しなかった。次侍従は二人だけであった。左兵衛佐はみな故障があって参らなかった。よって、左衛門佐を以て代わりとした。(『貞信公記抄』)
この日、八十島祭使掌侍橘平子を発遣した。蔵人左衛門尉橘公輔を使者とした。(『日本紀略』)
11月30日 八十島祭/弓場始
天暦元年(947)11月30日庚辰、八十島祭が行われた。(『日本紀略』)
弓場始が行われた。まず村上天皇が射て、的にあたった。(『九暦抄』)
12月
12月1日 官奏
天暦元年(947)12月1日辛巳、右大臣藤原師輔が官奏を奉仕した。(『日本紀略』)
12月10日 官奏
天暦元年(947)12月10日庚寅、官奏があった。(『日本紀略』)
12月13日 官奏
天暦元年(947)12月13日癸巳、右大臣藤原師輔が官奏を奉仕した。(『日本紀略』)
12月3日 天智天皇国忌/藤原忠平、御書を賜る
天暦元年(947)12月3日癸未、天智天皇の国忌であった。廃務であった。(『日本紀略』)
中使兼通が藤原忠平のもとへ来た。忠平は御書を賜った。(『貞信公記抄』)
12月5日 諸神位記請印
天暦元年(947)12月5日乙酉、諸神位記に請印が行われた。(『日本紀略』)
12月7日 荷前使定
天暦元年(947)12月7日丁亥、藤原師輔が参内した。外記に勘申の旨を奏させた。仰せて言うことには「今日、使などを差し定めるように」と。すぐに定め奏した。
使などの差文は例により13日に定め奏した。しかし、今年の大神祭は11日にあたる。立春は19日である。もしくは13日、使などを定め奏すれば、立春の前に残る日は何日もない。事の煩いがあるだろうか。事の疑いがあることにより、大外記公忠宿禰に仰せて言うことには「12月中旬に立春があるとき、使を差す例ならびに申の日に荷前のことを行う例を勘申するように」と。7日、勘文に言うことには「仁寿二年12月8日、荷前使の歴名を定めました。承平六年12月8日、仁寿の例により公卿使を定め奏しました。また、申の日に行う例は貞観二年から承平四年に至るまで、合わせて七度ありました」と。(『九条殿記』)
12月9日 鵜飼御覧
天暦元年(947)12月9日己丑、朱雀上皇は鵜飼を水に入れてご覧になった。(『日本紀略』)
12月10日 御体御卜奏
天暦元年(947)12月10日庚寅、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
12月11日 神今食
天暦元年(947)12月11日辛卯、村上天皇は神嘉殿にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
納言以下が神嘉殿に着した。(『西宮記』)
12月13日 荷前使を懈怠した侍従を罰する
天暦元年(947)12月13日癸巳、公忠宿禰が申して言うことには「荷前使を懈怠した侍従を罰すべき法は、式条にすでに存在します。しかし年来、法の如く糺し行わなかったことにより、勤める者はすでに少なく、緩怠の輩はとても多いです。新たに定め行われるのがよろしいかと」と。藤原師輔はすぐに外記の申す旨を以て、右中弁有相に奏聞させた。仰せて言うことには「式条の外、どうして新たに定めるのか。式に任せて行うように。ただし当日になって待賢門において障りを申す輩は、真偽を決めることをよろしく定めて宣旨を下すように」と。宣旨を仰すべき趣を公忠宿禰に仰せた。また、公忠宿禰が申して言うことには「使に充てる侍従ならびに内舎人は、すでに少ないです」と。仰せて言うことには「例により、高年の人を差し出すように。また、内舎人代については散所の人を差し出すように」と。(『九条殿記』)
12月14日 康子内親王参内/藤原季平 昇殿
天暦元年(947)12月14日甲午、康子内親王が参内した。(『日本紀略』)
この日、藤原季平が昇殿を許された。(『日本紀略』)
12月16日 荷前
天暦元年(947)12月16日丙申、荷前があった。(『日本紀略』)
公忠宿禰が宣旨を案出して持ってきた。不快の所々を改正した。仰せて言うことには「早く中務省に下給するように。また、事の次いであれば、奏覧を経るため一通を有相朝臣に託すように」と仰った。その宣旨の案文を、件の書の端に続けた。(『九条殿記』)
この日、荷前のことがあった。明け方になって雪の深さは一寸程であった。随身近衛を差し出し、装束使是除のもとに示し送り言ったことには「昨日の晴れにより、大場装束を奉仕するか。早く雨儀装束に改めるように。自身はただいま参入する」と。随身が帰ってきて申して言ったことには「仰られた通りに奉仕させます」と。巳一刻、藤原師輔は参入した。宜陽殿の座に着した。左近官人を遣わし、中重装束は完了しているか否かを見させた。申して言ったことには「装束はすでに終わりました。弁・外記・史が伺候しています」と。長楽門より出て、座に着した。これより前に、参議左兵衛督藤原師尹が座にいた。使者の参儀以上八人の中で、障りを申した者は五人いた。中納言藤原顕忠・藤原元方・権中納言源高明・参議保平などである。よって先日の差文に入っていない参議藤原師氏・師尹及び班幣所参議源庶明を召し遣わして欠員を補充した。なお不足があったので、権中納言藤原在衡・参議藤原師氏、両所の使者を相兼ねさせた。参議たちは遅くに参入した。召使に召し催させた。午三刻になり、わずかに参入した。外記是連が申して言ったことには「造酒正清鑑が参入していません。代官を賜るべきです」と。外記が定め申したことにより、主殿頭時雨を持って奉仕させることを仰った。公忠宿禰が申して言ったことには「侍従たちは、ある者は待賢門に参って障りの由を申し、ある者は故障を申しませんでした。その替わりを定め行われるべきです」と。仰って言ったことには「待賢門に参った輩は、早く使者を遣わして実検させよ。ただし長官が障る所は、諸司長官の中から選んで充てよ」と。外記是連が申して言ったことには「先日の宣旨によって、内舎人が足りないときの代わりは散所の人を以て差し仰せます。しかし、ある者は障りの由を申し、ある者は他の場所へ罷り去りました。これによってなお5人足りません」と。仰って言ったことには「先例ではこのような時、どのように行ったのか」と。申して言ったことには「省丞を以てその代わりに補しました。それでもなお不足があるときは、使者の内舎人がいないといっても、内豎・大舎人は例によって供奉する」と。仰って言ったことには「幣物を御前の墓々に持って参るに、内舎人に懈怠があれば、その他の内舎人を以て補うべきです」と。午三刻に「天皇がお出ましになりました」ということだ。よって左近官人を召し案内を取ると「御出はすでに終わりました」ということだ。幣物を供することは、通例どおりであった。未一刻、お帰りになった。すぐに長楽門から入り、殿上の座に着した。少納言・弁・外記・史は追従しなかった。未だに是非を知らない。また、左右兵衛陣が長楽門東西の南庭に立ったのは通例どおりであった。(『九条殿記』)
12月19日 立春/内御修法/荷前不参の者の解却
天暦元年(947)12月19日己亥、内御修法が始まった。明達律師が阿闍梨となった。伴僧は20人であった。(『貞信公記抄』)
藤原師輔は俊朝臣に託し、外記勘文を奏させた。仰って言ったことには「不参の輩及び待賢門に参ったものの病が顕著ではない輩は、宣旨に任せて解却するように」と。事の趣を具さに勘文に注するにより、具さに記すことはできなかった。(『九条殿記』)
12月20日 御仏名/次侍従職の解却
天暦元年(947)12月20日庚子、内裏で御仏名が始まった。(『日本紀略』)
藤原師輔は殿に参り、侍従六人を解却することを執り申した。仰って言ったことには「先例はすでにある。このこと、当時の人は恨みがあるといっても、法式に任せて行われるのに、さらに何事があるのか」と。師輔は参内した。宜陽殿の座に着した。中務大輔博雅を召し、刊じ棄つ侍従の名前六人を書き出した。(『九条殿記』★)
12月21日 位記請印
天暦元年(947)12月21日辛丑、位記請印が行われた。(『日本紀略』)
12月22日 朱雀院御仏名
天暦元年(947)12月22日壬寅、朱雀院の御仏名があった。(『日本紀略』)
12月23日 光仁天皇国忌
天暦元年(947)12月23日癸卯、光仁天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
12月30日 追儺/大祓
天暦元年(947)12月30日庚戌、追儺・大祓は恒例のとおりであった。(『日本紀略』)
+ 天暦二年(948)の年表を見る
天暦二年(948)
1月
1月1日 元日節会/朝賀・小朝拝・院拝礼の停止
天暦二年(948)1月1日辛亥、朝賀はなかった。村上天皇が紫宸殿にお出ましになり、宴会を行った。音楽があった。右丞相藤原師輔が内弁を奉仕した。また、雨により小朝拝ならびに院拝礼はなかった。(『日本紀略』)
宴会は通例のとおりであった。(『貞信公記抄』)
寅の刻、藤原師輔は四方拝を行った。次いで念誦堂に入った。巳の刻、殿に参った。拝し奉った。「これより先、左大臣(藤原実頼)が拝し奉った。すぐに還り退いた」ということだ。(『九暦抄』)
典薬の当色を遅く給わったことにより、御薬を供しなかった。(『西宮記』)
1月2日 太皇太后大饗/行幸召仰
天暦二年(948)1月2日壬子、朱雀院において太皇太后藤原穏子の大饗があった。(『日本紀略』)
藤原師輔は中務卿宮に向かった。「早くに他所へ行った」ということだ。師輔は式部卿宮に向かった。王卿が多く参っていた。師輔が拝礼する間、主人が答拝した。王卿はみな立ち退いた。数盃の後、主人卿・中務卿・師輔は同車して朱雀院に参った。(『九暦抄』)
この日、明日行幸を行うことを諸司諸衛に召し仰せた。(『日本紀略』)
1月3日 朱雀院朝覲行幸
天暦二年(948)1月3日癸丑、村上天皇は朱雀院へお出かけになり、まず太皇太后藤原穏子を拝し、次いで朱雀上皇に謁した。(『日本紀略』)
1月4日 右大臣大饗の準備
天暦二年(948)1月4日甲寅、晴れ。藤原師輔は明日の大饗の経営により、外出しなかった。斉敏朝臣が来て言ったことには「昨日の消息を丞相に申し終えました。答えて言ったことには『心労がある上に悩むところがあり、参向することができなかった』ということでした」と。中務卿重明親王が光臨した。去る2日、参向の由を謝した。酒盃を勧めた。還り出る間、すこぶる親王を相送り、還って息をついた。桃園宰相(藤原師氏)が来た。明日の大饗のことを尋ねた。引出物料の馬一疋・鷹の調度などを労送した。殿から助縄真人を差し出し、仰って言ったことには「明日の大饗は如何であろう。今年の最初の饗宴である。殊に用意して欠怠があってはならない。また、三連を送り遣わす。選んで宜しく留めるように」と。謹んで仰られたことを奉り、一連を留めた。西宮内親王たちを迎え奉った。明日の大饗による。(『九条殿記』)
1月5日 卯杖/右大臣大饗
天暦二年(948)1月5日乙卯、卯杖を奏した。(『日本紀略』)
午の刻、俎上を弁備し終わった。上達部がようやく集まってきた。同三刻、師輔は簾の外に出た。諸卿が列立していた。師輔は橋の西腋に下り立った。公卿以下史以上が列立した。拝礼の座に着した。初献、師輔、南、弾正親王、北。二献、兵部卿親王・中務親王。この間、飩を進め献じた。三献、右兵衛督・源侍従。以上、一世源氏。史生を召した。後に飯を進めた。この間、式部卿親王が光臨した。五巡し、録事を仰られた。次いで雅楽・音声の興があった。二曲、舞の間、隠座に出た。禄・引出物を下給したことは通例のとおりであった。管弦に秀でた者を召した。いささか呂音を唱えた。亥の刻、ともに分散した。垣下の親王、式部卿・弾正尹・兵部卿・中務卿ならびに四人。引出物は馬一疋であった。(『九暦抄』)
1月6日 叙位
天暦二年(948)1月6日丙辰、叙位の議があった。右大臣藤原師輔が奉行した。(『貞信公記抄』)
1月7日 白馬節会/叙位
天暦二年(948)1月7日丁巳、白馬節会が行われた。村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。叙位の議があった。王卿は禄を賜らなかった。(『日本紀略』)
節会は通例のとおりであった。ただし、禄を下給しなかった。叙位があった。深夜に終わった。王卿の多くが退出した。(『貞信公記抄』)
1月8日 朱雀上皇、四所名簿を下給/触穢/御斎会
天暦二年(948)1月8日戊午、朱雀上皇は四所名簿を給わった。(『日本紀略』)
中使頭朝臣が藤原忠平のもとに来て言ったことには「今日、大極殿に出ようとしましたが、死穢に触れた人が宮中に入ってきました。これを如何しましょう。また、女叙位のことは行うべきでしょうか。今年、労の多い人はいません」ということだ。(『貞信公記抄』)
御斎会始が行われた。村上天皇は大極殿にお出ましになった。内裏の触穢による。(『日本紀略』)
午三刻、村上天皇は大極殿にお出ましになった。申の刻、宮にお帰りになった。今日、衛府を帯びる公卿は弓箭を帯びた。堂に入っている間は解かなかった。「この夜、参議が参らなかったことにより禄を下給しなかった」ということだ。(『西宮記』)
1月14日 結願
天暦二年(948)1月14日甲子、御斎会が結願した。(『日本紀略』)
1月10日 女叙位/火事
天暦二年(948)1月10日庚申、女叙位があった。右大臣藤原師輔の障りにより、延期されていた。義方朝臣など四人を加階した。(『貞信公記抄』)
大内山で火災が起こり、鎮火しなかった。(『吏部王記』)
1月11日 祈年祭定
天暦二年(948)1月11日辛酉、諸卿が祈年祭のことを定め申した。件の祭はここ数年懈怠が甚だ多い。(『日本紀略』)
中使頭朝臣が藤原忠平のもとに来て言ったことには「祈年祭のことは、如在の礼を致すべきです。しかし、ここ数年は懈怠が甚だ多いです。よって、諸卿に定めさせましたが、申して言ったことには『神態の御倉は勾当の官人を置き、勤行させます。また、馬寮の繋馬のことは慎んで行わせます』と言うことでした。これを如何しましょう。また、明法博士が勘申した成国の罪状の文を賜りました。院の御消息がありました」ということだ。(『貞信公記抄』同年1月14日条)
1月14日 下人の手作布を服することを禁じる
天暦二年(948)1月14日甲子、下人が手作布を着用することを制限すべき状について、諸卿が申した。(『貞信公記抄』)
1月16日 踏歌節会/清涼殿御遊
天暦二年(948)1月16日丙寅、踏歌があった。太政大臣藤原忠平に、その身は参らずといえども諸節会の見参に預かるよう宣旨が下された。(『日本紀略』)
節会は通例の通りであった。右大臣藤原師輔が仰って言ったことには「勅を奉ったことには『その身は参らずといえども、よろしく諸々の節会の見参に預かるように』ということです。外記公忠が奉る」と。(『貞信公記抄』)
この日、王卿を召し、清涼殿において御遊があった。式部卿敦実親王・中務卿重明親王・右衛門督源高明に昇殿を許した。(『日本紀略』)
1月17日 射礼/東光寺焼亡
天暦二年(948)1月17日丁卯、射礼があった。村上天皇は豊楽院にお出ましになった。親王は参らなかった。(『日本紀略』)
辰の刻、藤原師輔は内裏に参った。巳一刻、天皇が豊楽院にお出ましになった。(『九暦抄』)
東光寺が焼亡した。陽成院后宮の御願であった。(『日本紀略』)
1月18日 賭弓
天暦二年(948)1月18日戊辰、豊楽院において射遺があった。また、賭弓があった。左大将藤原実頼・右大将藤原師輔は参らなかった。(『日本紀略』)
勝饗を西宮家に儲けた。(『九暦抄』)
1月19日 殿上人定/彗星
天暦二年(948)1月19日己巳、朱雀院において殿上人を定めた。(『日本紀略』)
中使頭朝臣が藤原忠平のもとに来て言ったことには「除目のことは何日に行いましょう」と。坤の方角に長さ七尺ばかりの物を見た。旧式に言ったことには「戈星である」と。(『貞信公記抄』)
1月21日 紅梅の詩
天暦二年(948)1月21日辛未、朱雀上皇は馬場殿にお出ましになり、紅梅の詩を賦した。(『日本紀略』)
1月22日 織手秀世、錦織の功
天暦二年(948)1月22日壬申、藤原忠平は一分一人を織手秀世に下給する状をかの男に仰せた。先々、錦を多く織ることによるものである。(『貞信公記抄』)
1月23日 怪異/政始
天暦二年(948)1月23日癸酉、伊賀国から「国分寺の毘沙門像・金剛力士像が振鳴した」という解文があった。(『貞信公記抄』同年2月16日条)
政始であった。(『日本紀略』)
1月24日 雷鳴
天暦二年(948)1月24日甲戌、雷電が激しく震えた。(『日本紀略』)
1月25日 除目召仰
天暦二年(948)1月25日乙亥、除目召仰があった。(『日本紀略』)
1月26日 除目
天暦二年(948)1月26日丙子、除目の議が始められた。受領の功過を定めた。(『日本紀略』)
右大臣藤原師輔が参り行った。すぐに諸卿を御前に召した。中使助信が御書ならびに受領功過の勘文を賜った。(『貞信公記抄』)
1月27日 除目/藤原安子、年給を賜る
天暦二年(948)1月27日丁丑、除目があった。梨壺女御(藤原安子)に年給宣旨を下した。(『日本紀略』)
1月28日 除目
天暦二年(948)1月28日戊寅、除目があった。(『日本紀略』)
1月30日 除目
天暦二年(948)1月30日庚辰、除目があった。右大臣藤原師輔を御前に召した。諸卿は召さなかった。(『日本紀略』)
2月
2月1日 除目清書
天暦二年(948)2月1日辛巳、議所において除目の清書が行われた。また、弁官庁において召名を二省に下した。(『日本紀略』)
2月2日 清涼殿造営/藤原清雅を勧学院別当に補す
天暦二年(948)2月2日壬午、清涼殿を造営した。(『春記』)
式部丞藤原清雅を以て勧学院別当に補した。(『貞信公記抄』)
2月3日 内印請印/春日祭使出立
天暦二年(948)2月3日癸未、内印請印があった。明日の伊勢使ならびに鹿島使の符である。(『日本紀略』)
春日祭使が相立った。(『九暦抄』)
2月4日 祈年祭・春日祭
天暦二年(948)2月4日甲申、祈年祭・春日祭が行われた。(『日本紀略』)
2月5日 還饗/怪異/朱雀院判官代定
天暦二年(948)2月5日乙酉、祭の還饗があった。(『九暦抄』)
明け方、語って言ったことには「常陸国国府に鹿七頭が入ってきました。また、国分寺の鐘がみな湿っていました。平将門のときも鹿一頭が入り、鐘の角が湿っていました。しかしこの度、多数」ということだ。「甲斐守維幹の子の説です」ということだ。(『貞信公記抄』)
朱雀院において判官代を定めた。(『日本紀略』)
2月7日 釋奠
天暦二年(948)2月7日丁亥、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月9日 園・韓神祭
天暦二年(948)2月9日己丑、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
2月10日 直物
天暦二年(948)2月10日庚寅、直物があった。(『日本紀略』)
2月11日 列見/小除目/太皇太后御悩
天暦二年(948)2月11日辛卯、列見があった。(『日本紀略』)
小除目があった。(『貞信公記抄』)
太皇太后藤原穏子がご病気になった。(『西宮記』)
2月17日 朱雀上皇、二条院行幸/源高明を検非違使別当に補す/仁王会の請僧定
天暦二年(948)2月17日丁酉、朱雀上皇は二条院にお出かけになった。(『日本紀略』)
中納言従三位源高明を検非違使別当に補した。(『公卿補任』)
仁王会の日時を定めた。(『日本紀略』)
右大臣藤原師輔が仁王会の請僧を定めた。(『貞信公記抄』)
2月19日 蔵人頭を補す/殿上人定
天暦二年(948)2月19日己亥、源雅信・藤原有相を蔵人頭に補した。藤原伊尹を蔵人に補した。(『職事補任』)
左大臣藤原実頼が初めて参入し、殿上人を定め奉った。(『貞信公記抄』)
2月20日 座主鎮朝、屯食を送る
天暦二年(948)2月20日、寺の座主鎮朝、屯食二具を調え、これを送った。すぐに東西及び常行三昧師たちに分かち送った。(『九暦抄』)
2月24日 掌侍輔子、停任宣旨
天暦二年(948)2月24日甲丑、右大臣藤原師輔が賀静阿闍梨のことを奏させた。掌侍輔子が辞書を奉った。停任宣旨を下した。(『貞信公記抄』)
2月25日 朱雀上皇、籠物などを献じる
天暦二年(948)2月25日乙巳、朱雀上皇は籠物・折櫃・破子などを内裏に奉られた。(『日本紀略』)
2月26日 臨時仁王会/藤原忠平、辞表を上る
天暦二年(948)2月26日丙午、仁王会が修された。(『日本紀略』)
藤原忠平は職を辞す表を上った。使者は、藤原伊尹が務めた。(『貞信公記抄』)
2月27日 藤原滋茂を防鴨川使に任じる/藤原忠平が勅答を賜る
天暦二年(948)2月27日丁未、右衛門佐藤原滋茂を防鴨川使に任じた。(『日本紀略』)
中使右近中将義方が藤原忠平のもとに来た。忠平は勅答を賜った。権中納言に拝舞させた。禄を贈った。(『貞信公記抄』)
3月
3月1日 怪異
天暦二年(948)3月1日庚戌、巳の刻に宜陽殿公卿座の母屋の柱の下が鳴動した。御卜があった。(『日本紀略』)
3月3日 御燈
天暦二年(948)3月3日壬子、御燈があった。廃務であった。(『日本紀略』)
3月4日 季御読経始
天暦二年(948)3月4日癸丑、季御読経始が行われた。(『日本紀略』)
3月5日 諸神位記請印
天暦二年(948)3月5日甲寅、諸神位記請印が行われた。(『日本紀略』)
3月6日 朱雀院行幸定
天暦二年(948)3月6日乙卯、藤大納言(藤原顕忠)が元輔朝臣を差し遣わし、告げて言ったことには「朱雀院が仰って言ったことには『行幸の日、音楽があるように。極楽寺の舞装束を借りて進めるように』ということでした」と。(『貞信公記抄』)
3月8日 式部・兵部省、復任宣旨/朱雀院行幸召仰
天暦二年(948)3月8日丁巳、式部・兵部二省を召して復任宣旨を給わった。(『日本紀略』)
また、明日の行幸のことについて召仰があった。(『日本紀略』)
3月9日 朱雀院行幸
天暦二年(948)3月9日戊午、村上天皇は朱雀院へお出かけになった。太后藤原穏子・朱雀上皇に謁見した。御遊と音楽の演奏があった。公卿以下は禄を賜った。(『日本紀略』)
朱雀院は音楽を調え奏させた。また、禄を下給した。親王以下、近衛少将以上。(『貞信公記抄』)
申の刻、蔵人頭右中将源雅信が右大臣藤原師輔を召した。(『吏部王記』)
帰徳の間、楽所はすこぶる遠かった。絃音ははっきりしなかった。重明親王が右大臣藤原師輔に詔して言ったことには「絃を奏する者は近くで伺候するのがよろしいでしょうか」と。右大臣はこれを奏した。朱雀上皇は図書寮の御琴を召させた。式部卿敦実親王は和琴、重明親王は琴、左衛門督源高明は琵琶、治部源兼明は箏。また、唱歌の者を数人召し、南欄に伺候した。(『吏部王記』)
暗くなってくると、主殿寮が庭燎を供した。(『吏部王記』)
3月10日 藤原乙牟漏国忌
天暦二年(948)3月10日己未、藤原乙牟漏の国忌であった。(『日本紀略』)
3月12日 賭弓御覧
天暦二年(948)3月12日辛酉、朱雀院の侍臣が賭射に供奉した。(『日本紀略』)
午の刻、藤原師輔は朱雀院に参った。対の東庭において賭弓のことがあった。前方の念人は中務卿重明親王、後方の念人は師輔が務めた。射手奏を奏した。後方が勝ち、納蘇利を奏した。方人、拝し奉った。伊予介善文の申文を右少弁が持ってきた。すぐに奏すべき由を示し、返し託した。(『九暦抄』)
3月15日 触穢
天暦二年(948)3月15日甲子、内裏で死穢の疑いがあった。(『日本紀略』)
3月16日 諸祭の延期/清涼殿遷御の日時を勘申
天暦二年(948)3月16日乙丑、諸社の祭が延期となった。(『日本紀略』)
来月11日、清涼殿に遷御することを選び申した。(『貞信公記抄』)
3月20日 清涼殿遷御定
天暦二年(948)3月20日己巳、中使俊朝臣が来て言ったことには「清涼殿に遷御する日は、陰陽寮が来月九日を定め申しました。しかし大江維時が申して言ったことには『御物忌といえども、なお十一日が吉です』と。また、本宮の御書所預・書手など、頼りに一本御書所に補すのは如何でしょう。また、楽所を旧のように置くのは如何でしょう。五月節を三合の年に行うのは如何でしょう。按察使中納言の息の童が昇殿を申す名簿を給わりました」ということだ。(『貞信公記抄』)
3月21日 仁明天皇国忌
天暦二年(948)3月21日庚午、仁明天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
3月22日 藤原師尹上表の返給
天暦二年(948)3月22日辛未、藤原伊尹が来て言ったことには「二十日、権中納言(藤原師尹)が伊尹を遣わし職を辞す表を上りました。しかし今日、返給されました」と。(『貞信公記抄』)
3月24日 季御読経
天暦二年(948)3月24日癸酉、季御読経始が行われた。(『日本紀略』)
3月27日 結願
天暦二年(948)3月27日丙子、御読経が結願した。請僧に布施として布を下給した。承和・天慶の例による。(『日本紀略』)
3月25日 雷鳴
天暦二年(948)3月25日甲戌、未の刻に雷鳴があった。(『日本紀略』)
3月26日 怪異
天暦二年(948)3月26日乙亥、宜陽殿の西の砌の上に牛が立っていた。御卜があった。(『日本紀略』)
3月27日 群盗
天暦二年(948)3月27日丙子の夜、強盗が右近衛府曹司に盗み入った。人物を掠め取った。(『日本紀略』)
3月28日 群盗の報告
天暦二年(948)3月28日丁丑、中使公輔が来て言ったことには「昨夜、丑の刻頃に群盗が右近衛府少将有年の曹司に入ってきました。妻子の衣装を剥ぎ取りました」と。これは、未だ聞いたことがないことである。(『貞信公記抄』)
3月29日 群盗の報告/夜警
天暦二年(948)3月29日戊寅、「所々の別当を定められた。左大臣藤原実頼がこれを奉った」ということだ。仲舒朝臣が言ったことには「昨夜、群盗が造酒司に入り御器を盗み取りました」ということだ。(『貞信公記抄』)
また、左大臣藤原実頼が外記に仰って言ったことには「強盗が京中に横行し、人物を奪い取っている。宜しく四府馬寮に夜行を勤めさせるように」と。(『日本紀略』)
3月30日 音楽御覧
天暦二年(948)3月30日己卯、中使公輔が勅語を伝えることがあった。その旨は別記にある。「五月節、群盗、擬文章生判、調物は期に合っています。雅楽寮の楽人を御前に召し、種々の音楽を奏させました」ということだ。(『貞信公記抄』)
4月
4月1日 旬
天暦二年(948)4月1日庚辰、村上天皇は御物忌により紫宸殿にお出ましにならなかった。平座・見参を召した。禄はなかった。(『日本紀略』)
4月3日 官奏/陣直
天暦二年(948)4月3日壬午、官奏があった。強盗により、陣直を勤めることを諸衛に召し仰せた。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭の延期/斎院御禊前駈定
天暦二年(948)4月4日癸未、広瀬・龍田祭は穢により延期となった。(『日本紀略』)
斎院御禊の前駈を定めた。(『日本紀略』)
4月5日 位記請印/音楽御覧
天暦二年(948)4月5日甲申、位記請印があった。この日、朱雀上皇は音楽をご覧になった。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
天暦二年(948)4月7日丙戌、今日の奏は、左右大臣(藤原実頼・藤原師輔)の物忌により、村上天皇はお出ましにならなかった。(『貞信公記抄』)
4月8日 灌仏/神鏡の勘文
天暦二年(948)4月8日丁亥、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
中使公輔が内侍所にある神鏡を十二日に移し奉る勘文を藤原忠平のもとに持ってきた。(『貞信公記抄』)
4月9日 清涼殿遷御
天暦二年(948)4月9日戊子、村上天皇は新造清涼殿にお移りになった。(『日本紀略』)
4月10日 酔狂の者/怪異
天暦二年(948)4月10日己丑、辰の刻に地中から声が聞こえた。(『日本紀略』)
「夜、殿上に酒狂の者がいた」ということだ。(『貞信公記抄』)
4月11日 皇女承子 誕生
天暦二年(948)4月11日庚寅、明け方に梨壺女御(藤原安子)が皇女承子をお産みになった。(『日本紀略』)
4月17日 平野祭
天暦二年(948)4月17日丙申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
4月18日 賀茂祭
天暦二年(948)4月18日丁酉、賀茂祭が行われた。村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
賀茂祭の奉幣は通例のとおりであった。「使典侍潅子が宅門を出る間、飄風が大いに起こり、前駈の中、落馬・脱冠の者がいました」ということだ。(『貞信公記抄』)
4月21日 試経宣旨定
天暦二年(948)4月21日庚子、外記是連が来て言ったことには「五月節に隔心のことを仰られました」と。また、業恒が来た。試経符宣旨を下すべきことを申した。仰って言ったことには「先例を勘じ、陣頭に伺候するように」と。(『九暦抄』)
4月23日 法性寺御幸
天暦二年(948)4月23日壬寅、法性寺は藤原忠平が建立した道場である。そして、朱雀上皇の天下の間、去る承平年間に御願堂二宇を立て、御願寺とした。(『九暦抄』)
5月
5月3日 祈雨
天暦二年(948)5月3日辛亥、村上天皇は大極殿にお出ましになった。諸社へ奉幣し、雨を祈った。(『日本紀略』)
5月5日 左近衛府荒手結/祈雨雑事定
天暦二年(948)5月5日癸丑、左近衛府の荒手結があった。(『日本紀略』)
祈雨雑事を定めた。(『日本紀略』)
午の刻、左大臣藤原実頼が参入した。御前に召した。還り着した。諸卿に示して言ったことには「日頃、炎旱が日を重ねている。疾疫も聞く。これによって、仁王会のことを行う。その他、また、何事を行うべきか。よろしく定め申せ」と。朝綱朝臣に申の刻御前に召させて、諸社の度者の分配を定めさせた。藤原師輔が執筆し、これを書いた。(『九暦抄』)
5月8日 龍穴御読経・諸山陵使定
天暦二年(948)5月8日丙辰、龍穴御読経と諸山陵使を定めた。(『日本紀略』)
5月9日 祈雨
天暦二年(948)5月9日丁巳、丹生・貴船の両社へ殿上人を遣わし、甘雨を祈った。競走馬を奉った。(『日本紀略』)
5月11日 祈雨
天暦二年(948)5月11日己未、軽犯者二十六人を赦免した。炎旱による。また、五陵に使者を遣わし、雨を祈った。律師空晴が僧十口を率いて、龍穴において三日間の読経を修した。(『日本紀略』)
祈雨宣命使を五陵に遣わし奉った。(『貞信公記抄』)
5月13日 臨時仁王会/祈雨/群盗
天暦二年(948)5月13日辛酉、「西川の辺りの人家に群盗が白昼に入ってきました。多くの雑物を取りました」ということだ。仁王会、法師たちは得るところがなかった。僧綱の奏上によるか。朱雀院は法師たちを八幡・賀茂などに遣わし奉り、甘雨・年穀を祈らせた。今日から始めて五日間に渡る。(『貞信公記抄』)
5月14日 臨時御読経・請雨経法定
天暦二年(948)5月14日、「右大臣藤原師輔は臨時御読経の僧名を定めた。また、請雨経法を修することを仰った。寛空律師を阿闍梨とした」ということだ。(『貞信公記抄』)
5月15日 一分宣旨/群盗
天暦二年(948)5月15日、「左大臣藤原実頼が一分宣旨を定め奉った」ということだ。今夜、待賢門大路の南方、高倉小道の東方の人家に群盗が入ってきた。主人の男は盗人に斬り殺された。(『貞信公記抄』)
5月16日 臨時御読経/祈雨/怪異
天暦二年(948)5月16日甲子、大極殿において臨時御読経を行った。神泉苑において請雨経法を修した。すると雨が降り、請雨経法を止めた。真言院において孔雀経法を修させた。「亥の刻、鹿四頭が延休堂の壇上を走り回った」ということだ。(『貞信公記抄』)
5月18日 結願
天暦二年(948)5月18日丙寅、御読経が結願した。度者を賜った。布施は賜らなかった。(『日本紀略』)
5月17日 公卿の座を移す
天暦二年(948)5月17日乙丑、去る天慶元年、朱雀天皇が綾綺殿にお移りになったとき、上達部の座は宜陽殿の西廂に敷いた。そして村上天皇は去る月の九日清涼殿へお移りになった。今日、元のように左近衛陣の座に還り着した。「ただしこの月は大将が参られないことにより、陣定は座を移す」ということだ。(『九暦抄』)
5月20日 左近衛陣の饗宴
天暦二年(948)5月20日戊辰、左近衛陣が饗宴を儲けた。「去る十七日、上達部が初めて陣座に還り着し、儲けた」ということだ。(『九暦抄』)
5月20日 藤原師尹、着座の儀
天暦二年(948)5月20日戊辰、巳の刻に権中納言藤原師尹が着座の儀を行った。(『西宮記』)
5月24日 朱雀院西対破壊
天暦二年(948)5月24日壬申の夜、朱雀院西対の南又廂一間が故なく破壊していた。藤原穏子の御在所である。(『日本紀略』)
5月25日 延空法師を維摩講師にする
天暦二年(948)5月25日癸丑、藤原忠平は山科の延空法師を当年の維摩講師に請ずることを左大臣藤原実頼に告げた。(『貞信公記抄』)
5月27日 行明親王 薨去/京官除目
天暦二年(948)5月27日乙亥、上総太守行明親王が薨じられた。(『日本紀略』)
京官除目の議が始められた。左大臣藤原実頼が御前において行った。(『貞信公記抄』)
5月28日 京官除目
天暦二年(948)5月28日丙子、除目の議は昨日のとおりであった。(『貞信公記抄』)
5月29日 京官除目
天暦二年(948)5月29日丁丑、除目。藤原忠平は左大弁を召し、除目を書かせた。(『貞信公記抄』)
納言の数が少なかったとき、両度筥文を取った。(『九暦抄』)
6月
6月1日 群盗
天暦二年(948)6月1日戊寅、群盗が勧学院に侵入した。(『貞信公記抄』)
6月2日 祈雨
天暦二年(948)6月2日己卯、藤原忠平は公輔を遣わし、雨を祈られることの状を奏した。(『貞信公記抄』)
七社において、今日から三日間に渡り祈雨の仁王経を転読させた。(『日本紀略』)
6月3日 道守屋/祈雨定
天暦二年(948)6月3日庚辰、「十一社ならびに龍穴神に僧綱以下を遣わし、また、七大寺の僧を東大寺大仏殿に集め、雨を祈ることを按察使中納言に仰った」ということだ。「道守屋を造ることを左右京職・検非違使に仰せ下す状を史業恒が申した。右大臣藤原師輔が奉り行った」ということだ。(『貞信公記抄』)
6月4日 外記政/隠納米
天暦二年(948)6月4日辛巳、弁の不足により申文はなかった。また、大弁の不参により、南申文はなかった。(『西宮記』)
右大臣藤原師輔が言ったことには「仰せを奉って言ったことには『賑給・施米のことを行おうと思ったが、今、諸司は米がない。聞くところによると、備中・伊予などの国の米を多く隠し納めている。伊予、山崎宅、備中、西寺。これらは公輔が申したものである。必ず検非違使を遣わして検封し、申上させるように』ということだったので、給わらせました」と。(『貞信公記抄』)
6月5日 祈雨/讃岐封戸を法性寺に施入
天暦二年(948)6月5日壬午、諸社・龍穴・東大寺において今日から三日間に渡り仁王経の転読を行い、甘雨を祈った。(『日本紀略』)
讃岐の封三十戸を法性寺に施入した。(『日本紀略』)
6月6日 雷鳴陣
天暦二年(948)6月6日癸未、雷鳴・白雨があった。雷鳴陣を立てた。按察が召しにより参入し、解陣した。「諸所に雷が落ちた」ということだ。「朱雀院の池の中で弓矢を発見した」ということだ。「これは迂誕のことである。確かな話ではない」ということだ。(『貞信公記抄』)
6月7日 雷雨/大膳職醤院舎顛倒
天暦二年(948)6月7日甲申、雷雨であった。大膳職醤院が風に吹き倒されて属野中安世が圧死した。この日は、太陽が二つ見えた。また、朱雀院の南の池の中で竜頭のようなものを発見した。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
6月9日 藤原師輔邸 火事
天暦二年(948)6月9日丙戌の夜、右大臣藤原師輔の桃園邸で火事があった。(『日本紀略』)
6月10日 御体御卜奏
天暦二年(948)6月10日丁亥、御体御卜奏が行われた。内侍が伺候していなかったので、蔵人に託してこれを奏した。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭
天暦二年(948)6月11日戊子、伊勢に例幣を奉った。夜、村上天皇が神嘉殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
6月12日 祈雨
天暦二年(948)6月12日己丑、十六社へ奉幣が行われた。(『日本紀略』)
諸社へ奉幣し、甘雨を祈った。奉幣使が出立した後、雷鳴があり、雨が降った。幾もなく止んだ。外記正統が来て言ったことには「寛空律師を以て、明日から神泉苑において請雨経法を修させる。また、明日の文章生試の宣旨を下す。学生藤原致忠・源清時・高階成忠である」と。(『貞信公記抄』)
6月14日 請雨経法/擬文章生試
天暦二年(948)6月14日辛卯、擬文章生試があった。勅を賜り題に言ったことには「昊天、豊沢を降す」と。(『日本紀略』)
題中に韻を取った。七言十韻。(『貞信公記抄』)
式部大輔維時が勅題を賜った。(『九暦抄』)
6月15日 捜索定
天暦二年(948)6月15日壬辰、明日の捜索のことを定めた。(『日本紀略』)
6月16日 奸犯者を捜索
天暦二年(948)6月16日癸巳、諸衛官人が京中で奸犯者を捜索した。(『日本紀略』)
6月20日 文章生試の省試判
天暦二年(948)6月20日丁酉、文章生試の省試判があった。及第者は十五人であった。(『日本紀略』)
6月22日 直物
天暦二年(948)6月22日己亥、直物があった。(『貞信公記抄』)
6月25日 内御修法
天暦二年(948)6月25日壬寅、内裏御修法始が行われた。鎮朝師を阿闍梨とした。(『貞信公記抄』)
6月29日 源延光を侍従に補す
天暦二年(948)6月29日丙午、参議四位上源延光を侍従に補した。(『公卿補任』)
6月30日 朱雀院御読経
天暦二年(948)6月30日丁未、朱雀院御読経始が行われた。(『貞信公記抄』)
今日から三日間に渡り請僧十口が臨時御読経を修した。(『日本紀略』)
7月3日 結願
天暦二年(948)7月3日庚戌、御読経が結願した。(『日本紀略』)
7月
7月1日 計帳
天暦二年(948)7月1日戊申、中使藤原有相が藤原忠平のもとに来た。当年の研学堅義貞□(欠字)の挙文を有相に下給した。また、清雅に計帳を行わせる状を内弁に仰せた。(『貞信公記抄』)
7月2日 御修法の度者について
天暦二年(948)7月2日己酉、中使藤原有相が藤原忠平のもとに来て言ったことには「極熱の間、御修法を奉仕する法師たちに度者を施すのは如何でしょう」と。左右、仰せに従う状を奏させた。(『貞信公記抄』)
7月3日 藤原忠平が朱雀上皇に鷹を献上
天暦二年(948)7月3日庚戌、藤原忠平は河面牧の内山の下で巣鷹一連を取った。出羽守、送るところの若鷹一を加えて、藤原伊尹を差し遣わして朱雀院に入れ奉った。(『貞信公記抄』)
7月4日 広瀬・龍田祭
天暦二年(948)7月4日辛亥、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
7月5日 摂津住吉海祭使発遣
天暦二年(948)7月5日壬子、住吉海神祭使を立てた。重軽服及び肉食者の参内を禁じた。諸陣へ召仰があった。(『日本紀略』)
7月7日 雷鳴陣/擬文章生省試定
天暦二年(948)7月7日甲寅、暴雨・雷鳴があった。(『日本紀略』)
明け方、雷が大いに鳴った。また、雨が降った。陣を立てた。右大臣藤原師輔が参入した。勅計があった。(『貞信公記抄』)
右大臣藤原師輔が紀傅を諸儒を召し、擬文章生試の省試の詩を定められた。(『日本紀略』)
7月8日 及第者
天暦二年(948)7月8日乙卯、諸教を諸儒に召し、省試の詩の評定が行われた。及第者は七人のうち二人であった。(『日本紀略』)
7月10日 馬料目録/季御読経定
天暦二年(948)7月10日丁巳、中務・兵部の両省が馬料目録を奏した。(『日本紀略』)
左大臣藤原実頼が季御読経の請僧を定めた。(『貞信公記抄』)
7月14日 矢田部陣義の方略を問わせる
天暦二年(948)7月14日、藤原忠平は矢田部陣義の策の問題について、橘直幹を以て宣旨を下す状を左大臣藤原実頼に示した。(『貞信公記抄』)
7月15日 暴風雨
天暦二年(948)7月15日壬戌、大風・大雨があった。(『日本紀略』)
7月18日 海賊討伐の功
天暦二年(948)7月18日乙丑、伊予国が申し、越智用忠は海賊のときの功により、叙位するようにとの解文について、藤原忠平は公輔にこれを奏上させた。用忠の貢書を加えた。すぐに帰ってきて、叙された状を伝え仰せた。(『貞信公記抄』)
7月19日 秋季御読経
天暦二年(948)7月19日丙寅、季御読経始が行われた。(『日本紀略』)
秋季御読経が発願した。午二刻、殿上の上達部、左大臣藤原実頼以下が御前に伺候した。地下の卿相が紫宸殿に伺候した。女御は上曹司に伺候した。(『九暦抄』)
7月20日 官奏/二条院御幸
天暦二年(948)7月20日丁卯、官奏があった。(『日本紀略』)
今日、朱雀上皇が二条院へお出かけになった。(『日本紀略』)
7月21日 成選の位記を授ける
天暦二年(948)7月21日戊辰、成選位記の召給があった。(『日本紀略』)
右大臣藤原師輔を上とした。(『九暦抄』)
7月25日 官奏
天暦二年(948)7月25日壬申、官奏があった。(『日本紀略』)
7月26日 童相撲定
天暦二年(948)7月26日癸酉、殿上において童相撲のことを定めた。(『日本紀略』)
7月27日 暴風雨
天暦二年(948)7月27日甲戌の夜、暴風雨があった。京中の舎屋の多くが顛倒した。圧死者が多数出た。(『日本紀略』)
7月28日 風損の官舎を実検
天暦二年(948)7月28日乙亥、諸衛の官人を諸司に分けて遣わし、風損の官舎を実検させた。(『貞信公記抄』)
8月
8月1日 官奏/釋奠の延期
天暦二年(948)8月1日丁丑、官奏があった。穢により釋奠は延期となった。(『日本紀略』)
8月5日 准蔭位記請印/楽所始
天暦二年(948)8月5日辛巳、准蔭位記請印があった。この日、大内において楽所始があった。(『日本紀略』)
8月7日 郡司読奏
天暦二年(948)8月7日癸未、郡司読奏のことを右大臣藤原師輔が行った。中使藤原有相が藤原忠平のもとに来て言ったことには「初斎宮が申します、野宮に入る料の絹四百三十余疋のうち、二百疋の代わりを銭を以て下給しました」と。(『貞信公記抄』)
8月8日 官奏
天暦二年(948)8月8日甲申、官奏があった。また、復任・位記請印があった。触穢により、内印は外記の印鑑を用いた。(『日本紀略』)
8月11日 定考/釋奠
天暦二年(948)8月11日丁亥、定考ならびに釋奠があった。(『日本紀略』)
釋奠の上は右大臣藤原師輔、定考の上は民部卿藤原元方であった。(『貞信公記抄』)
8月12日 内論議なし
天暦二年(948)8月12日戊子、内論議はなかった。ただし、博士には例年のとおり禄を下給した。(『日本紀略』)
8月12日 除目
天暦二年(948)8月12日戊子、除目のことがあった。(『貞信公記抄』)
8月13日 河水氾濫
天暦二年(948)8月13日己丑、終日雨脚は止まなかった。川の水が氾濫した。(『日本紀略』)
8月14日 二条院御読経
天暦二年(948)8月14日庚寅、今日から三日間に渡り二条院において御読経が修された。(『日本紀略』)
8月15日 止雨奉幣使発遣
天暦二年(948)8月15日辛卯、十六社に臨時奉幣使が発遣された。雨を止めるためである。(『日本紀略』)
8月17日 朱雀院行幸
天暦二年(948)8月17日癸巳、村上天皇は朱雀院へお出かけになった。(『日本紀略』)
夜、丑・寅の刻の間、家の中で紀国光が頓滅した。(『貞信公記抄』)
8月19日 藤原師輔の子が文選を暗誦
天暦二年(948)8月19日乙未、午の刻、右大臣藤原師輔の子高光が参内した。師輔は例により、近衛御門の末から小童を上東門より入らせた。まず、藤壺に参った。この間、村上天皇はこの社にお出ましになった。藤原伊尹・藤原兼通に殿上に参上させた。いささか酒食を調え、殿上に出した。寂然による。「高光は召しにより御前に伺候した。仰せに従い、文選三都賦序を暗誦した。天皇は感歎した」ということだ。(『九暦抄』)
8月20日 度縁請印
天暦二年(948)8月20日丙申、度縁請印があった。(『日本紀略』)
8月21日 二条院行啓召仰
天暦二年(948)8月21日丁酉、太皇太后藤原穏子の行啓の召仰があった。(『日本紀略』)
8月22日 二条院移御
天暦二年(948)8月22日戊戌、朱雀上皇・藤原穏子は二条院へお移りになった。新宅の礼を用いた。水火黄牛があった。(『日本紀略』)
侍従殿において親王以下侍従以上の宴があった。三十巡の後、禄を下給した。(『九暦抄』)
8月23日 天変
天暦二年(948)8月23日己亥、午の刻に太陽と月が並んで見えた。(『日本紀略』)
8月25日 郡司位記請印
天暦二年(948)8月25日辛丑、郡司位記に請印した。(『日本紀略』)
8月26日 勧学院生の来賀
天暦二年(948)8月26日壬寅、右大臣藤原師輔は藤原忠平のもとへ参った。立ちながら御前に伺候した。勧学院別当弁以下学生以上、合わせて二十余人が来賀した。封戸を入れることによる。「前例では、三日の内に来た」ということだ。しかし昨日以前、相障ることがあった。そこで今日、来たことを相示した。これによって延期となった。いささか小饗を儲けた。前例による。(『九暦抄』)
8月27日 郡司召
天暦二年(948)8月27日癸卯、郡司召があった。(『日本紀略』)
8月28日 朱雀上皇が放鷂
天暦二年(948)8月28日甲辰、朱雀上皇が九条院にお出かけになり、芹川野において小鷂の興があった。(『日本紀略』)
9月
9月2日 怪異
天暦二年(948)9月2日、午の刻に雀が九羽宜陽殿・春興殿の間に集まっていた。(『貞信公記抄』)
9月3日 御燈
天暦二年(948)9月3日戊申、御燈があった。(『日本紀略』)
9月4日 不堪佃田定
天暦二年(948)9月4日己酉、去年の不堪佃田を定めた。(『日本紀略』)
9月7日 不堪佃田定
天暦二年(948)9月7日壬子、不堪佃田を定めた。(『日本紀略』)
9月8日 直物/斎宮禊次第司を任じる
天暦二年(948)9月8日癸丑、直物があった。停任の輩があった。(『日本紀略』)
また、斎宮禊次第司を任じた。(『日本紀略』)
9月11日 伊勢例幣
天暦二年(948)9月11日丙辰、村上天皇は大極殿にお出ましになった。例幣ならびに臨時御幣を副えられた。(『日本紀略』)
9月14日 諸社奉幣
天暦二年(948)9月14日己未、石清水以下五社へ奉幣使を発遣した。天変・怪異・霖雨を祈るためである。(『日本紀略』)
右大臣藤原師輔が門の外に来て言ったことには「今日、臨時幣使を立てることがありました。先日の御祈によるものです」と。(『貞信公記抄』)
9月17日 官奏
天暦二年(948)9月17日壬戌、官奏があった。(『日本紀略』)
9月18日 触穢
天暦二年(948)9月18日癸亥、内裏で犬の産穢があった。(『日本紀略』)
9月19日 直物/天変
天暦二年(948)9月19日甲子、直物・除目があった。(『貞信公記抄』)
加任・復任の輩があった。(『日本紀略』)
雷鳴があり、雨が降った。(『日本紀略』)
9月20日 御卜
天暦二年(948)9月20日乙丑、昨日の仰せにより、右大臣藤原師輔は神祇官・陰陽寮の官人を召し、雨脚が頻りに降る祟りのことを占わせた。申して言ったことには「坤・艮の方角にある神社の四至内に不浄の気があることによるものでしょうか。また、憤怒の気を見ました」ということだ。重ねて占い申させて言ったことには「八幡宮の放生会のことを行わなかったことにより、この祟りがありました」と。(『九暦抄』)
9月22日 仏舎利を奉る/石清水八幡宮奉幣
天暦二年(948)9月22日丁卯、仏舎利を五十五社に奉られた。各一人を差し遣わした。ただし、宇佐ならびに石清水は通例のとおり法服一具を副えて奉った。(『日本紀略』)
石清水八幡宮の臨時奉幣使を発遣した。放生会の停止ならびに雷鳴・霖雨を祈り謝した。(『日本紀略』)
9月25日 大祓
天暦二年(948)9月25日庚午、建礼門の前において大祓が修された。(『日本紀略』)
9月26日 斎宮、野宮に入る
天暦二年(948)9月26日辛未、斎宮悦子女王が鴨川で御禊を行い、野宮に入った。(『日本紀略』)
9月28日 御修法
天暦二年(948)9月28日癸酉、内裏において今日から七日間に渡り御修法始が行われた。鹿が八省院に侵入した怪異による。(『日本紀略』)
9月29日 醍醐天皇国忌
天暦二年(948)9月29日甲戌、醍醐天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
10月
10月1日 旬/官奏/次侍従を補す
天暦二年(948)10月1日丙子、官奏があった。平座・見参があった。また、次侍従を補した。(『日本紀略』)
村上天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。中使藤原有相が藤原忠平のもとに来て言ったことには「今日、次侍従を補します。しかし、左右大臣(藤原実頼・藤原師輔)は障りを申して参りませんでした。この人々を補すのは如何でしょう。前例を勘申する中、首に御点十人いました」と。(『貞信公記抄』)
10月4日 次侍従宣旨
天暦二年(948)10月4日己卯、中務において次侍従に宣旨を下した。(『日本紀略』)
10月7日 弓場始/二条院行幸定
天暦二年(948)10月7日壬午、弓場始があった。(『日本紀略』)
中使藤原有相が藤原忠平のもとに来て言ったことには「二条院に行幸することは如何でしょう。御修法は今日結願しました。阿闍梨実性を僧綱に任じるのは如何でしょう。この師は先年から奉仕の労がある人にして山に籠もっていたのを召し出しました」ということだ。(『貞信公記抄』)
10月9日 二条院行幸
天暦二年(948)10月9日甲申、太皇太后藤原穏子の御悩により、村上天皇が二条院にお出かけになった。(『日本紀略』)
早朝、后宮の御使が藤原忠平のもとに来て言ったことには「夜半頃から危急に煩われました」と。中使清正が来た。忠平は御書を賜った。行幸がある旨である。(『貞信公記抄』)
10月12日 石清水八幡宮放生会について
天暦二年(948)10月12日丁亥、石清水放生会の日時を勘申した。(『日本紀略』)
左大臣藤原実頼が召しにより参入した。八幡放生会を十五日に行わせることを承り行った。「宣命、按察・左大弁が参入した」ということだ。(『九暦抄』)
10月13日 官奏
天暦二年(948)10月13日戊子、官奏があった。(『日本紀略』)
10月14日 八幡宣命使を立てる
天暦二年(948)10月14日己丑、左大臣藤原実頼が参入した。八幡宣命使を立てた。明日放生会を行うからである。先に定めた大夫が多く障りを申した。そこで、急遽左中弁朝綱を差し遣わした。(『九暦抄』)
10月15日 石清水放生会
天暦二年(948)10月15日庚寅、石清水放生会が行われた。(『日本紀略』)
10月19日 僧綱召の延期/極楽寺菊会
天暦二年(948)10月19日甲午、僧綱召を行う予定であったが、参議の不参により延期となった。(『日本紀略』)
極楽寺において菊会があった。音楽があった。(『九暦抄』)
10月20日 僧綱召
天暦二年(948)10月20日乙未、僧綱召が行われた。(『日本紀略』)
10月21日 復任除目
天暦二年(948)10月21日丙申、復任除目があった。(『日本紀略』)
10月23日 御馬御覧
天暦二年(948)10月23日戊戌、村上天皇は仁寿殿において左右馬寮の御馬をご覧になった。(『九暦抄』)
10月27日 官奏
天暦二年(948)10月27日壬寅、官奏があった。(『日本紀略』)
10月28日 火事
天暦二年(948)10月28日癸卯、戌の刻、馬寮の西辺が焼亡した。(『日本紀略』)
10月29日 方略試/源公忠 卒去
天暦二年(948)10月29日甲辰、文章得業生矢田部陳義の対策に文章博士直幹を門頭として題に言ったことには「弁廉清詳群」。(『日本紀略』)
この日、源公忠が卒去した。(『日本紀略』)
10月30日 雪
天暦二年(948)10月30日乙巳の夜、初雪が降った。(『日本紀略』)
11月
11月1日 御暦奏
天暦二年(948)11月1日丙午、陰陽寮が新暦を内裏に進上した。(『日本紀略』)
11月3日 平野祭・春日祭/官奏/藤原忠平が雉を賜る
天暦二年(948)11月3日戊申、官奏があった。平野祭・春日祭が行われた。(『日本紀略』)
藤原忠平は朱雀上皇から雉二翼を賜った。「昨日、宇治の西の所で取った」ということだ。御使は藤原兼家。被物は綾の細長一重。(『貞信公記抄』)
11月9日 官奏/二十五ヶ国の損田
天暦二年(948)11月9日甲寅、官奏があった。二十五ヶ国の損田のことを奏した。(『日本紀略』)
11月10日 官奏
天暦二年(948)11月10日乙卯、官奏があった。(『日本紀略』)
11月11日 宇治院御幸
天暦二年(948)11月11日丙辰、朱雀上皇は宇治院へお出かけになった。(『日本紀略』)
11月17日 官奏
天暦二年(948)11月17日壬戌、官奏があった。(『日本紀略』)
11月19日 菊節会
天暦二年(948)11月19日甲子、菊の節会があった。音楽があった。(『日本紀略』)
11月22日 新嘗祭
天暦二年(948)11月22日丁卯、新嘗祭が行われた。村上天皇が神嘉殿にお出ましになった。触穢・治病・物忌などにより假文を奉り参らない者が多かった。中納言藤原師尹・参議保平が召しによって参入した。(『日本紀略』)
11月23日 豊明節会
天暦二年(948)11月23日戊辰、豊明節会が行われた。通例のとおり、太宰府の綿を五位以上に禄として下給した。(『日本紀略』)
「節会は通例のとおりであったが、禄については綿を下給した。絹ではなかった」ということだ。(『貞信公記抄』)
右大臣藤原師輔が参内した。未三刻、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。申二刻、列を引いた。今日は事あるごとに停滞した。子の刻、事が終わった。諸司の小忌の服は、前例により佐渡布を用いた。しかし、服用したのは商布のようであった。未だこのようなことはなかった。また、外弁の上達部の座は甚だ乏しかった。事の煩いがあった。この日の禄には綿があったが、絹はなかった。保平が殿上に顛伏した。(『九暦抄』)
11月24日 宴会
天暦二年(948)11月24日己巳、夜がようやく深くなった。重明親王は右相府の邸に向かった。(『吏部王記』★)
11月25日 御馬御覧
天暦二年(948)11月25日庚午、村上天皇は清涼殿の東庭において左右馬寮の御馬を召してご覧になった。(『日本紀略』)
11月28日 賀茂臨時祭
天暦二年(948)11月28日癸酉、賀茂臨時祭が行われた。(『日本紀略』)
12月
12月1日 官奏/新嘗祭不参の公卿を勅問
天暦二年(948)12月1日乙亥、官奏があった。先月二十二日の新嘗祭に不参の諸卿が勅問を蒙られた。(『日本紀略』)
12月3日 天智天皇国忌
天暦二年(948)12月3日丁丑、天智天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
12月4日 官奏/盗人
天暦二年(948)12月4日戊寅、官奏があった。(『日本紀略』)
清正が言ったことには「今夜、盗人が真忠朝臣の殿上に宿す衣を取って走り出していきました。殿上にあった衣を盗むことが五度ありました」と。(『貞信公記抄』)
12月7日 官奏
天暦二年(948)12月7日辛巳、官奏があった。(『日本紀略』)
12月10日 夜警/触穢
天暦二年(948)12月10日甲申、丑の刻、群盗が橘好古の宿曹司に侵入し、息子為政ならびに妻の衣装を取った。(『貞信公記抄』)
内裏で犬の産穢の疑いがあった。(『日本紀略』)
12月11日 月次祭・神今食の延期
天暦二年(948)12月11日乙酉、月次祭・神今食は犬の産穢により延期となった。よって、大祓が修された。(『日本紀略』)
12月12日 重明親王が藤原忠平を見舞う
天暦二年(948)12月12日丙戌、中務卿重明親王が藤原忠平の病を問うた。拝謁することはできなかった。(『貞信公記抄』)
12月13日 掃部寮・大膳職が過状を進上
天暦二年(948)12月13日丁亥、掃部寮・大膳職を召して過状について仰った。去る月の新嘗祭の日、掃部寮は筵道を供するのが遅く、大膳職は忌火を出すのが遅かったからである。(『日本紀略』)
12月14日 藤原忠平を恩問/荷前定
天暦二年(948)12月14日戊子、中使蔵人季平が藤原忠平のもとに来て、恩問があった。(『貞信公記抄』)
荷前のことを定めた。(『日本紀略』)
12月15日 官奏/小除目/位記請印
天暦二年(948)12月15日己丑、官奏・除目があった。また結政において位記請印があった。(『日本紀略』)
12月16日 藤原師輔が病む
天暦二年(948)12月16日庚寅、右大臣藤原師輔は唐僧に病を診させた。(『九暦抄』)
12月20日 直物/復任除目/御仏名
天暦二年(948)12月20日甲午、直物・復任除目があった。(『日本紀略』)
夜、内裏で御仏名があった。(『日本紀略』)
12月22日 荷前
天暦二年(948)12月22日丙申、荷前使を立てた。雨儀であった。(『日本紀略』)
12月25日 二条院御仏名
天暦二年(948)12月25日己亥、二条院の御仏名があった。(『日本紀略』)
12月27日 内印請印
天暦二年(948)12月27日辛丑、内印請印があった。(『日本紀略』)
12月28日 朝賀の停止
天暦二年(948)12月28日壬寅、諸国が申した異損の数は甚だ多い。そこで、来年の朝拝を停止することになった。(『日本紀略』)
12月29日 内印請印
天暦二年(948)12月29日癸卯、内印請印があった。(『日本紀略』)
12月30日 徽子女王 入内
天暦二年(948)12月30日甲辰、徽子女王が入内した。(『吏部王記』)
+ 天暦三年(949)の年表を見る
天暦三年(949)
1月
1月2日 延暦寺で火事
天暦三年(949)1月2日丙午、比叡山延暦寺の中堂で火事があった。(『九暦』)
1月3日 藤原忠平が致仕の表を上る
天暦三年(949)1月3日丁未、藤原忠平は致仕表を上られた。(『日本紀略』)
右大臣藤原師輔は藤原忠平のもとに伺候した。他所へは行かなかった。夜になって罷り出た。忠平は今年で七十歳になる。そこで中務省に託し、致仕の表を上った。家司、五位・六位・各二人。(『九暦抄』)
「勅答があった。許さない」ということだ。(『吏部王記』)
1月4日 勅答
天暦三年(949)1月4日戊申、右中将義方を以て忠平の家に勅答を遣わした。(『日本紀略』)
1月5日 朝覲行幸/太皇太后大饗
天暦三年(949)1月5日己酉、村上天皇が二条院にお出かけになり、太皇太后藤原穏子に拝謁した。(『日本紀略』)
巳の刻、村上天皇は二条院へお出かけになった。午の刻に到着した。西の対を御宿所とした。太皇太后はいつもこの殿にいらっしゃった。しかし今日は、寝殿にお出ましになった。二、三日は宮の御物忌であった。そこで、今日行幸を行ったのである。また、宮の大饗は恒例によると二日である。しかし、御物忌により停止となっていた。そこで今日、大饗を行った。王卿及び侍従たちへすぐに禄を下給した。侍従たちが疑って言ったことには「もしくは、魚袋を着用するべきでしょうか」と。しかし、王卿は着用していなかった。諸大夫に従って着用しなかった。(『九条殿記))
1月6日 叙位の停止
天暦三年(949)1月6日庚戌、雨により叙位の議はなかった。(『日本紀略』)
1月7日 白馬節会/叙位の停止
天暦三年(949)1月7日辛亥、白馬節会があった。村上天皇は御物忌ではあったものの、紫宸殿へお出ましになった。(『日本紀略』)
叙位はなかった。(『日本紀略』)
1月8日 御斎会
天暦三年(949)1月8日壬子、御斎会始があった。(『日本紀略』)
1月14日 結願
天暦三年(949)1月14日戊午、御斎会が結願した。(『日本紀略』)
王卿が右近衛陣に着した。(延喜のときの例である。酒肴を設けた。)藤原忠平のための御祈として、大威徳法を修した。その間、壇の辺りにおいて御礼拝があった。(『九暦抄』)
1月11日 卯杖/左大臣大饗
天暦三年(949)1月11日乙卯、卯杖を献じた。(『日本紀略』)
左大臣(藤原実頼)の大饗があった。(『日本紀略』『九暦抄』★)
1月12日 右大臣大饗
天暦三年(949)1月12日丙辰、右大臣(藤原師輔)の大饗があった。(『日本紀略』)
巳の刻、甘栗勅使文実が藤原師輔のもとに来た。禄を下給したのは通例のとおりであった。午の刻に上達部が来た。府の中将義方を請客使とした。申の刻に尊者が光臨した。拝礼は昨日のとおりであった。初献は師輔が尊者に勧めた。中務卿重明親王は大納言藤原顕忠に勧めた。藤原忠平の御悩により、数盃に及ばなかった。早くに事が終わった。尊者の被物・引出物は昨日のとおりであった。垣下の親王も昨日と同じであった。すぐに忠平のもとへ参った。陪従、五位・六位は昨日と同じであった。(『九暦抄』)
1月15日 兵部省手結
天暦三年(949)1月15日己未、兵部省手結があった。(『日本紀略』)
1月16日 踏歌節会
天暦三年(949)1月16日庚申、踏歌節会があった。村上天皇は御物忌により紫宸殿にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
1月17日 射礼
天暦三年(949)1月17日辛酉、建礼門の南庭において射礼が行われた。(『九暦抄』)
1月18日 賭弓
天暦三年(949)1月18日壬戌、賭弓が行われた。(『日本紀略』)
1月19日 除目
天暦三年(949)1月19日癸亥、除目の議が始められた。「左大臣(藤原実頼)が障りを申しました」ということだ。仰せにより、藤原師輔は参入した。(『西宮記』)
1月20日 除目
天暦三年(949)1月20日甲子、藤原師輔は障りを申した。「大納言藤原顕忠が執筆した」ということだ。(『西宮記』)
1月21日 藤原忠平の病による諷誦/除目
天暦三年(949)1月21日乙丑、太政大臣藤原忠平に度者五十人を下給した。忠平の病を除くためである。また、忠平を病から救うために十五大寺において諷誦が修された。(『日本紀略』『九暦抄』★)
除目の議が行われた。(『日本紀略』)
1月22日 除目
天暦三年(949)1月22日丙寅、除目の議が行われた。(『日本紀略』)
1月23日 除目
天暦三年(949)1月23日丁卯、除目の議が行われた。(『日本紀略』)
召しにより、右大臣藤原師輔は参内した。左大臣藤原実頼は障りを申して参らなかった。師輔が執筆した。二十日から昨日まで、大納言藤原顕忠が執筆した。今日、大間を見ると物の誤りがすでに多い。そこで改正する間、夜になった。夜通し受領を議定した。(『九暦抄』)
源清蔭は去年十一月から勅勘を受けていたが、今日赦された」ということだ。(『西宮記』)
1月24日 除目
天暦三年(949)1月24日戊辰、巳の刻に除目の議が終わった。藤原師輔は清書のことを源清蔭に託して帰り参った。(『西宮記』)
1月25日 政始
天暦三年(949)1月25日己巳、政始であった。(『日本紀略』)
1月26日 祈祷/十六ヶ寺諷誦
天暦三年(949)1月26日庚午、神祇官大中臣頼基が神祇官に参籠し、天変・地震・兵革・疫病・年穀の事を祈り申した。(『日本紀略』)
藤原忠平のために十六ヶ所の寺において諷誦が行われた。(『九暦抄』)
2月
2月1日 一分召
天暦三年(949)2月1日乙亥、三局の史生宣旨を下した。(『日本紀略』)
2月2日 触穢/朱雀上皇の御禊
天暦三年(949)2月2日丙子、内裏で犬の産穢があった。(『日本紀略』)
朱雀上皇は西川にお出かけになり、臨時の御禊を修した。(『日本紀略』)
2月3日 釋奠
天暦三年(949)2月3日丁丑、釋奠が行われた。丙穢の上卿がこれを行った。(『日本紀略』)
中納言藤原在衡・左大弁源庶明が官より参って言ったことには「内裏で犬の産穢がありました。官の後ろに参るに至り、官人を丙穢としました。よって、例を調べました。穢があるときは、ます収廟の像を巻いた後、廟門に着しました。そこで、そのことを奏させました。例によって行うよう仰せが在りました」と。(『吏部王記』)
2月4日 祈年祭
天暦三年(949)2月4日戊寅、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月5日 大原野祭の延期/除目/直物
天暦三年(949)2月5日己卯、大原野祭は内裏の犬の産穢により延期となった。(『日本紀略』)
直物・除目があった。(『日本紀略』)
2月17日 大原野祭の停止
天暦三年(949)2月17日辛卯、大原野祭が停止となった。去る五日に内裏の犬の産穢により延期となったが、今また左大臣家(藤原実頼)の穢により停止となった。(『日本紀略』)
2月6日 召名・直物
天暦三年(949)2月6日庚辰、式部・兵部の二省を召して召名を給わった。また、直物があった。(『日本紀略』)
2月7日 藤原忠平の七十賀料
天暦三年(949)2月7日辛巳、太政大臣藤原忠平の七十賀料について、大弁以下が地子稲を奉る官符に請印が行われた。(『日本紀略』)
2月8日 禳災定
天暦三年(949)2月8日壬午、諸卿は天変により禳災を行うことを定められた。(『日本紀略』)
2月9日 雷鳴/地震
天暦三年(949)2月9日癸未、雷鳴が突然一度だけあった。また、申の刻に地震があった。(『日本紀略』)
2月11日 列見
天暦三年(949)2月11日乙酉、列見があった。(『日本紀略』『九暦抄』★)
2月12日 朱雀上皇の音楽御覧
天暦三年(949)2月12日丙戌、朱雀上皇は西院へお出かけになり、楽所の音楽をご覧になった。(『日本紀略』)
2月13日 諸社奉幣/二条院御読経請僧定
天暦三年(949)2月13日丁亥、伊勢大神宮以下十二社へ奉幣使を発遣し、天変・怪異を祈禳した。(『日本紀略』)
二条院の御読経の請僧を定めた。(『日本紀略』)
2月15日 園・韓神祭
天暦三年(949)2月15日己丑、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
2月16日 触穢/梅花宴
天暦三年(949)2月16日庚寅、内裏で丙穢があった。(『日本紀略』)
「二条院で紅梅の宴があった」ということだ。右大臣藤原師輔は永興を喚び、琴を弾かせた。(『九暦抄』)
2月18日 一分召
天暦三年(949)2月18日壬辰、一分召のことがあった。(『日本紀略』)
2月19日 一分召
天暦三年(949)2月19日癸巳、一分召のことがあった。(『九暦』)
2月20日 二条院御読経
天暦三年(949)2月20日甲午、二条院の御読経始が行われた。(『日本紀略』)
2月23日 結願
天暦三年(949)2月23日丁酉、二条院の御読経が結願した。それぞれ度者一人を賜った。(『日本紀略』)
2月24日 朱雀上皇の北野御幸
天暦三年(949)2月24日戊戌、朱雀上皇が北野へお出かけになった。(『日本紀略』)
2月25日 承子女王が内親王になる/省試判
天暦三年(949)2月25日己亥、承子女王を内親王にする官符を諸司に給わった。藤氏の公卿が慶びを奏した。(『日本紀略』)
この日、省試判があった。及第者は十三人であった。(『日本紀略』)
2月28日 朱雀上皇の東山御覧・九条邸御幸
天暦三年(949)2月28日壬寅、朱雀上皇は東山にお出かけになって山の花をご覧になった。その後、九条殿(藤原師輔邸)にお出かけになった。(『日本紀略』)
3月
3月1日 直物
天暦三年(949)3月1日甲辰、直物があった。(『日本紀略』)
3月2日 藤原師輔、伊予介公輔に餞別/仁王会大祓
天暦三年(949)3月2日乙巳、伊予介公輔が右大臣藤原師輔のもとに来て、任国に向かうことを示した。相逢う次いでに被物として赤い大褂一料を下給した。必ずしも物を被かなければならないわけではない。しかし、この大夫はもとより相語る者である。そこで為したところである。(『九暦抄』)
臨時仁王会により、大祓が修された。(『日本紀略』)
3月3日 御燈の停止/朱雀上皇の御随身定
天暦三年(949)3月3日丙午、穢により御燈は停止となった。(『日本紀略』)
宣旨に言ったことには「左右近衛各五人を朱雀院の御随身とする」と。(『日本紀略』)
3月4日 臨時仁王会
天暦三年(949)3月4日丁未、仁王会が修された。(『日本紀略』)
3月6日 賭弓
天暦三年(949)3月6日己酉、賭弓があった。(『日本紀略』)
3月7日 朱雀院歌舞
天暦三年(949)3月7日庚戌、朱雀院で歌舞があった。行幸があるからである。(『日本紀略』)
3月8日 行幸召仰
天暦三年(949)3月8日辛亥、行幸召仰があった。(『日本紀略』)
3月9日 二条院行幸
天暦三年(949)3月9日壬子、村上天皇は二条院へお出かけになった。(『日本紀略』)
3月10日 藤原乙牟漏国忌/藤原忠平の七十算賀
天暦三年(949)3月10日癸丑、藤原乙牟漏の国忌であった。(『日本紀略』)
延暦寺が太政大臣藤原忠平の七十算を賀した。(『日本紀略』)
3月11日 二条院花宴/季御読経僧名定
天暦三年(949)3月11日甲寅、朱雀上皇が二条院において花宴を行った。式部卿敦実親王・中務卿重明親王、左右大臣(藤原実頼・藤原師輔)以下が参り伺候した。式部大輔大江維時以下二十二人の文人を召した。題に言ったことには「落花乱舞衣」。音楽の演奏があった。王卿は禄を賜った。(『日本紀略』)
季御読経の僧名を定めた。(『日本紀略』)
3月12日 仁寿殿花宴
天暦三年(949)3月12日乙卯、仁寿殿において花宴があった。(『日本紀略』)
3月14日 臨時叙位
天暦三年(949)3月14日丁巳、臨時叙位があった。(『日本紀略』)
3月15日 藤原忠平七十算賀
天暦三年(949)3月15日戊午、権中納言藤原師尹が太政大臣藤原忠平の七十算を賀して、法性寺において法会を修した。左右大臣(藤原実頼・藤原師輔)以下も参会した。(『日本紀略』)
右兵衛督藤原師氏が藤原忠平の七十賀をなした。法性寺尊勝堂において法会を修した。七仏薬師像を画した。金字寿命経七十巻を写した。(『河海抄』)
3月16日 女官除目/位禄定/藤原忠平が致仕表を上る
天暦三年(949)3月16日己未、中務を召して女官召名を給わった。(『日本紀略』)
右大臣藤原師輔が藤原忠平のもとへ参った。致仕の表を献じた。使者は藤原兼通。御表の作者は朝綱。左大臣藤原実頼が初めて位禄のことを行った。(『九暦抄』)
3月17日 桓武天皇国忌
天暦三年(949)3月17日庚申、桓武天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
3月18日 季御読経
天暦三年(949)3月18日辛酉、季御読経始が行われた。(『日本紀略』)
3月21日 結願
天暦三年(949)3月21日甲子、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
3月21日 仁明天皇国忌
天暦三年(949)3月21日甲子、仁明天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
3月22日 殿上賭弓
天暦三年(949)3月22日乙丑、村上天皇は弓場殿にお出ましになり、侍臣の賭弓をご覧になった。女御藤原安子から懸物があった。(『日本紀略』)
未の刻、右大臣藤原師輔が参入した。今日は位服を着用しなかった。赤色の服を着用した。「昔、ある上達部はこのようなとき必ずしも位服を着用したわけではなかった」ということだ。(『九暦抄』)
3月23日 官奏
天暦三年(949)3月23日丙寅、右大臣藤原師輔が官奏を奉仕した。(『西宮記』)
3月25日 二条院御射
天暦三年(949)3月25日戊辰、二条院において御射があった。(『日本紀略』)
3月27日 藤原忠平七十算賀
天暦三年(949)3月27日庚午、尚侍藤原貴子が法性寺尊勝堂において斎会を設け、藤原忠平の七十算を賀した。(『日本紀略』)
3月28日 朱雀上皇の宇治院御幸/藤原実頼、春日社へ参詣
天暦三年(949)3月28日辛未、朱雀上皇が宇治院へお出かけになった。(『日本紀略』)
左大臣藤原実頼が春日社へ参詣した。(『日本紀略』)
3月29日 官奏/復任除目
天暦三年(949)3月29日壬申、官奏・復任除目があった。(『日本紀略』)
3月30日 怪異/尚書竟宴
天暦三年(949)3月30日癸酉、官東庁において金剛般若経を読み奉った。鷺が集まる怪異を祈った。(『日本紀略』)
蔵人所において尚書竟宴があった。(『日本紀略』)
4月
4月1日 旬
天暦三年(949)4月1日甲戌、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。旬のことがあった。(『日本紀略』『吏部王記』★)
4月4日 広瀬・龍田祭
天暦三年(949)4月4日丁丑、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月5日 官奏
天暦三年(949)4月5日戊寅、左丞相藤原実頼が官奏を相覧した。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
天暦三年(949)4月7日庚辰、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。擬階の文を奏した。去る延喜十二年以来、紫宸殿への出御はなかった。(『日本紀略』)
承和四年・寛平六年・延喜二十二年の日記を見ると、両大臣が参入した例は見えなかった。右大臣藤原師輔は障りを称し参らなかった。「未二刻、紫宸殿にお出ましになった。擬階奏をご覧になった。左大臣藤原実頼が事を行った。中納言藤原元方が奏を取った。両大納言の不参による。参議庶明・随時を式・兵部卿代とした。寛平六年・延喜十年の例による。件の代わりに母屋に着した。二省の短冊は各二度であった」ということだ。(『九暦抄』)
4月8日 灌仏の停止/二条院灌仏
天暦三年(949)4月8日辛巳、山科祭により灌仏を止められた。重明親王はすぐに使者を差し遣わし、二条院の灌仏布施を奉った。(『吏部王記』)
4月9日 競馬方人定
天暦三年(949)4月9日壬午、二条院において競馬方人が定められた。(『日本紀略』)
4月10日 御卜
天暦三年(949)4月10日癸未、神祇官と陰陽寮を召して霖雨について占わせた。坤・艮の方角にある神社に不浄の気があり、祟りを為しているということだ。そこで検非違使を遣わし、その方角にあたる諸社を実検させた。(『日本紀略』)
4月11日 平野祭/不堪佃田定/五月節の停止/賀茂斎院御禊御前定
天暦三年(949)4月11日甲申、去年の不堪佃田のことを定めた。また、五月五日の節会を停止した。今日、平野祭が行われた。賀茂祭御禊御前のことを定めた。(『日本紀略』)
4月12日 藤花宴/藤原兼家 昇殿/朱雀院御幸
天暦三年(949)4月12日乙酉、飛香舎において藤花宴があった。村上天皇がお出ましになった。侍臣が詩を賦し、音楽を演奏した。(『日本紀略』)
非参議従三位藤原兼家が昇殿を許された。(『公卿補任』)
朱雀上皇が朱雀院にお出ましになり、厩司に仰せて御馬を取り分けた。来月の競馬の所分預である。(『日本紀略』)
4月15日 位記請印
天暦三年(949)4月15日戊子、二省の位記請印があった。仰せにより、御馬一匹を陽成上皇の御覧に供した。(『日本紀略』)
4月18日 大神祭/鴨川堤巡検
天暦三年(949)4月18日辛卯、大神祭が行われた。(『日本紀略』)
諸卿が鴨川堤を巡検し、官厨家が川頭に饗餞を設けた。(『日本紀略』)
左大臣藤原実頼以下が鴨川堤の損傷しているところを実検した。(『九暦抄』)
4月19日 官奏/触穢定
天暦三年(949)4月19日壬辰、左大臣藤原実頼が官奏を奉仕した。この日、太政大臣家(藤原忠平)の触穢が内裏に及んだか否か、諸卿が定め申した。(『日本紀略』)
4月22日 賀茂斎院御禊
天暦三年(949)4月22日乙未、賀茂斎院婉子内親王の御禊が行われ、諸衛を召して警固のことを仰られた。(『日本紀略』)
4月24日 賀茂祭
天暦三年(949)4月24日丁酉、賀茂祭が行われた。(『日本紀略』)
4月25日 朱雀上皇、遷御御覧
天暦三年(949)4月25日戊戌、解陣があった。朱雀上皇は知足院へお出かけになり、斎王婉子内親王の還院をご覧になった。(『日本紀略』)
賀茂祭使が還立した。(『九暦抄』)
4月27日 仏教供養
天暦三年(949)4月27日庚子、朱雀上皇は興福寺において供養仏教を行った。また千僧を供した。先年の東国賊の御願による。(『日本紀略』)
4月29日 郡司読奏
天暦三年(949)4月29日壬寅、郡司読奏が行われた。(『日本紀略』)
5月
5月1日 旬/除目召仰
天暦三年(949)5月1日甲辰、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。番奏・庭立奏があった。(『日本紀略』『九暦抄』★)
今日、除目の召仰があった。(『日本紀略』)
5月2日 除目
天暦三年(949)5月2日乙巳、除目の議が行われた。(『日本紀略』)
5月3日 除目清書
天暦三年(949)5月3日丙午、除目の清書が行われた。(『日本紀略』)
5月11日 競馬御覧
天暦三年(949)5月11日甲寅、朱雀上皇は西院にお出ましになり、競馬を御覧になった。(『日本紀略』)
5月18日 内御修法
天暦三年(949)5月18日辛酉、内裏において御修法があった。(『日本紀略』)
5月19日 直物/臨時御読経定
天暦三年(949)5月19日壬戌、直物が行われた。今日、臨時御読経のことを定めた。(『日本紀略』)
5月20日 競馬・賭弓御覧
天暦三年(949)5月20日癸亥、朱雀上皇は朱雀院において御馬をご覧になった。賭弓を左右が東庭に奏した。(『日本紀略』)
5月21日 二条院打毬
天暦三年(949)5月21日甲子、二条院において打毬があった。(『日本紀略』)
5月25日 臨時御読経
天暦三年(949)5月25日戊辰、臨時仁王経御読経始が行われた。(『日本紀略』)
5月28日 結願
天暦三年(949)5月28日辛未、御読経が結願した。(『日本紀略』)
6月
6月1日 日食
天暦三年(949)6月1日癸酉、日食があった。廃務であった。(『日本紀略』)
6月2日 官奏
天暦三年(949)6月2日甲戌、右大臣藤原師輔は官奏を奉仕した。(『日本紀略』)
6月4日 院の下人が諸衛舎人屋を破壊
天暦三年(949)6月4日丙子の明け方、院の下人が諸衛舎人屋を破壊した。(『日本紀略』)
6月6日 諸衛舎人が院御厨預邸を破壊
天暦三年(949)6月6日戊寅、諸衛舎人数百人が群れをなして、院御厨預中務丞佐忠宅を破壊した。(『日本紀略』)
6月10日 御体御卜奏の延期
天暦三年(949)6月10日壬午、穢により御体御卜奏が延期となった。(『日本紀略』『九条殿記』★)
6月11日 月次祭・神今食の延期
天暦三年(949)6月11日癸未、月次祭ならびに神今食は穢により延期となった。そこで、建礼門において大祓が修された。(『日本紀略』)
6月14日 陰陽寮の触穢
天暦三年(949)6月14日丙戌、陰陽寮の井戸に落下死した者が発見された。蔵人所仕丁ならびに近辺の諸司の人たちはこの由を知らず、井戸の水を汲んで用いた。よって、その穢は宮中に及んだ。(『日本紀略』)
陰陽寮の井戸に女童が落下死した。その穢は宮中に及んだ。(『九条殿記』)
6月21日 御卜
天暦三年(949)6月21日癸巳、神祇官・陰陽寮の官人を軒廊に召し、旱魃の御卜を行わせた。占い申したことには「艮・巽・坤・乾の方角にある神社・山陵が祟りをなしています。すぐに深草・柏原などの山陵を実検すべきです」と。検非違使に召仰せた。(『日本紀略』)
6月23日 祈雨
天暦三年(949)6月23日乙未、東西の獄の未発覚の犯人二十人を赦免した。干ばつによる。また、大神宮において炎旱を祈りもうした。祭主大中臣頼基を召し仰せた。(『日本紀略』)
6月26日 賑給使定
天暦三年(949)6月26日戊戌、賑給使を定めた。(『日本紀略』)
6月29日 朱雀上皇、九条院御幸/賑給
天暦三年(949)6月29日辛丑、朱雀上皇が九条院にお出かけになった。(『日本紀略』)
干ばつの災いにより、東西の京に賑給があった。(『日本紀略』)
7月
7月1日 呪願文を奏する
天暦三年(949)7月1日壬寅、仁王会の闕請の定め、呪願文を奏した。(『日本紀略』)
7月3日 臨時仁王会/怪異
天暦三年(949)7月3日甲辰、臨時仁王会が行われた。(『日本紀略』)
申の刻、紫宸殿の巽の方角の角にある桜の木に虹がかかっていたので、御卜を行わせた。「咎はありません」ということだ。また、豊楽院承覲堂の上に鷺が集まったので占わせたところ、失火・兵革のことを申した。(『日本紀略』)
7月4日 広瀬・龍田祭/炎旱
天暦三年(949)7月4日乙巳、穢により広瀬・龍田祭が延期となった。(『日本紀略』)
日頃の炎旱がもっとも甚だしく、田園が焦げて枯れた。紀伊郡の百姓たちが愁いを申したので、例によって神泉苑の水を下給した。明日から下給することを定め奏された。(『日本紀略』)
7月24日 広瀬・龍田祭
天暦三年(949)7月24日乙丑、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
7月5日 神泉苑の水を田に注ぐ
天暦三年(949)7月5日丙午、蔵人右少弁源俊が綸言を奉り、少納言源泉に仰って言ったことには「神泉苑の池の水を京の南の田に注ぐように」と。(『日本紀略』)
7月7日 大雨
天暦三年(949)7月7日戊申、神泉苑勅使少納言源泉が三日間池の水を出し下すことを奏させた。午後、陰雲の層が蒸れて雨が降った。川が氾濫して道路に溢れ、往還することができなくなった。古の人が言ったことには「件の池の水を放つときは、必ず雨の効験がある」ということだ。(『日本紀略』)
7月9日 土佐国交替使の返事
天暦三年(949)7月9日庚戌、土佐国交替使の返事を申した。(『日本紀略』)
7月10日 季御読経
天暦三年(949)7月10日辛亥、季御読経始が行われた。(『日本紀略』)
八省院において行われた。(『九暦抄』)
7月13日 結願
天暦三年(949)7月13日甲寅、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
7月15日 御物忌
天暦三年(949)7月15日丙辰、15日・16日は内の御物忌であった。(『九条殿記』)
7月17日 御体御卜奏・月次祭・神今食の日時を定める/相撲召仰
天暦三年(949)7月17日戊午、伊勢斎王悦子女王の装束使を召名を式部に下給した。(『日本紀略』)
この日、御体御卜奏・月次祭・神今食の日時を定めた。(『日本紀略』)
天暦三年5月27日、尾張権介是竝の妻の死穢が内裏に参交し、6月10日に予定されていた御体御卜奏・神今食などは停止となった。6月14日、陰陽寮の井戸に女童が落下死し、その穢もまた宮中に及び、7月14日に穢の期間が満了した。15日と16日は内の御物忌であった。17日、右大臣藤原師輔は殿上の仰せにより参内し、陰陽寮を召して神今食の日を勘申させた。また、先例により事の由を奏し、御体御卜奏の日を勘申させた。申して言ったことには「神今食は22日、御体御卜は24日もしくは26日です」と。また、神祇官を召して式日ではない日に御体御卜を奉仕した例を数例勘申させた。申して言ったことには「延喜十五年12月に穢があったとき、穢が過ぎた後四日目に供奉し24日に奏しました。延長二年12月に穢があったときは四日目に供奉し、26日に奏しました。同三年12月に穢があったときは十日目に供奉し、29日にこれを奏しました。天慶元年6月に穢があったときは十日目に供奉し、24日にこれを奏しました。今の勘文では、月内に残っている日が多いときは十日目にこれを奏し、月内に残っている日が少ない日は三日目にこれを奏しました」と。件の勘文ならびに陰陽寮が日を選んだ勘文を奏聞し、仰って言ったことには「神今食は22日に行うように。御体御卜は26日に占い始め、29日に奏聞するように」と。(『九条殿記』)
また、相撲召仰があった。(『日本紀略』)
7月20日 臨時奉幣使定
天暦三年(949)7月20日辛酉、臨時奉幣使を定めた。(『日本紀略』)
7月21日 朱雀上皇、桂川御幸
天暦三年(949)7月21日壬戌、朱雀上皇が桂川にお出かけになった。(『日本紀略』)
7月22日 月次祭・神今食祭
天暦三年(949)7月22日癸亥、月次祭・神今食が行われた。村上天皇は雨により神嘉殿にお出ましにならなかった。去る月、頻りに穢があったので今まで延期されていた。(『日本紀略』『西宮記』★)
7月24日 臨時奉幣使発遣
天暦三年(949)7月24日乙丑、祈年穀ならびに疫病を消すために、十六社へ臨時奉幣使を発遣した。ただし伊勢の御幣には去る12月の月次幣畢を相加えた。(『日本紀略』)
7月25日 金剛般若経の転読/院の秋季御読経
天暦三年(949)7月25日丙寅、弁官庁において請僧三十口がに金剛般若経を転読させた。物の怪を消除するためである。(『日本紀略』)
今日、院の秋季御読経が行われた。(『日本紀略』)
7月29日 御体御卜奏/相撲召合
天暦三年(949)7月29日庚午、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
相撲召合があった。左大将藤原実頼が左右奏を奏した。右大将藤原師輔は参るといえども障りを称してこれを取らなかった。(『日本紀略』)
7月30日 追相撲
天暦三年(949)7月30日辛未、追相撲が行われた。左右舞を奏した。各七曲。(『日本紀略』)
8月
8月1日 京都洪水/紫宸殿の版位紛失
天暦三年(949)8月1日壬申、東西の川の水が氾濫した。(『日本紀略』)
去る夜、紫宸殿の版位が紛失した。(『日本紀略』)
8月2日 止雨奉幣定/版位を作る日時を定める
天暦三年(949)8月2日癸酉、明法博士の勘文により下総守有行の逗留があり、赴任しないことを定められた。今日、止雨奉幣のことを定められた。(『日本紀略』)
今日、版位を作る日時を定められた。(『日本紀略』)
8月4日 軒廊御卜
天暦三年(949)8月4日乙亥、軒廊御卜のとき、陰陽寮は参らなかった。(『九暦抄』)
8月6日 釋奠/童相撲方人定
天暦三年(949)8月6日丁丑、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
今日、童相撲の方人を定められた。(『日本紀略』)
8月7日 釋奠内論議
天暦三年(949)8月7日戊寅、博士たちが参内したが、村上天皇の御物忌により内論議はなかった。通例により禄を下給した。(『日本紀略』)
8月7日 触穢
天暦三年(949)8月7日戊寅、犬の落胎があった。穢とするか否か沙汰があった。(『日本紀略』)
8月9日 三日の穢
天暦三年(949)8月9日庚辰、犬の落胎の穢について議があり、三日の穢が用いられた。(『日本紀略』)
8月8日 六社奉幣使召還
天暦三年(949)8月8日己卯、六社奉幣使を立て宣命を下給したが、退出の間に犬の落胎の穢が内裏に入り交じったことにより、各奉幣使を召し返した。(『日本紀略』)
8月9日 紫宸殿の版位を置く
天暦三年(949)8月9日庚辰、紫宸殿の版位を置いた。(『日本紀略』)
8月10日 左大臣家相撲還饗
天暦三年(949)8月10日辛巳、左大臣家(藤原実頼)の相撲還饗があった。(『日本紀略』)
8月11日 定考
天暦三年(949)8月11日壬午、定考が行われた。(『日本紀略』)
8月12日 小定考
天暦三年(949)8月12日癸未、小定考が行われた。(『日本紀略』)
藤原忠平の病により、音楽はなかった。(『日本紀略』)
8月12日 右大臣家相撲還饗
天暦三年(949)8月12日癸未、右大臣家(藤原師輔)の相撲還饗があった。本府に託した。藤原忠平の病による。(『日本紀略』)
8月14日 藤原忠平 薨去
天暦三年(949)8月14日乙酉、戌の刻に太政大臣藤原忠平が小一条邸において薨じられた。病の間、夕方に度者三十人を賜った。天下に大赦があった。(『日本紀略』『九暦抄』)
左大臣藤原実頼を藤氏長者とした。(『本朝世紀』)
8月15日 藤原忠平を法性寺に移す
天暦三年(949)8月15日丙戌の夕方、太政大臣藤原忠平を法性寺に移し奉った。(『日本紀略』)
戌の刻に入棺した。常時用いていた牛車に乗せた。六位一人が前行し、燭を持った。諸子が歩行し、車の後ろに従った。(『吏部王記』)
8月16日 固関・警固
天暦三年(949)8月16日丁亥、固関使を遣わした。また、警固のことがあった。(『九暦抄』)
8月17日 藤原忠平 薨奏/諸陣警固
天暦三年(949)8月17日戊子、太政大臣藤原忠平の薨奏が行われた。三日間の廃朝を仰った。(『日本紀略』)
諸陣を警固した。使者を分けて遣わし、三関に勅符・木契を下給した。(『吏部王記』)
8月18日 藤原忠平 葬送
天暦三年(949)8月18日己丑、戌の刻、太政大臣藤原忠平が法性寺の外、艮の土地に葬られた。詔により忠平に正一位を贈り、諡を貞信公とした。使者の大納言源清蔭・中納言藤原元方・参議源庶明が墓所へ向かった。(『日本紀略』『西宮記』★)
8月21日 斎宮群行の御前・寮人定
天暦三年(949)8月21日壬辰、斎王悦子女王の御前及び寮人を定められた。(『日本紀略』)
8月25日 解陣・開関
天暦三年(949)8月25日丙申、解陣が行われた。(『日本紀略』)
開関のことがあった。(『九暦抄』)
8月26日 光孝天皇国忌
天暦三年(949)8月26日丁酉、光孝天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
9月
9月6日 二条院行幸
天暦三年(949)9月6日丙午、村上天皇が二条院へお出かけになった。太皇太后藤原穏子のご病気による。左右大将(藤原実頼・藤原師輔)は伺候しなかった。(『日本紀略』)
承和六年に大将が伺候しないといえども行幸した例があった。これに倣って行われたということだ。(『西宮記』)
9月7日 大祓
天暦三年(949)9月7日丁未、斎宮群行により、朱雀院において大祓が修された。(『日本紀略』)
9月9日 斎宮群行の日改定
天暦三年(949)9月9日己酉、斎宮群行の日を23日に改定した。伊勢大神宮ならびに近江・伊勢に下知した。(『類聚符宣抄』)
9月11日 伊勢例幣の停止
天暦三年(949)9月11日辛亥、伊勢例幣を奉られなかった。そこで、建礼門において大祓が修された。(『日本紀略』)
9月19日 斎宮寮官人を任じる
天暦三年(949)9月19日己未、斎宮寮の召名を二省ならびに寮頭に下給した。位記請印があった。(『日本紀略』)
9月20日 陽成上皇 出家
天暦三年(949)9月20日庚申、陽成上皇がご病気により出家した。(『九暦抄』)
9月22日 斎宮群行次第の注進/藤原淑姫 卒去/内印
天暦三年(949)9月22日壬戌、右大臣藤原師輔は服身といえども、仰せにより斎宮群行の次第を注進した。(『明日、斎王悦子女王が八省に参る」ということだ。)
延喜(醍醐天皇)の更衣藤原淑姫が卒去した。長明親王の母である。(『九暦抄』)
内印のことがあった。(『日本紀略』)
9月23日 斎宮群行
天暦三年(949)9月23日癸亥、斎宮悦子女王が桂川において御禊を行い、神宮に向かった。村上天皇が大極殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
斎王(悦子女王)が伊勢に下った。戌の刻、野宮から桂川に向かった。同刻、村上天皇が大極殿にお出ましになった。丑の刻、斎王が八省に参った。「上達部の多くに障りがあることにより、長奉送使中納言藤原在衡が宣命を奏した。寅一刻に進発し、二刻に村上天皇は本宮にお帰りになった」ということだ。(『九暦抄』)
9月26日 法皇・太皇太后の病により度者を給わる
天暦三年(949)9月26日丙寅、勅により陽成院に度者三十人を奉り、太皇太后藤原穏子に度者八十人を奉った。皆ご病気によるものである。(『日本紀略』)
9月27日 諷誦
天暦三年(949)9月27日丁卯、左相府(藤原実頼)は故大相国(藤原忠平)のために二十二ヶ所の寺に諷誦を修した。(『日本紀略』)
9月29日 醍醐天皇国忌/陽成上皇 崩御
天暦三年(949)9月29日己巳、醍醐天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
陽成上皇が冷泉院において崩御された。夕方、円覚寺に移し奉った。(『日本紀略』)
10月
10月1日 旬
天暦三年(949)10月1日庚午、村上天皇は紫宸殿にお出ましになった。通例のとおい、平座・見参を奏した。(『日本紀略』)
10月2日 警固・固関/左右大臣以下復任/法性寺供養
天暦三年(949)10月2日辛未、陽成上皇の崩御により、三関使を遣わし諸衛に警固のことを仰った。(『日本紀略』)
左右大臣(藤原実頼・藤原師輔)以下ならびに尚侍藤原貴子たちが復任した。(『日本紀略』)
右丞相(藤原師輔)は法性寺において仏教を供養した。故大相国(藤原忠平)の御菩提を訪ねた。(『日本紀略』『九暦抄』★)
10月3日 内御読経/陽成上皇 葬送
天暦三年(949)10月3日壬申、御読経が結願した。左衛門督源高明は警固により弓箭を帯びていた。「まず□(欠字)に入り、弓箭を解いて行香した」ということだ。(『西宮記』)
夜、神楽岡の東の土地に陽成上皇を葬り奉った。(『日本紀略』)
10月4日 廃朝/藤原忠平の七七日忌
天暦三年(949)10月4日癸酉、陽成上皇の崩御により、廃朝を仰った。仁和天皇の例によると五日間であった。(『日本紀略』)
法性寺において故大相国(藤原忠平)の七七忌を修した。(『日本紀略』)
10月8日 政始
天暦三年(949)10月8日丁丑、廃朝後の政始であった。(『日本紀略』)
10月10日 開関
天暦三年(949)10月10日己卯、開関があった。(『日本紀略』)
10月11日 藤原師輔、復任後初着座
天暦三年(949)10月11日庚辰、弁官曹司庁において左右大臣の椅子を立て直した。右大臣藤原師輔は復任後初めて仗座に着し、申文を見た。(『日本紀略』)
10月16日 除目
天暦三年(949)10月16日乙酉、除目があった。この日、文章博士紀在昌が史記を講じ始めた。(『日本紀略』)
10月17日 射場始
天暦三年(949)10月17日戊戌、御料的を懸けた。仰せにより改替して人々に奉仕させた。この日、右少弁有年兼的附、また左少弁藤原伊尹に懸物を下給した。(『西宮記』)
10月19日 開関使覆奏
天暦三年(949)10月19日戊子、開関使覆奏があった。(『日本紀略』)
10月24日 藤原実頼、信濃封戸を辞す/除目召仰
天暦三年(949)10月24日癸巳、左大臣藤原実頼が故太政大臣藤原忠平の信濃国の封物の表を辞すことを奉られた。すぐに勅答を遣わした。(『日本紀略』)
明日二条院へ行幸があるため、諸衛に召仰があった。(『日本紀略』)
10月25日 二条院行幸
天暦三年(949)10月25日甲午、家で初めて菊会を行った。村上天皇は二条院へお出かけになった。左右対称は重服により供奉しなかった。「例のないことによる」ということだ。(『九暦抄』)
10月27日 藤原貴子邸で火事
天暦三年(949)10月27日丙申、尚侍藤原貴子邸の政所屋で失火があった。(『日本紀略』)
11月
11月1日 旬/御暦奏
天暦三年(949)11月1日庚子、御暦奏が行われた。村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。音楽の演奏があった。(『日本紀略』)
監物・御鎰奏・御暦奏・番奏は通例のとおりであった。「左少将藤原伊尹が初めて番奏を奉仕した」ということだ。未の刻、殿に参った。申の刻に及び番の簡を持って参った。これは佐などの緩怠である。(『九暦抄』)
11月7日 杜本・當麻祭使発遣
天暦三年(949)11月7日丙午、杜本・當麻祭使を発遣した。(『日本紀略』)
11月8日 春日祭使発遣
天暦三年(949)11月8日丁未、春日祭使を立てられた。(『日本紀略』)
11月9日 平野祭・春日祭
天暦三年(949)11月9日戊申、平野祭・春日祭が行われた。使者の右近中将源雅信の触穢により、右衛門佐源就為を代わりとした。(『日本紀略』)
11月10日 率川祭・當宗祭/大安寺西塔焼亡
天暦三年(949)11月10日己酉、率川祭・當宗祭が行われた。夜、大安寺西塔が雷火で焼亡した。(『日本紀略』)
11月13日 大原野祭
天暦三年(949)11月13日壬子、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
11月14日 園・韓神祭/冷泉院焼亡
天暦三年(949)11月14日癸丑、園・韓神祭が行われた。子の刻頃、冷泉院が焼亡した。(『日本紀略』)
11月15日 鎮魂祭/五節試の停止
天暦三年(949)11月15日甲寅、鎮魂祭が行われた。夜、五節試があったが、太皇太后藤原穏子のご病気により停止となった。(『日本紀略』)
11月16日 新嘗祭
天暦三年(949)11月16日乙卯、新嘗祭が行われた。村上天皇は神嘉殿にお出ましにならなかった。太皇太后藤原穏子のご病気による。(『日本紀略』)
11月17日 豊明節会
天暦三年(949)11月17日丙辰、豊明節会があった。村上天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
村上天皇は軒に臨まなかった。簾を紫宸殿に施した。中納言藤原在衡が内弁のことを行った。両大臣・二大納言はみな重服であった。民部卿藤原元方は参らなかった。左衛門督源高明が病を称して早く退出したからである。(『政事要略』)
11月18日 女王禄/陽成上皇七七日法会
天暦三年(949)11月18日丁巳、女王禄を賜った。(『日本紀略』)
この日、円覚寺において陽成院の七七日御法会を修した。(『日本紀略』)
11月19日 朱雀院巡検
天暦三年(949)11月19日戊午、朱雀院を巡検した。(『日本紀略』)
11月20日 方略試
天暦三年(949)11月20日己未、文章得業生大江澄明が方略試を奉った。題に言ったことには「明史官弁山水」。(『日本紀略』)
11月22日 賀茂臨時祭
天暦三年(949)11月22日辛酉、賀茂臨時祭が行われた。(『日本紀略』)
11月24日 朱雀上皇、西院渡御
天暦三年(949)11月24日癸亥、朱雀上皇が西院にお渡りになった。(『日本紀略』)
11月25日 朱雀院御読経
天暦三年(949)11月25日甲子、朱雀院島町において請僧二十口に仁王経を転読させた。(『日本紀略』)
11月26日 朱雀院遷御
天暦三年(949)11月26日乙丑、太皇太后藤原穏子ならびに朱雀上皇は東二条院から朱雀院へお移りになった。饗宴があった。禄はなかった。(『日本紀略』)
亥の刻、中宮(藤原穏子)が朱雀院の島町にお帰りになった。その故は、去る年の八月、二条院にお出ましになった後、頻りにご病気のことがあった。その祟りを占ったことには「御在所がよろしくないことによります」ということだ。「両帝の御定所で移徙があった。饗宴があったが禄はなかった」ということだ。(『九暦抄』)
11月27日 承子内親王魚味始
天暦三年(949)11月27日丙寅、承子内親王が飛香舎において魚味始を行った。右大臣藤原師輔が共餞を備えた。殿上の侍女がみな饗宴を設けた。親王は二歳である。(『西宮記』)
12月
12月3日 天智天皇国忌
天暦三年(949)12月3日壬申、天智天皇国忌であった。(『日本紀略』)
12月7日 衣服目録
天暦三年(949)12月7日丙子、中務省が衣服目録を奏した。(『日本紀略』)
12月8日 郡司召
天暦三年(949)12月8日丁丑、郡司召があった。(『日本紀略』)
12月9日 大神祭使発遣
天暦三年(949)12月9日戊寅、大神祭使を立てた。(『日本紀略』)
12月10日 御体御卜奏
天暦三年(949)12月10日己卯、御体御卜奏が行われた。上卿は参らなかった。そこで、外記が内侍に託してこれを奏した。(『日本紀略』)
神祇官が御卜の文を候じた。しかし納言・参議は重・軽服あるいは触穢により参らなかった。先例がないといっても、勅旨により外記が内侍所に託したということだ。(『西宮記』)
12月11日 月次祭・神今食祭
天暦三年(949)12月11日庚辰、月次祭・神今食が行われた。村上天皇は神嘉殿にお出ましにならなかった。陰陽寮の申状によりこれを停止した。(『日本紀略』)
12月13日 荷前使・擬侍従定
天暦三年(949)12月13日壬午、荷前・擬侍従を定められた。(『日本紀略』)
12月15日 小一条邸で火事
天暦三年(949)12月15日甲申、子の刻頃、故太政大臣藤原忠平の家で失火があった。浄行法師の童子一人が焼死した。(『日本紀略』)
12月19日 主税寮返帳定
天暦三年(949)12月19日戊子、主税寮返帳のことを定められた。(『日本紀略』)
12月20日 御仏名
天暦三年(949)12月20日己丑、御仏名があった。(『日本紀略』)
12月23日 光仁天皇国忌
天暦三年(949)12月23日壬辰、光仁天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
12月24日 故藤原忠平の墓所を荷前の幣に加える
天暦三年(949)12月24日癸巳、貞信公(藤原忠平)の墓所を以て荷前の幣に預かることについて仰せを蒙った。官符を造らせたことを藤原有相に仰った。(『九暦抄』)
12月25日 荷前/朱雀院御仏名
天暦三年(949)12月25日甲午、村上天皇が建礼門にお出ましになり、荷前使を発遣した。故太政大臣藤原忠平の墓所を相加えた。夜、朱雀院の御仏名があった。(『日本紀略』『清慎公記』★)
左右大臣(藤原実頼・藤原師輔)が荷前使を奉仕した。(『日本紀略』)
12月28日 源兼明復任
天暦三年(949)12月28日丁酉、参議源兼明に復任宣旨があった。(『日本紀略』)
12月29日 追儺/大祓
天暦三年(949)12月29日戊戌、追儺ならびに大祓があった。(『日本紀略』)
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天暦四年(950)
1月
1月1日 元日節会
天暦四年(950)1月1日己亥、元日節会。右大臣藤原師輔が立楽を催した。申して言ったことには「雅楽頭が参らなかった。代官を申すように」と。しかし日上は陣頭に就かなかったので、そのことを申すことができなかった。「右大臣(藤原師輔)がすぐに宜陽殿に就き、代官の奏を仰った」ということだ。(『妙音院相国白馬節会次第』)
1月7日 節会/叙位
天暦四年(950)1月7日乙巳、節会。「雨儀であった」ということだ。終わって左少弁好古が承明門の東一間の壇上に立ち、目録を奏した。民部卿藤原元方が言ったことには「必ず廊下において禄し、西北にしてこれを奏するように」と。(後日、弁が言ったことには『年来の例はみなこのように行いました』と。卿、久しく弁官を経る者である。どうして善を知らないことがあろうか。)(『西宮記』)
1月14日 御斎会内論議/男踏歌
天暦四年(950)1月14日壬子、重明親王は藤原穏子のもとに参った。宴を賜ることになって(様器を用いた)、水駅であった。また、院侍に侍った。しばらくして、朱雀上皇が寝殿にお帰りになった。踏歌が終わって饗宴を賜った。飯駅であった。(『花鳥余情』)
衆僧が参り入った。寛空僧都が問答の兀子を進める間、香水を加持し一灑して座に戻った。権律師延珍が答者の座の北に立った。「読僧の交名」ということだ。(『御質抄』)
1月18日 賭弓
天暦四年(950)1月18日丙辰、賭弓が行われた。左右大将(藤原実頼・藤原師輔)が召しにより参内した。両人重服であった。左閤(藤原実頼)が奏を進めた後、退出した。右閤(藤原師輔)、近衛府が一度射訖り、退出した。「右近・左兵衛が勝った」ということだ。(『西宮記』★)
1月22日 敦実親王家歌合
天暦四年(950)1月22日庚申、式部卿敦実親王家の歌合があった。(『夫木和歌抄』)
1月25日 朝覲行幸
天暦四年(950)1月25日癸亥、村上天皇が朱雀院へお出かけになり、太皇太后藤原穏子に謁見した。(『御遊抄』)
1月29日 藤原安子、若菜を献じる
天暦四年(950)1月29日丁卯、「この日、女御藤原安子が若菜を献じた」ということだ。(『師光年中行事』)
1月30日 除目
天暦四年(950)1月30日戊辰、除目の間、蔵人が議所に来た。上達部を召した。大臣が参ると、膝突に着して召した。納言以下の参議であれば立ったまま召す。しかし今、立ったまま召した。これは非である。(『西宮記』)
2月
この月、式部卿敦実親王が出家した。(『僧綱補任抄出』)
2月1日 除目
天暦四年(950)2月1日己巳、除目の議があった。(『公卿補任』)
2月2日 触穢
天暦四年(950)2月2日庚午、中院の北門に死人の頭があった。その形は破垸のようであったということだ。右大臣藤原師輔はこのことを聞いてしばらく佇立し、穢ではないと定めて諸祭は通例のとおりであるということだ。(『西宮記』)
2月11日 得業生試
天暦四年(950)2月11日己卯、得業生試があった。(『類聚符宣抄』)
2月19日 藤原元輔 昇殿
天暦四年(950)2月19日丁亥、参議従四位上藤原元輔が昇殿を許された。(『公卿補任』)
3月
3月11日 花宴
天暦四年(950)3月11日戊申、花宴があった。御遊、山水。(『拾芥抄』)
3月14日 藤花御覧
天暦四年(950)3月14日辛亥、飛香舎において藤花御覧があった。(『新古今和歌集』)
3月29日 賀茂祭の日時定
天暦四年(950)3月29日丙寅、左大臣藤原実頼以下が陣頭において賀茂祭のことを議定した。外記が勘申して言ったことには「先例では、下の申・酉の日にこの祭を行った例はありません」と。そうとはいえ、他の祭に倣って下の申・酉の日に行うことを諸卿が定め申した。よって、その定に従った。進物所の膳部が穢に触れ、去る二十日、かの所に参った。よって、この定があった。(『西宮記』)
4月
4月4日 賀茂祭の停止
天暦四年(950)4月4日辛未、今年の賀茂祭は今月十七日に当たる。しかし内裏に穢があり、来たる十八日に穢の期間が満了する。先例では、斎内に穢があるときは停止になっていた。また、賀茂祭の停止ならびに申・酉の日に祭を行うことの吉凶についての御卜があった。(『年中行事秘抄』)
4月17日 大祓
天暦四年(950)4月17日甲申、賀茂祭の延期により、大祓が修された。(『西宮記』)
4月30日 賀茂祭
天暦四年(950)4月30日丁酉、賀茂祭が行われた。(『年中行事秘抄』)
5月
5月3日 近衛府荒手結
天暦四年(950)5月3日庚子、近衛府の荒手結があった。(『左経記』)
5月21日 除目
天暦四年(950)5月21日戊午、除目があった。(『公卿補任』)
5月24日 皇子憲平 誕生
天暦四年(950)5月24日辛酉、寅の刻、丹後守藤原遠規宅において皇子憲平が誕生した。(『日本紀略』『御産部類記』★)
5月25日 勅使を御産所に遣わす
天暦四年(950)5月25日壬戌、中使蔵人中務丞信孝が御産所へ来た。(『御産部類記』★)
5月26日 皇子憲平、御三夜
天暦四年(950)5月26日癸亥、皇子憲平の御三夜があった。(『御産部類記』★)
5月28日 皇子憲平、御五夜
天暦四年(950)5月28日乙丑、皇子憲平の御五夜があった。(『御産部類記』★)
5月29日 律師明達が度者を賜る
天暦四年(950)5月29日丙寅、律師明達が度者を賜った。(『御産部類記』★)
閏5月
閏5月1日 皇子憲平、御七夜
天暦四年(950)閏5月1日丁卯、皇子憲平の御七夜があった。(『御産部類記』★)
閏5月5日 皇子憲平、産養
天暦四年(950)閏5月5日辛未、太皇太后藤原穏子が皇子憲平の御産養を行った。(『御産部類記』★)
閏5月14日 皇子憲平、御三七夜
天暦四年(950)閏5月14日庚辰、皇子憲平の御三七夜があった。(『御産部類記』★)
6月
6月10日 御体御卜奏
天暦四年(950)6月10日丙午、御体御卜奏が行われた。(『御産部類記』★)
6月17日 大般若経転読
天暦四年(950)6月17日癸丑、藤原師輔は憲平親王のために東一条邸において大般若経を転読させた。請僧十二口の中、僧都一人(禅喜)、律師(覚恵)、凡僧十口。これは、憲平親王が来月十日に藤原遠規宅からお移りになるからである。(『九暦』)
6月25日 臨時御読経
天暦四年(950)6月25日辛酉、臨時御読経が結願した。終わった後、御前に召して仰って言ったことには「今月の御体御卜に言ったことには『七月上旬の行幸により、もしくは御薬のことがあるか』ということだ。今、事を案じたが、十六日はすでに七月節に入っていた。どうして障りを恐れるところがないだろうか。よって書状を中宮に奉った。報命に言ったことには『このことはしっかり考えた上で行うように。国家の大事であるから、愚心は計り難い』ということだ。ただし、まずは期日を定めた後で上皇の処分を請う。明日陰陽師を召し、吉日を選び申させよ」と。退出の後、藤原伊尹に奏させて言ったことには『誰にこれを選ばせますか。また、どこで勘文を進めさせますか」と。仰って言ったことには「先帝の御日記に言ったことには『延長三年、故太政大臣は左大臣であった。陰陽頭氏江一人を大臣家に召し、勘申させた』と。そこで、すぐに陰陽助平野茂樹を召し(この間、(陰陽?)頭はいなかった)、大臣家において勘申させよ」と。(『九暦』)
6月26日 陰陽寮が行幸の吉日を勘申
天暦四年(950)6月26日、藤原師輔は平野茂樹を召し、勘文を進めさせたことには「来月二十三日戊子がもっとも吉です」と。午の刻、参内した。藤原伊尹にこれを奏させた。仰って言ったことには「件の日に遂げ行うように。先例では皇太子を立てた後、幾日を経ず東宮もしくは職曹司に入った。しかし、東宮の凶事の後すでに数十年に及び、荒涼はすでに甚だしい。職に至ってはまた、憚るところがある(延喜の次の皇太子が東職において夭逝した)。宮中で便のある所を尋ね求めると、修造の間、もしくは数月を経るだろうか。先例に背くのを恐れる」と。奏して言ったことには「このようなことは、便宜に従って行われるべきです。昔にある東宮及び職曹司は破損がありません。よって、早く移り入りましょう。当今、この両所は雑舎が顛倒し、残る所はいくつもありません。また、諸司の間はたちまちその所がありません。そればかりではなく、秋三月は王相が西に在ります。皇子の居処は宮城の東に当たり、便のある所を選んで三ヶ月の間修理を加え、移徙を行うのがもっともよろしいでしょうか」と。仰って言ったことには「申す所、その理がないわけではない。しかし、庶事は先例により行うべきである。もしくは数月、里第にいれば、後代の謗りを遺すのではないだろうか」と。重ねて奏して言ったことには「太上天皇の譲位の後、一日も宮中に留めてはなりませんでした。しかし去る天慶九年四月、禅位の後も上皇はなお弘徽殿にいらっしゃり、七月になって朱雀院へお出ましになりました。これは、夏三月、南方の王相によるものです。また、皇后は数日も人家に住んではなりませんでした。しかし当今の太后は、延長元年四月に立后しました。太政大臣の五条家に住む間、職につき、九月になって主殿寮にお移りになりました。『これもまた、確かな例がないわけではないといっても、新議があって行われた』ということです。これを以て謂うに、当時の定は特に難はなかったのでしょうか。もしくはなおその難が有るならば、まず居処を造り設け、そのことを行われるべきでしょうか」と。(『九暦』)
6月28日 立太子を後山科山陵に報告
天暦四年(950)6月28日甲子、村上天皇は参議大江維時を後山科山陵に遣わし、立太子のことを告げた。(『日本紀略』『九暦』★)
7月
7月2日 藤原師輔、皇子憲平の息災を祈る
天暦四年(950)7月2日丁卯、今日から始めて三日間、今宮(皇子憲平)のために御息災のことを祈らせる。使者の僧は八幡(春暹)、平野(寛仁)、賀茂上(正賀)、賀茂下(延喜)、春日(義合)、大原野(顕朝)、稲荷(辰応)。同日、所々の破損ならびに築垣などを修理させるため、南侍御領の西殿(九日、家に帰る)に渡り向かった。料物を円賀師のところへ送り、今宮のために今日から始めて二十一日間、聖天を供させる。また、横川良源のところにおいて、同じく二十一日間、火供を奉仕させる。また、今日から二十五日に至るまで広隆寺・清水寺・法性寺の三ヶ所の寺において、同宮のために毎日諷誦する。施物は、寺別に日毎に各調布一端。(『九暦』)
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天暦五年(951)
1月
1月2日 東宮大饗
天暦五年(951)1月2日甲子、諸卿が朱雀院に参った。次いで、東宮(憲平親王)の饗所に参った。物忌により、后宮(藤原穏子)の饗はなかった。(『西宮記』)
1月3日 東宮拝礼
天暦五年(951)1月3日乙丑、東宮の侍臣・大夫以下が南庭において拝し奉った。四位・五位一列、六位一列、北面東上。昼に御座を撤収し、掃部寮の倚子を立てて伺候した。母屋の御簾を垂れ、庇の簾を巻いた。昨日の雨により、今日これを行った。(昨日、大饗があった。)(『西宮記』)
1月4日 法性寺御八講/朝覲行幸
天暦五年(951)1月4日丙寅、法性寺において御八講があった。後院もしくは一院が行った。(『西宮記』)
村上天皇は朱雀院へお出かけになった。(『近衛家文書』)
1月5日 卯杖/朝覲行幸
天暦五年(951)1月5日丁卯、村上天皇が紫宸殿にお出ましになり、卯杖のことがあった。(『近衛家文書』)
村上天皇は二条院へお出かけになり、太后(藤原穏子)を拝した。(『御遊抄』)
1月7日 叙位
天暦五年(951)1月7日己巳、叙位の議があった。(『公卿補任』)
1月13日 二条院行幸/東宮帯刀手結
天暦五年(951)1月13日乙亥、村上天皇は二条院へおでかけになり、太后(藤原穏子)に謁し奉った。朱雀上皇が絃歌を奏した。(『御遊抄』)
東宮帯刀手結が行われた。左近弓場でこれを行ったということだ。帯刀弓場は、木工寮が未だ作っていない。そこで、この弓場で行ったということだ。(『西宮記』)
1月14日 御斎会内論議/左大臣大饗
天暦五年(951)1月14日丙子、未一刻、重明親王は参内した。未二刻、内論議の法師たちが参った。「寛空僧都が加持の香水を進めました。延珍律師が兀子の北に立って僧名を読んだことは、去年のとおりでした。未三刻、論議が終わりました」ということだ。(『御質抄』)
御斎会。「事が終わって、王卿を率いて左大臣(藤原実頼)の四条第に至った」ということだ。これより先、楽人に衝重の食を賜った。四曲終わって、重明親王はすぐに退出した。(『北山抄』)
申三刻、御前の内論議が終わった。左大臣(藤原実頼)の大饗があった。藤原師輔は退出して東宮に伺候した。申四刻、府の中将朝成が請客使として来た。師輔はすぐに進み向かった。拝礼した。自余のことは、通例のとおりであった。左大閤が前日に示して言ったことには「致仕の宰相を必ず招きたい」と。しかし今日に及び、そのことはなかった。(『九条殿記』)
1月15日 右大臣大饗
天暦五年(951)1月15日丁丑、右大臣家(藤原師輔)は東殿において大饗を行った。午の刻に納言以下が来て集まった。よって、府少将真忠を請客とした。申四刻、尊者が入ってきた。史生を召した後の雅楽の舞は通例のとおりであった。前例があることにより、致仕参議保平を喚んだ。再拝し、座に着した。自余のことは、通例のとおりであった。(『九条殿記』『西宮記』★)
1月17日 射礼
天暦五年(951)1月17日己卯、射礼が行われた。(『北山抄』)
1月22日 鹿嶋・香取の奉幣使発遣
天暦五年(951)1月22日甲申、鹿嶋・香取両社の奉幣使を発遣した。(『類聚符宣抄』)
1月23日 内宴
天暦五年(951)1月23日乙酉、内宴が行われたとき、式部卿重明親王が琴、左大臣藤原実頼が箏、中務大輔源博雅が和琴、侍従延光が琵琶、散位藤原朝忠、右近中将藤原朝臣が笙を務め、春鶯囀、席田、葛城などを奏した。その後、平調曲もあった。(『古今著聞集』)
1月30日 除目
天暦五年(951)1月30日壬辰、除目の議があった。(『公卿補任』)
2月
2月13日 二条院行幸/紅梅宴
天暦五年(951)2月13日乙巳、村上天皇は二条院へお出かけになった。紅梅の宴があった。寝殿の西廂に両帝の御座を装った。朱雀上皇は北面。村上天皇は南面。左右大臣(藤原実頼・藤原師輔)を召した。両帝の御前は中宮(藤原穏子)が儲けられたということだ。(『西宮記』)
2月17日 官奏
天暦五年(951)2月17日己酉、初めて官奏があった。左大弁は非参議といえども、大臣が奏を見る間に召して参議の座の末に着した。(『西宮記』)
2月22日 源保光を文章生に補す
天暦五年(951)2月22日甲寅、参議従四位上源保光を文章生に補した。(『公卿補任』)
3月
3月2日 官奏
天暦五年(951)3月2日癸亥、奏文は四枚であった。そのうちの二枚は、国々が怪異を言上した解文であった。重日によりこれを止め、二枚を遣わしたところ、前例があるといっても近い例がないことにより奏しなかった。(『北山抄』)
3月10日 源等 卒去
天暦五年(951)3月10日辛未、参議正四位下源等が卒去した。(『公卿補任』)
3月16日 殿上賭弓
天暦五年(951)3月16日丁丑、左大臣藤原実頼が御読経の請僧を定め行った。今日、殿上賭弓があった。申の刻、王卿を召した。殿上・非殿上、みな預かり参った。これは仰せによるものである。また、前後の射手はそれぞれ障りがあり、六人だけ伺候した。時に臨んで王卿に仰せ、射手に加え入れたということだ。左右対称が奏を進めた。(『西宮記』)
3月20日 季御読経
天暦五年(951)3月20日辛巳、季御読経が行われた。(『西宮記』)
仰せにより、藤原師輔は仁王会の請奏を定め行った。左大弁朝綱を参議の座に召し着した。書かせ終わって奏聞した。ただし、検校の書出を奏しなかった。両大弁が参議ではないときの例を勘出しなかったことによる。(『西宮記』)
3月21日 非参議大弁の例
天暦五年(951)3月21日、非参議大弁の例を調べ行事弁の上に加え入れた。かの例によって書き出し、これを奏した。ただし検校は民部大納言・治部宰相である。(『西宮記』)
3月23日 花宴
天暦五年(951)3月23日甲申、坤の方角に楽所を儲け、御殿の砌の下に侍臣の絃歌の者の座を給わった。(『北山抄』)
4月
4月5日 斎院御禊前駈定
天暦五年(951)4月5日丙申、外記正統が言ったことには「左閤(藤原実頼)が命じて言ったことには『所労があって参らない。参入の上をして御禊の前駈のことを申し行わさせよ』」ということだ。宰相が伺候していなかったことにより、右大弁藤原有相に書かせた。降雨のため、藤原師輔は自ら参上せず、件の弁に奏させた。(『西宮記』)
4月8日 灌仏
天暦五年(951)4月8日己亥、藤原師輔は陣の座に着した。申の刻、上達部を召した。灌仏は通例のとおりであった。座を起って進退するとき、また廂第三間を用いた。しかし、義方が言ったことには「通例では、四間を用います」ということだ。(『西宮記』)
4月28日 太元帥法
天暦五年(951)4月28日己未、阿闍梨円照が太元帥法を修した。天変・怪異により七日間修された。(『三僧記類聚』)
5月
5月23日 除目
天暦五年(951)5月23日甲申、除目の議があった。(『公卿補任』)
6月
6月9日 忌火御膳
天暦五年(951)6月9日己亥、御膳。沈香の折敷四枚。瓶には秘色を用いた。(『花鳥余情』)
6月10日 御体御卜奏/直物
天暦五年(951)6月10日庚子、院雨。「左大臣(藤原実頼)が参内し、御体御卜を奏しました。内侍が伺候していなかったことにより、大臣が参上して奏させました。次いで、直物の文を奏しました」ということだ。(『西宮記』)
6月19日 賑給
天暦五年(951)6月19日己酉、東西の京に賑給があったのは、通例のとおりであった。(『年中行事秘抄』)
7月
7月8日 伊勢大神宮奉幣/文殊会
天暦五年(951)7月8日戊辰、文殊会の日であった。伊勢大神宮への奉幣が行われた。(『西宮鈔』)
7月25日 承子内親王 薨去
天暦五年(951)7月25日乙酉、承子内親王が薨じられた。(『一代要記』)
10月
10月1日 旬
天暦五年(951)10月1日己丑、去る月の晦のときに諸卿に問われて言ったことには「諸の節会といっても、禄物を下給せずになおこれを行う。これはよいことではないといっても、行き来していることはすでに久しい。九日節に至っては禄を下給しなかった例はない。十月の宴は九日に准える宴である。しかし、諸国の綿が進納されることはない。ならば、件の節を停めて禄を下給しないといってもなお行う間、よろしく定め申すように」と。左大臣(藤原実頼)以下が申して言ったことには「諸の節会は、禄物を設けて行われるべきものである。しかし、年来の例により諸国が遅く進納するといっても、禄がなくてもなお行うべきである。件の節は去る年に初めて行われた。今年停止させるのは便がないであろうか。それだけではなく、九日の節は多く風水の損により、停止したものである。しかし、今年はすでに豊稔の聞こえがある。禄物がないことにより件の宴を停めるといっても、数のごとく設けず、少しばかり行われるのがよろしいか」と。(『九条殿記』)
左大弁朝綱が仰せを伝えて言ったことには「菊花の宴は今年以後、長く五日を以てこれを行う。その由の宣旨を諸司に下すように。ただしその日が御物忌に当たればまた思惟し、定めるよう仰す」と。(『九条殿記』)
10月2日 菊花宴について
天暦五年(951)10月2日、左大弁が藤原師輔のもとに来た。仰って言ったことには「御物忌といっても、なお御出するように。早く宣旨を下すように」と。すぐに大外記実相真人に事の由を仰せ終えた。(『九条殿記』)
10月3日 菊花宴を行う日について
天暦五年(951)10月3日、内豎が来て言ったことには「左大史海宿禰業恒が仰って言ったことには『右大臣(藤原師輔)が宣す「花宴は今年以後十月五日を以て行うように』と」と。この日、重明親王は花宴を五日に定める宣旨を省に下した。(『西宮記』)
10月5日 残菊宴
天暦五年(951)10月5日癸巳、残菊宴が行われた。(『九条殿記』『西宮記』★)
10月9日 藤原慶子 卒去
天暦五年(951)10月9日丁酉、女御正五位下藤原慶子が卒去した。(『一代要記』)
10月26日 賀茂御祖社幣殿焼亡/東宮御魚味始
天暦五年(951)10月26日甲寅、賀茂御祖社幣殿が焼亡した。(『永昌記』)
東宮御魚味始があった。(『御産部類記』★)
10月30日 後撰和歌集
天暦五年(951)10月30日戊午、蔵人左近衛少将藤原伊尹が撰和歌所別当に任ぜられ、河内掾清原元輔、讃岐掾大中臣能宣、学生源順などが昭陽舎において万葉集に訓點を施し、後撰和歌集の編纂を始めた。(『本朝文粋』)
11月
11月1日 春日祭使の停止
天暦五年(951)11月1日己未、春日祭使は突然の穢により停止となった。外記、大祓があることを告げ送った。そこで参った。先例がないことにより、祓のことはなかった。(『西宮記』)
11月19日 賀茂御祖社奉幣
天暦五年(951)11月19日丁丑、賀茂御祖社へ奉幣が行われた。(『西宮記』)
11月22日 豊明節会
天暦五年(951)11月22日庚辰、豊明節会が行われた。(『政事要略』★)
11月23日 東宮鎮魂祭の停止
天暦五年(951)11月23日辛巳、東宮鎮魂祭は穢により停止となった。(『西宮記』)
12月
12月5日 賀茂臨時祭/重明親王 帯剣/源重信 昇殿
天暦五年(951)12月5日壬辰、賀茂臨時祭が行われた。重明親王に帯剣を許した。参議従四位上源重信の昇殿を許した。(『北山抄』『西宮記』★)
12月23日 荷前
天暦五年(951)12月23日庚戌、荷前使を発遣した。(『西宮記』★)
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年表一覧
朱雀天皇時代
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